第9話 リセット

脱線事故で受けた怪我は傷跡が残ったが後遺症もなく完治した。

仕事も事故前と変わらず毎日を過ごしていのに何かが物足りない。

それが何なのかさえ自分自身でも分からず休日はダラダラと家で過ごすことが多くなった。


「頼はまた夢の続きでも見ているのか?」

「そんなんじゃないよ。夢は夢だから目が醒めてしまえば終わるもんだろ」


姉ちゃんにそんな風に言われてもはぐらかす事しか出来ず視線を外した。


「そうだ、頼。連休は取れないのか?」

「3日くらいな取れるだろう」

「それじゃ、一緒に海に行こう!」

「はぁ?」


唐突な姉ちゃんの提案というか決定が下されて子どもの頃以来の海行きが決まった瞬間だった。

そして日時も姉ちゃんの都合に合わせて休みを取らされ何が悲しいのか姉ちゃんと2人で海に行くことに。

行き場所も宿も全て姉ちゃんの独断で俺はオマケのようなモノで……



「よし、行くぞ」

「行くぞってこの車はどうしたんだよ」

「細かい事を気にする男は嫌われるぞ。今日の為に態々借りて来てやったんだ。文句を言うな」


姉ちゃんが借りてきたという車はアウディA1のホワイトカラーで仕方なく助手席に乗り込むと姉ちゃんが鼻歌交じりに車を出した。


「なぁ、聞いても良いか? この車、無線が積んであるけど」

「車に無線を積んじゃいけないという法律でもあるのか?」

「まぁ、無いけどさ。他にも問題が……」


その後に続く言葉を無理やり飲み込むと運転席の方で何やら不穏な空気が。

これ以上突っ込むと外国映画のようにこめかみに冷たい物騒な物を押し当てられてしまいそうで壊れかけのロボットのように車窓を流れる遮音壁を見ることにした。

姉ちゃんが連れて来たのは女の子に人気がある海水浴場だった。





白い砂浜には咲き乱れるようにビーチパラソルの花が咲いていてその向こうには防波堤が突き出しているので小さな港でもあるのだろう。

そんなビーチパラソルの下で俺は荷物番をしている。

俺の事を海に連れて来た当人は海にまで作務衣なのと言い残して何処かに行ったきり帰ってこない。

友達と来ようが誰と来ようがお洒落に無頓着な俺は面倒なので作務衣を着て何処にでも出掛けるのが常だ。

それはあれ以来変わっていない。

砂浜の先には青い海が見えその狭間で男と女の攻防戦と言えるナンパが行われている。

そしてカラフルな水着を付けた女の子達が波打ち際で楽しそうにはしゃいでいた。

こんな場所に放置されどれだけ虚しい時間を過ごしたのだろう。


「あのバカ。何処まで言ったんだ」


口から自然に愚痴がこぼれた時に寝転んでいる頭の上で何かが動いた気がして飛び起きるとクーラーボックスの上に長毛種の黒猫が座っている。

辺りを見渡しても飼い主らしき姿は見当たらない。


「ラオウなのか?」

「ウアーン」


独特な鳴き声を出して猫が走りだして少し先で止まり振り返るように俺を見た瞬間に追いかけるように走りだしていた。





息を切らして辿り着いた先はビーチに隣接している小さな港で人集りができていてる。

野次馬を数人の警察官が近づかないように規制している中に姉ちゃんの姿があった。


「人を置き去りにしてこんな所で何をしてるんだ」

「すまん。女の子が行方不明らしい」

「女の子? 地元の警察に任せておけばいいじゃないか」


俺がそう言うと姉ちゃんが気まずそうに俺から視線を逸らしたのを見て確信した。姉ちゃんは気まぐれで俺をここに連れて来たんじゃない。

恐らく何か理由があってだろう。

