我らの船

 風も光もさらに強くなり、目を開けていられなくなった。立っているのさえも覚束ない。しゃがみ込むハサンの耳では、笑い声が渦を巻いていた。ハサンは耳を塞ぎ、目を固くつむった。ばりばりと、何かが壊れていくような音が聞こえた。そしてその中に、高らかな声が聞こえた。「――さらばだ、人間ども!」


 何か、強い衝撃がハサンの身体を襲った。死んでしまうかもしれない、とハサンは思った。ああ、死にたくない、死にたくないものだ――! 身体を縮こませながらハサンは思った。ハサンは船のことを思った。仲間のことを思った。あの場所に帰りたい……。意識を朦朧とさせながら、ハサンはそんなことを考えていた――。




――――




 ――光が、といってもあの恐ろしい強い光ではなく、ハサンが慣れ親しんでいる、太陽の光が、うっすらと開かれた瞼の間から飛び込んできた。ハサンははたと意識を取り戻した。確認するのに時間がかかったが、どうやら自分が海の上にいるらしいということに気付いた。波の揺れが伝わってきた。そして自分はどうやら船の上にいるようで……あの小舟だ。あの奇妙な島まで行った、あの小舟の中にいるのだ、とハサンはようやく気付いた。


「おい、大丈夫か!?」


 心配そうな声が聞こえた。ターヒルだった。ハサンは起き上がって、無理にでも笑顔を作ってみせた。


「……大丈夫だ。どうやら怪我もないし。それにしても……」

「気づいたら、この小舟にいたんだ。……何が起こったんだろうな?」


 ターヒルを初め、アジーズも船長も、一緒に島に行った面々は全員、小舟に乗っていた。みながまだ混乱している中で、そのうちの一人があることに気付いた。


「見ろ! 島がないぞ!」


 その言葉で小舟の全員が島を探し始めた。しかし島はなかった。どこにもなかった。最初に沈黙が訪れ、それから歓喜の声が上がった。みな、それぞれ周りのものと腕をとったり抱き合ったりしながら、大いに喜んだ。


「おれたちの船が見えるぞ!」


 そう遠くないところに、懐かしい、彼らの本船が、まるで何事もなかったかのようにどっしりと海面に佇んでいた。ふっくらと曲線を描き、優美に船尾と船首が伸び、多少汚くはあったものの、しかし彼らの愛する船であった。「さあ、漕げ! 戻るんだ!」 船長が命令した。人々はたちまち仕事にとりかかった。


 ハサンはふと、口にした。


「一体、あれは何だったんだろうな」


 あの島は、あの女王は、そしてあの珠は……。それを聞いたアジーズが静かに言った。


「わからない。たぶん、おそらく――何か妖魔の類だったのだろう、あの女王は。珠だって彼らの属するものだったのだろう。人間にはどうにもならないものさ。これでよかったんだ」

「そうだぞ」と、近くにいたターヒルが続けた。「これでよかった――返してよかったんだ。いいか、ハサン、人のものをとってはならんぞ」


 ……まだ言ってるし……とハサンは思ったが、しかし黙っていることにした。ハサンは珠のことを考えた。そして、自分が鳥に乗って空を飛んだことを考えた。今となっては信じられないことだった! でもあれは現実で……現実……そうなのかな? 夢を見ていたのだろうか。


 現実ならば、自分は魔術師の封を解き、動物を操って、そしてあの珠の所有者となってもっとすごいことも……。いや、やめておこう。とハサンは思った。今更どうかなるものではなし。アジーズの言う通り、これでよかったのだ。そう思うことにしよう。


 海は凪いでいた。日の光が海面に反射し、いくつものかけらに分かれて、きらきらと輝いていた。水平線が広がり、全てはあるべき姿に戻ったようだった。小舟は進み、そして彼らの偉大なる船へと近づいていた。船縁に、留守番をしていた面々が集まっていた。彼らは驚き、喜び、そして笑顔で口々に何か言っていた。そして、小舟の面々も、それに応えて大きく手を振るのだった。

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