第3話 あの後のあなたと同じようにね

 祖父とヨリはいつもここに二人きりで、過ごしていたのだろう。

 正樹が五歳の頃、祖父がヨリをどこからか連れてきて、暮らし始めた。

 父は四十五歳で、母は三十半ばだった。

 ヨリは日本人形のような綺麗な髪で、男の人を上目遣いで見つめる。祖父が買ったであろうちりめん生地の着物風ドレスを身に纏い、十五歳のヨリは父と母の前で、深々と、「お世話になります」とお辞儀した。ヨリの登場に驚いた両親は、はやくヨリを元の家に帰すように祖父を説得しようとした。祖父は少女の所有権を頑として譲らずにいた。それから二年が過ぎて、母が失踪し、祖父が死に、ヨリは父の養女になった。


 ヨリは成長し、家では足首まである長い白のキャミソールワンピースを着るようになった。外に出るときは膝あたりまでのコンサバ系のフレアスカート。バーに行くときは、灰色の柔らかな生地の服ばかり着ていた。

 祖父や父に食べさせていたヨリの料理は、ほとんどがワインのつまみで、にんじんやじゃがいもを焼いたもの、ブルーチーズやブリー。それから鴨。成城石井で買い込んだ品々だった。ヨリは成城石井を石井君と呼んでいた。正樹と「石井君、一緒に行く?」と言い合ってよく出かけた。石井君がほとんど料理を完成させてくれるので、母がいなくなってから、台所は一階も二階もいつもきれいだった。


 フォーだけで父の腹が満たされるはずはない。中年のだらしない腹をヨリの手料理で満たしたあと、その出っ腹の下で悶え悦ぶヨリの姿をかき消したいために、正樹は彼女の住まうラブホ代わりの寮に向かいたかった。が、あの足の臭いを思い出して萎えたし、キスマークはまだ取れていなかった。美しいヨリのところに戻りたい。抱き合って、清潔で良い匂いのなか眠りたい。


 おどされているわけでもないのに、正樹は自分の部屋から出られないでいた。出る意味を見つけられないでいた。父は二階だ。Tシャツを脱いで、もう一度、馬油とレモン汁を交互に塗った。痕はまったく消える気配がなかった。


 正樹はバーに向かって自転車を走らせた。


 何を選んでいいか分からなかったので、ヨリから教わった酒を頼りにするしかなかった。父やヨリも、ここに飲みに来る。家族ぐるみの常連客だった。ヨリがよく飲むモヒートを二杯ほどカラにした頃、ヨリが店にやってきた。

「よっ、正樹君のお姉さんもきたね」とマスターが言った。

「姉ちゃんも来たー」

 正樹は酔っぱらいながらも、外向きにヨリのことを「姉ちゃん」と呼んだ。外部の人間の前で姉を意識して、家の中では姉でなくなることが、正樹にとって安心できることだった。姉であり、姉でないことが、コントロールできることに、居場所に似た気持ちを得ていた。その安心のために、親しみを込めて姉ちゃんと呼ぶ。


「はい、お姉さん、おつかれさま」とヨリはマスターからミントの葉が乗せられた細長いグラスをもらっていた。ヨリはモヒートを必ず飲んだ。細かく砕かれた氷の隙間にストローが差し込まれている。

 正樹は三杯目でビールを注文した。グラスに注いだビールの泡を、スプーンですくって、表面に残る大きな泡が捨てられる。もう一度細かい泡が注がれてカウンターに出される。

「はい、お待たせ」とマスターは言った。


 ヨリに「親父はこないの?」と正樹が言うと、少し困った顔をしながら「すぐ寝ちゃった」と答えた。「あの後のあなたと同じようにね」と言葉に含まれているようだった。


 ヨリはゆっくりと酒を飲む。正樹もペースを合わせながら、何度もトイレに席を立った。ヨリがこのバーに来て、トイレに立つところを見たことがなかった。バーには、カウンター席とソファ席があって、客でいっぱいだった。マスターは正樹らにかまわず、忙しく立ち動いていた。


 姉と弟は顔を近づけあった。「キスマークがまだとれない」と正樹が小声で言った。ヨリはほほえんだあと、さらに顔を近づけて、髪の毛が正樹の腕に触れるようにしながら、「じゃあ、彼女と何もできなくて大変だね」と言った。正樹の安心感がさらに増した。さっきまでの苛立ちがすっと無くなっていくのがわかった。

「彼女なんていないよ」

 正樹の言葉をヨリは鼻で笑った。

「大学は忙しい?」

「別に。石頭の先生以外はね。嫌がらせみたいに、必修の講義を月曜日の午前中に持ってくる年寄りがいるんだ。そこで自動販売機のプログラムを書く演習してる」

「へーすごい」

「いや、ぜんぜん」

 父への苛立ちも次第に消えていく。

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