その理由は俺に関することかもしかするとあの脱線事故かもしれないと思っただけで胸がざわつく。


「あの脱線事故の被害者の中の1人の女の子の事が少し気になって調べていたら友人達とここに来ると言う情報を掴んでね」

「それが行方不明の女の子?」

「そうだ。詳しいことは話せないが歳は頼の一つ下。現時点で話せるのは幼少期からの虐待を疑われていると言うこと」


虐待と聞いた瞬間に何故かロゼの顔が浮かんでは消えた。

そして泣き叫ぶ女の声がやけに耳障りで視線を向けるとアラフォーくらいの女の人が警察官の腕を掴んで泣きじゃくっているが違和感を覚える。


すると数人の女の子グループの1人が喚き散らしていて姉ちゃんが近づいていたので仕方なく俺も後を追う。


「リセを助けて! 誰でも良いからリセを探しだして!」

「あなた達は?」

「リセの友達です。この子はリセの幼馴染で」

「あんなに綺麗な赤い髪だったのに真っ黒に塗りつぶされて……殺されちゃう」


行方不明になっているリセという女の子の幼馴染が泣き崩れながら発した言葉で何かが弾けた。

理由が分からない感情に飲み込まれる。

直感とでも言えば良いだろうか確信がある訳ではないけれどはっきり分かるモノが一つだけ。

野次馬を掻き分け走りだし捜索に向かおうとしているダイビング船に駆け寄り防波堤を蹴りだし船に乗り込む。


「俺も連れて行ってくれ」

「公務執行妨害で逮捕するぞ。貴様!」


ダイビング船に同乗していた警察官に取り押さえられてしまうが構わずに振り払おうとした時に警察官の動きが止まり防波堤に視線をやっている。


「警視せ……」

「姉ちゃん」


俺の視線の先で曲がった事が大嫌いで正義感が人一倍強い公僕がオレンジのビキニに白いタオル地のパーカーを羽織って黒い手帳を呈示すると警察官が姿勢を正し敬礼した。


「頼、行くよ。直ちに県警に応援要請! 詳しいことは船の上で。早く出して!」

「は、はい!」


姉ちゃんが港の警察官に指示を飛ばし小型のダイビング船が急発進した。

同乗している警察官の話では1時間ほど前に沖でクルージングを楽しんでいたプレジャーボートから女の子が転落し行方が分からなくなり。

ライフジャケットを装着していなかったので他のボートにも応援を要請して探しているらしい。


警察官が指差す方を見ると数隻のボートが集まっていた。

ダイビング船のインストラクターが潮の流れがどうのと警察官と話している。


「1時間か……厳しいな。流木にでも掴まっていれば」

「違う。あそこじゃない!」


インストラクターと警察官の話を遮るように声を張り上げるとぎょっとした顔で警察官とインストラクターが俺を見ている。


「頼、何をイライラしているんだ」

「俺が?」


姉ちゃんに言われて今の感情に気がついた。もどかしくて俺は苛ついていたんだ、あの迷宮の時のように。

そして神経を集中すると僅かに水音が聞こえ黙って指をさすと姉ちゃんが直ぐに指示を飛ばす。


「こいつが指差す方へ舵を切れ」

「しかし、母親の話では」

「責任は私が取る。指示に従え」



姉ちゃんに言われて警察官がダイビング船を俺が指差す方向に向かわせた。

しばらくするとかなり沖まで来ていて警察官や船を操作しているインストラクターが不安そうな顔をしている。

俺の肩を掴む姉ちゃんの手に力が籠った時に白い何かが見え何かが飲み込まれるような水音が聞こえたような気がした。


「あそこだ。白い浮き輪か何かが見える」

「急いで」

