26終曲は新たな序曲へと2

 ぐっすり眠った翌日。

 当初の予定通り僕は糾弾覚悟でダニーさん達に向き合った。場所はダニーさん経営のここ花の宿の一階ロビーだ。食堂やカウンターの奥までを使って僕達と自警団の面々が何とか全員座れている。ダニーさんの好意で軽食も提供してもらっていた。この件には部外者だからなのか、祖父は席を勧められたものの断り腕組みして一人だけ壁に寄り掛かって立っている。

 代表した僕の順を追っての説明の間、ジャックとミルカ、そして魔法学校組三人は時折り何か言いたげにしたけど、話の腰を折るのを避けたのか結局黙っていた。腕の事は伏せたけど、そこは皆で合意の上だ。

 あと、これも僕達六人の総意で親方の魔宝石を賠償の一部にしてほしいとも願い出た。

 サーガの街の人達は親方石を物珍しそうにしてはいたけど、誰一人として受け取る素振りは見せなかった。それ以前に、覚悟していた非難の言葉も浴びせられはしなかった。


「話はわかった。だからな、六人共そんな硬くならないでくれないか。魔物召喚の魔法陣があったから昔の惨事が起こったんだってわかって、しかもそれが無くなったってわかってこっちとしては心底良かったと思っているんだよ。これで安心して生活できる」


 ダニーさんがそう言えば、街の皆はうんうんと頷いた。


「ありがとな! 実はあんまあの遺跡公共スペースのくせに役立たねーなって思ってたんだよ。茸生えそうにジメジメしてるくせに生えないから使えねーなってな。あ、おじさんな茸栽農家なんだわ」

「わしからもありがとう! っつかおいあれは茸生えるけどいつもスライムに残らず食い散らかされたから何もないように見えてたんだよ」

「こっちのおじさんにもお礼言わせてくれ、いやー本当に助かった! あの遺跡実は好きじゃなかったんだよー。スライムだろうと普通に魔物が棲み付いてる時点で街の傍にあんのはまずいだろって思ってたからなー」


 なんて口々に告げてもくる。あはは主張も自由だねー。


「え、その、どうして怒らないんですか? 僕の独断が街の大事な観光収入源を断っちゃったんですよ! それにもし僕達を入れた事を管理怠慢とか無責任だと国から咎められたら……」

「な~に壁画の写しは保管してあるから必要ならそれを参考に復元すればいいし、復元依頼を出せば観光客や調査団の代わりに今度は修復の専門家や建築関係の人員が来て金を落としていくだろうさ。もしかしたら調査団の一部も情報の整理に必要とかで完全には引き揚げないかもしれないしな」


 ダニーさんは長い息継ぎのように溜息をつく。


「遺跡は年代を問わず各地にあってまだ解明がされてないもんは多いと聞く。うちに来た調査団の奴らが言うに、調査の人手が絶対的に足りてないんだと。そのせいなのか捨て置かれてる所もあるだろ、代表的なのだと……ああほら、王都郊外の廃城遺跡とかな。ま、あそこは過去に広い割に調べる物がなくて一日で調査終了したそうだが。保存もされてないときてるし。……と、少し話は逸れたが、だからまあここらのが一つ二つなくなっても別に支障はねえ気がするんだよな~、ダハハハ!」

「ええー? あの、ダニーさん、笑い事じゃないですよ」

「まあな、訴えられたらそん時はそん時。魔物が出て犠牲者が出たってのに、今まで散々放っておいて今更なくなったからどうこう文句を垂れるようなら、一発ぶん殴って逆に訴え出てやるさ。……それにな、人類として壊すべき負の遺跡や遺産ってやつが世界にはあって、それの一つがサーガ遺跡だったとオレは思ってんだ。私見だがな。だからもう気に病むなよ、な?」


 楽観的で呑気なようでいて真面目な内容もあり、尚且つ諭すような響きを含有するダニーさんの言葉に、僕の罪悪感で沈んでいた心は掬い上げられていく。ただね、五十年放っておいた祖父は罪悪感からか翳りを深くしたようだった。


「親方?スライムにしても、そいつを倒したのも君達だ。本来の依頼とは関係ないし、自分達のために使いな。賠償金云々は真面目に無しでいいんだ。時間の余裕がなくてまだ見せてなかったが、この街は花の栽培が盛んでな。大きな栽培施設がある」

