巨大なゲーム

 ターヒルは横になったまま、相変わらず、眠りもせずに考え事を続けていた。やがてそれは今日の出来事へと変わっていった。


 今日の海は穏やかだった。航海は順調で、特に危険や困難もなく、船は輝く海の上を滑っていた。ちょうど三人には仕事がなく、退屈していて、そこでアジーズが荷物からシャトランジ(チェス)を引っ張り出してきた。一局やろう、ということなのだ。


 大きな帆の影に三人が座り、ターヒルは、自分は身体を動かすのは好きだけれど、頭を動かすのは苦手だから、と辞退し、ハサンとアジーズが勝負することになった。ハサンはシャトランジを見て、目を輝かせた。


「懐かしいなあ! 昔よくやったもんだ」

「強いのか?」


 ターヒルがハサンに聞いた。ハサンは少し考えて、「まあ……勝ったり負けたり……だな」と言った。


 勝負が始まり、ターヒルがそれを見ていたが、段々と妙な表情になっていった。試合はあっという間に終わった。アジーズの勝利だった。ハサンはあっはっはと笑い、アジーズを称えた。


「いやあ、おまえ、強いんだな!」


 ……殿下がお強いというよりも、と盤上の一部始終を見ていたターヒルは思った。ハサン、おまえが弱いのだよ……。そう、ターヒルは思ったが、なんとなく気の毒なので黙っておくことにした。


 それでもやはりつい、口に出してしまった。


「ハサン、おまえはあちこちに駒を動かしすぎだよ。それで王の周りががら空きになってしまっている。もうちょっとこう、王を守ることに意識を向けては……」

「そんなにたくさんのことは一度に考えられないよ」


 ハサンはターヒルの助言にあっさりと言葉を返した。ハサンは負けてもさほどこだわりはないようで、アジーズに、もう一度勝負をしようと持ち掛けた。アジーズはそれを受け、そしてまたもハサンが負けた。ハサンの腕は先ほどの一戦でよくわかっていたアジーズだったが、そこで手加減をしようという気持ちにはならないようだった。


 ……まったく変な男だな。暗闇の中、揺れの中、男たちの寝息の中、ターヒルは思った。王太子をお守りする――という、自分の第一の目的を考えれば、寝るときも、ハサンとアジーズの間に入って寝るべきだった。けれども、気づけばこの並びになっていた。どことなくあの男には気を許してしまうところがある……何しろ悪者には見えないし……さほど善良にも見えないが……ああでもやはり気を付けなければ……。


 眠気が、徐々にターヒルの元を訪れつつあった。知らぬ間に、ターヒルの目が閉じられた。夢と現のはざまで、ターヒルはとある光景を見ていた。というよりも、その中にいた。荒野が広がっていた。土と石くれとときどき岩とわずかばかりの草や丈の低い木が生えていた。風がふいて、砂塵が舞った。空では素早く雲が動き、太陽が鈍く輝いていた。ターヒルは戦場の騎士の姿をして馬に乗っていた。正式な、気合の入った装備であった。周りを見回せば、鎖帷子に兜をかぶり、王者の風格現るアジーズがいる。向こうには小山のような象に乗った象兵。二頭の馬にひかれた戦車もあれば大臣の姿も見え、歩兵たちの姿もあった。ここは戦場なのだ。ターヒルは思った。そしてはたと気づいた。ここは――シャトランジの世界だ。


 世界を股にかけたシャトランジが行われようとしているのだ。自分はその中の駒なのだ。そう思って、ふと、ターヒルは空を見上げた。そしてぎょっとした。そこには巨大なハサンの顔があったからだ。


 ハサンは思案気に戦場の様子を眺めていた。それはまるで、ハサンがこのシャトランジの差し手であるかのようだった。ハサンは今、駒をどう動かすべきか、考えているのだ。ターヒルはハサンに向かって言いたかった。やめるんだ、おまえは引っ込んでおけ、おまえが動かすと負けてしまう……。


 口に出してそれらのことを言ったようにも思ったが、ハサンには届いていないようだった。ハサンはゆっくりと、まばたきをした。長いまつげが、大きく上下に動いた。それにしてもつくづく、綺麗な顔だな、とハサンは思った。鼻筋は通り、唇は赤く可憐に引き結ばれ、目はぱっちりと穏やかに澄んでいる。眉は濃くも薄くもなく、流麗な弧を描いている。アジーズも美しいが、ハサンも負けず劣らず美しかった。


 しかしその美しい顔がどうにも癪に障った。なんとなく不愉快な気持ちになっていると、ハサンの巨体がゆっくりと動いた。手が上げられそれが地上に伸び、どうやら駒を動かそうとしているようだった。ああやめてくれ、とターヒルは思った。辺りが暗くなり意識が混濁し始め、ターヒルの脳裏に今までのハサンとの様々な光景が切れ切れに蘇った。ああ本当におまえは一体なんなんだ。ターヒルは思い、そしてハサンの笑い声が耳に聞こえ、そして、大トカゲとは一体どういうことだと憤然とした気持ちになり、それらの中で、ターヒルはさらに深く眠りに落ちていったのだった。

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