「は、はい」


前に職場で受けた救命講習で呼吸停止から2分で蘇生率が90%になり5分後では25%になると教えられた記憶がある。

躊躇っている時間などなく白い浮き輪目掛けて海に飛び込んだ。

泡が砕けシュワシュワと水面めがけ昇って行き海底はまるで闇の中のように見える。

その闇に吸い込まれるように何かが落ちていくのが見えて大きく水を掻き足を漕ぐ。

息が限界に近づき何とか抱き抱え明るい水面目掛けて急浮上を試みる。



海面から顔が出て新鮮な空気を大きく吸い込むと待ち構えていた警察官達が彼女を引き上げ俺もダイビング船に這い上がった。

彼女の肩や頬を叩いても反応はなく呼吸も確認が取れない。

姉ちゃんの顔を見ると小さく頷いたので講習通りに胸骨圧迫を30回繰り返し人工呼吸を2回行うが反応がない。

もう一度胸骨圧迫と人工呼吸を行う。


「目を覚ませ! お前は1人じゃねんだぞ!」


海上に俺自身の声が響き渡ると彼女が海水とともに胃の内容物を吐き出し身体を震わせた。

直ぐに横に寝かせ下あごを前に出し上側の肘を曲げ上側の膝を約90度曲げて回復体位を取らせて、顔を覗き込むと目は虚ろで意識は朦朧としている。

口に指を突っ込んで嘔吐物を掻き出すと溶けかけた白い錠剤の様なものが何個も出てくる。

その錠剤の様な物を姉ちゃんが白いハンカチで包むように集めて警察官に渡した。




港が近づいてくると様相が一変している。

レスキュー隊の消防車や救急車に数台のパトカーの赤色回転灯が物々しく港は警察官で埋め尽くされ野次馬が遠巻きに伺っていて事故の大きさを物語っているようだ。

ダイビング船が港に接岸すると直ぐに救急隊が彼女を担架に乗せて救急車に向かいその後を追う様に歩き出す。

救急車の前には車載用のストレッチャーが待ち構えていて彼女を乗せると車内に押し込まれ、一緒に母親が乗り込もうとしたのを姉が警察手帳を見せて止めた。


「こんな事をして唯で済むと思っているのかしら」

「女刑事だか知らないけどな。奥様の邪魔をするのは見当違いだろうが」


港を出た時には気付かなかったが母親の後ろにはボディガードにしてはガラの悪い男が立っていて姉ちゃんに凄んで見せた。

そんな男に一瞥して姉ちゃんは母親の目を真っ直ぐに見ている。あの目は嘘を見抜こうとしている時のものだ。

子どもの頃に何度見透かされたことか。


「娘さんはお母様がお話になった場所とは全く別の場所で発見されました」

「潮の流れもあるのだから捜索ミスでしょ。あなた方警察の落ち度を私の所為にする気かしら」

「それと娘さんの嘔吐物の中に大量の白い錠剤が出てきました。恐らく睡眠薬の様な物だと思いますが」

「し、知らないわよ。娘が勝手に飲んで自殺でもしようとしたんじゃ」


明らかに母親の様子がおかしくなり狼狽えている様にしか見えない。

それでも後ろの男は動じずに母親を気遣う様な素振りをしている。


「救急車を急いで出して」

「勝手なことをしないで頂戴」


姉ちゃんの指示で救急車が走りだすと母親が後を追う様に小走りになる。


「署までご同行願えますよね」

「ふざけるな!」


ガラの悪い男に抱えられるようにして母親が近くに止めてあった車に乗り込もうとすると姉ちゃんの声が天を貫いた。


「確保!」


警察官に取り囲まれて母親は立ち尽くし数人の男達が取り押さえられ口々に何かを喚き散らしている。


「詳しいことは署で伺います。これが殺人教唆に当たれば殺人罪が適用されます。それと虐待についてもお話をお聞かせ願いましょうか」

「そんな……」


野次馬が見守る中をパトカーに乗せられて母親達が警察署に連れられていく。

レスキュー隊の消防車も帰っていき野次馬が散り始めた。


「弟君もご一緒に」

「俺もですか?」


いきなり警察官に弟君などと言われ赤い流線型回転灯が屋根に乗せられた黒いランクルを見るとランクルの横で姉ちゃんが手招きしている。

何が弟君だよガチで体育会系の組織なんだから。

まぁ、姉ちゃんが言うことは絶対だし同じ体育会系か。それに彼女を助けたのは俺なんだから従うしかなさそうだ。


車の中で姉ちゃんが事の次第を俺にも分かるように噛み砕いて教えてくれた。

ある組織を調べていると不明瞭な資金の流れが浮かび上がりそれを辿ると組織とは全く関係ない資産家に行き当たったらしい。

その資産家の奥さんは幼い子どもを残し旅立ち資産家の父は子を不憫に思い新しい妻を娶ったが子と折り合いが悪かった。

しばらくして資産家の父も亡くなり莫大な資産を相続することになるが父の遺言状が更に子と継母との関係を最悪なものにした。

継母には暮らす家と生活には困らないだけを残りは子どもにというものだったらしい。

警察署で事情説明という名の調書を取られたが姉ちゃんが言うとおりに答えるとすぐに開放された。




「何で俺が……」


大きな病院の前で途方に暮れていた。

確かに見つけてだして助けたのは俺だけど何で俺が彼女の状態を確認しに来なければならないんだ?

姉ちゃんなら電話一本で事足りるはずなのに。そんな事を考えていると不意に数人の気配を感じ身構えてしまう。


「君達は確か彼女の友人の」

「は、はい。リセを助けて頂き本当に有難うございました」


日が傾きかけ朱色になりかけた空の下で彼女の友人達が頭を深々と下げていた。

どうやって見つけたのかと聞かれても返答に困ってしまうので話を逸らす。


「こんな所でどうしたの?」

「様子を見に行きたいけれど……」


彼女達の視線の先には病院の入り口があるのだがここは警察署かと思えるように警察官が長い警棒を持って仁王様のように警備にあたっていて病院に出入りする人を全てチェックしている。

事件の全貌が解決していないし莫大な遺産が関わっているので彼女の安全を第一に考えての事なのだろう。

まぁ、姉ちゃんが指示したと思えば簡単に答えは導き出せる。

で、俺か……動かなければ何も変わらない。



「皆は無理だから1人だけなら一緒に」

「宜しくお願いします」


彼女の幼馴染が友人に後押しされ一歩踏み出し頭を下げた。

入り口で名前を告げると別の私服警官が案内してくれるようだ。後を着いて行くと至る所に警察官が居て彼女の病室が特定できないようにしている。

病院の最上階に連れて行かれカードキーを渡された。廊下には監視カメラが幾つか設置され厳重なセキュリティになっている。

カードキーで病室に入るとそこはまるで高級マンションの一室のようになっていた。

ソファーが有り奥にはキッチンらしき設備も見える。そして反対側の奥にあるベッドに彼女が寝ているようだ。

看護師が様子を見に来ていて俺達に軽く会釈をして何も言わずに出て行った。

仕方なくソファーに座り姉ちゃんから聞いた彼女の様態を説明する。


「そうなんですか。リセとは幼稚園の頃から友達で今の母親が来てからリセが変わってしまったんです。お母さん似の赤い髪は黒く染められてあんなに元気だったのに無気力になって。それでも私達と居る時は楽しそうにしてくれました。今回も母親が許してくれたからと海に遊びに来て」

「事件に巻き込まれたと。こんな事を俺が口に出すべきでは無いと思うけどチャンスを狙っていたんだと思う」

「もしかして……」


継母は彼女を亡き者にして遺産を独り占めしようと企てていた。

幼い頃から虐待を繰り返し自殺に追い込もうとしていたのかもしれない。彼女の唯一の光が友達だっただろう。

そんな大切な友達から誘われれば海に遊びに行かないはずがない。

千載一遇のチャンスを見逃すはずもなく計画を実行した。恐らく家族でクルージングに行くことを条件に遊びに行くことを許したのだろう。

幼い子どもは虐待されると自分が悪いんだと思い込んで良い子になるというマスクを被りニコニコして親に嫌われないようにする過剰な反応を示す。

幼馴染の言葉から彼女は自分がされてきた事を外に向けるような粗暴な話は聞かないので友人はとても大切な光りだったのだろう。

そして自分の存在価値すら無価値だと感じるようになり自尊感情が低下する。

さらにそんな状況が続くと無気力に陥り高い緊張感から集中力がなくなり親の言いなりになると姉ちゃんが言っていた。

そんな彼女に大量の睡眠薬を飲ませ小さな穴を開けて水溶性のボンドか何かで穴を塞ぎ仕掛けを施した浮き輪に乗せて海上に放置することなど俺の想像の域を出ないが容易いだろう。


「それと助けてくれた人に言う事ではないんですけどリセは拒絶反応を示すくらい男の人が苦手で」

「多分、男に押さえ付けられて虐待を受けていたんだと思う。幼いころは肉体的に成長するに従い虐待の痕跡を残さないように精神的に」

「それじゃ、リセは」

「君が思っているような虐待は受けていないと聞いている」


命に別状が無いことと長年に渡り虐待を受けていたにも関わらず汚されていないと言うのが救いだろうか。


「あの、こんな事を聞いていいのか分からないんですけど海に来ていたのは偶然ですか?」

「偶然じゃないかな。俺の姉は曲がったことが大嫌いで正義感が強い公僕でね。今は地位の高い所にいて…… 猫だ。黒い長毛種の猫に導かれて」

「うふふ、お兄さんも変な事を言うんですね。リセも夢の様な話が大好きで。そんな猫を昔は飼っていたらしいです。でも新しい母親が来てから居なくなってしまったって」


中二病のような事を口走り思いっきり笑われてしまう。

その猫は遠くに捨てられたか遺棄されてしまったのかもしれない。

彼女の幼馴染との会話が無くなると病室には静寂が訪れ疲れからか知らぬ間に眠りに落ちていた。



しばらくして夢現でいるとあの猫の鳴き声が聞こえるがここは病院で猫がいるはずもない。

すると側頭部を固めのクッションで殴られたような衝撃を受けて目を覚ます。

それは俺があの世界でラオウに張り倒された時の感触と似ていた。

ベッドに視線をやるとモゾモゾと動きだし寝言に近いような声がする。


「おい、起きろ。あいつが目を覚ました」

「ほ、本当に?」


俺と同じように眠りに落ちていた彼女の幼馴染を起こすとベッドに駆け寄って泣いている。

直ぐにナースコールを押すと医師と看護師が駆けつけて彼女の容態を確認して大きく頷いている所を見るともう問題はなさそうだ。

明日にでも警察が事情を聞きに来るだろう。


「リセは本当に心配ばかりさせて」

「ごめんね、菜々。また、負けちゃった。でも夢の中であの人が呼んでくれたの。私は一人じゃないって」

「そうなんだ。良かったね」


声をかけるべきか悩んでしまう。

あのダイビング船の上にいた者しか知らない俺の叫びが意識の無かった彼女には届いていた。

それでも顔はロゼによく似ているが本人と言うことはないだろう。取り敢えず気になっていた事を無難に聞いてみる。


「なぁ、リセはハーフなのか?」

「違うよ。リセはニックネームかな。新しい母親が来てからリセットしたいが口癖になって戒めの為に私達がリセって呼ぶようになったの。本当の名前は澪だよ。そう言えば自己紹介してなかったね。私は澪の幼馴染で親友の菜々。あなたは?」

「菜々、誰かいるの?」

「リセ……じゃない。澪を助けてくれた人だよ」


俺が自己紹介しようとするとベッドの方から声がして彼女の幼馴染の菜々が俺の腕を引っ張った。

すると彼女の大きな紅玉に似た瞳から大粒の涙がこぼれゆっくりとベッドに腰掛ける。


「会えた……夢じゃないよね」

「さんずいに零で澪か。友達からで良いのかな?」

「友達なんて嫌だ。何もいらないから私をあなたの大切な人にして下さい」

「あの時からずっと俺は澪のものだよ」


澪が声を上げて泣きだし親友の菜々が豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔をしてから大騒ぎになってしまう。

ドサクサに紛れて澪にキスすると澪が更に泣きだし騒ぎが大きくなった。




「頼、私は彼女の状態を見に行けと命じた筈だが病室内で大騒ぎするとはどういう了見なんだ。もしもとは思うが私の立場を知らないわけ無いよな」


宿泊先であるホテルの一室が取調室になっていた。

目の前にある籐のテーブルも座り心地のいいソファーも全てが冷たいスチール製に感じてしまう。

部屋に飾ってある絵画がマジックミラーに見えきた。

今まで何人の犯罪者がこんな厳しい取り調べを受けてきたのだろうと思うと涙が出そうになる。


「泣いたらどうなるか解ってるよな。頼」

「執行猶予か情状酌量を……」

「まぁ、彼女が目を覚ましたのなら諸事情を考慮して取り敢えず無罪だな」

「取り敢えず?」


そんな無罪が何処にあるのだろうと考えていると姉ちゃんがこれから男を見せろと言い放った。


「まぁ、あっちの世界ではキスだけじゃなくて契約を交わした訳だから……」

「ほう、キスだけでは気が済まず強引に身体に契約の印を施したと」

「俺からじゃないから…… ギブ! ギブ! 今度は俺の目が醒めなくなるから」


姉ちゃんの周りの温度が絶対零度まで下がり北斗神拳も真っ青な早業でバックチョークを決め俺の首を締め上げる。

いくらタップしても力を緩めず本当に夢の国に行く手前で開放された。


「はぁ、ちゃんと向き合うつもりがなければ病室でキスなんかするか!」

「上等じゃねえか」


姉ちゃんが鋭い眼光で真っ直ぐに俺の目を見ているが俺も退く気なんて全くない。

次に姉ちゃんが何か仕掛けてくれば反撃するつもりだ。勝てるかどうかじゃなく前に進むために。


「やめ、やめ。そんなマジな顔をされたら姉ちゃんだって敵わないよ。好きにしな。ただし、もう逃げるなよ」

「分かった」


短く答えると姉ちゃんが手をヒラヒラさせて部屋から出て行った。


翌日、何処に言っていたのか聞くとバーラウンジで飲んだくれていたらしい。

チェックアウトの際にフロントで深々と頭を下げさせて貰った。


巷ではセンセーショナルな事件として取り上げられ連日テレビのワイドショーや週刊誌で報道されている。

それも全て資産家が残した遺産が莫大だったという所が大きいのだろう。

しかし、その莫大な遺産がなければこの事件は起きなかったのかもしれないが今はどうでもいい事だ。

裁判の方は姉ちゃんの筋から逐一情報が入ってくる。

屋敷で働いていた家政婦などへの暴行や暴言の数々に中には理不尽な事で辞めさせられた者まで居たらしくそんな人達の証言も有り彼女の継母は逃れようのない状況になっているらしい。


そんな姉の話では未遂で終わったとはいえ減軽されることはなく加重され最高刑の死刑までにはならないが恐らく無期懲役か30年程度の実刑になるだろうという話だった。

そして彼女は弁護士とともに今後に付いて話をしている。

今まで住んでいた屋敷は緑に囲まれて自然豊かだったので屋敷だけを取り壊し公園にして、屋敷で働いていた人や辞めさせられた人にもそれなりの退職金を支払い感謝するつもりだと言っていた。

酷い仕打ちを長年に渡りし続けていた継母に対しても父の遺言通り住むべき所と生活費を渡すつもりらしい。

彼女の優しさと言うよりも彼女の父への感謝なのだろう。

俺はと言えば姉ちゃんに逃げるなよとは言われたものの彼女には全く会えていないし連絡すら取れないのが現状だ。

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