「栽培施設? 大きな花壇とか花畑があるんですか?」

「そうだ。この街じゃ大体の家が花農家と他の仕事を兼業してるからな、だから遺跡観光に頼らなくても実はやっていけるんだよ。それに遺跡関係の仕事は王国の方から派遣されてきた職員がほとんどの業務をこなしていて、オレ達が携わるのは極々一部だったしな、影響は小さいよ。例えばほら、あの勇者っぽいヘッドライトあったろ、ああいうのを売るのも小遣いを稼ぐって感覚でやってた。余計な心配を掛けちまってたみたいだな。悪い悪い」


 いやいや全然悪くない。

 苦笑するダニーさんや他のおじさん達から「気にするな」「安心しな」と僕達は肩や背中を叩かれたり頭を撫でられたりした。


「あとな、さっきからずっと話を聞いてて思ったんだが、アル君は自分の独断だとか勝手だとか言っていたが、自分一人だけで責任を負おうとするな。仲間を守りたいのはわかるが、もしもこの先何かあった時はちゃんとそこの二人にも同じ荷を背負わせてやれ。それでこそのパーティーだろう。止めなかった時点でアル君と同じ立場にいるのをよしとしたんだ」


 ダニーさんが視線を向けるとジャックもミルカも頷いた。それを見てダニーさんも少し嬉しそうに微笑む。僕のための微笑だ。次に彼は魔法学校組へと目を向けた。


「そっちの三人にしても複雑そうにしていたし、君らは共闘したんだろ、そこもきちんと皆にも均等に責任を背負わせてやれ」


 言葉が出なかった。

 三人を見やると、ずっと何か言いたげだった小難しい顔は解かれ、頷いている。


「あー……もう、僕は何やってるんだろ」


 そんな当たり前の対等さを失念していた。恥ずかしい。昨日も五人は僕だけの責任じゃないって言ってくれたのに、本気の言葉とは感じていたのに僕は何を躊躇していたんだろう。


「皆、ありがとう……ごめん。ダニーさん、皆さんも、ありがとうございます」


 ようやく呼吸を落ち着けて絞り出した謝意に、またもや皆の温かな掌が集中した。


 ただ、今回はたまたま事態が上手く収まっただけだとも、理解していた。

 祖父からも指摘されたように、これからは自身の行動の結果を考えて手を打たなければならないと痛感していた。何が相手だろうと慎重さを欠いてはならず、最善を見逃してはいけない。

 古代魔法陣を起動させないだけだったら、もっとやりようはあったかもしれない。それこそミルカに僕を浮かせてもらうとかしてさ。

 失敗から学ぶ事は多かった。


「アルフ、ここからは私が責任を持ってサーガをサポートできるよう彼らと話し合うから、もう皆と部屋に戻って休んでなさい」

「じーさん……。うん、じゃあ任せるよ。宜しくお願いします」


 実は昨晩祖父とはその手の話をした。補償か、そうじゃなければオースチェイン家による街の産業への投資。必要なら祖父の人脈までも駆使してこの街のためになるような埋め合わせをしてくれるって言ってくれたんだよね。

 経験豊富な祖父ならきっと有意義な話し合いができるだろう。僕じゃあ無理だった。丸々ダニーさん達の善意に甘えただけになったに違いない。今の僕にはまだ社会的に有効なカードがないからね。敢えて挙げるなら田舎の貴族って身分かな。

 街の皆も僕達が祖父と孫なのは既に知っていて、祖父が元騎士団団長なのも知っている。彼が出てきた事で察するものがあったんだろう、ちゃっかり商売人の顔になってたね。利益を得られるなら逃さないって逞しさを見たよ。

 ダニーさんも僕達が席を外すのを促してくれて、上行くならもう昼も近いし軽食を持って行けって皿を渡してくれた。

 後で上まで来た祖父は、ドヤ顔をしてたっけ。いい話し合いができたんだね。その中身は大人の事情だとかで教えてはくれなかったけど。

 ありがとって少し反抗期みたいにぎこちなく言ったら、祖父は格好よくも何も言わずくしゃりと僕の頭を撫でた。小さな頃からよくそうしてくれたようにさ。

 何だよもう…………ふふっ、大好きだよ。親愛なるじーさん。






 急がないなら思う存分サーガで疲れを落としていけというダニーさんのお言葉に甘えて、僕達はその日と次の日も宿泊し観光がてら花畑を見せてもらったりした。

 僕は換金し六人で山分けした魔宝石の金額分くらいの街の土産物を購入した。親戚や知り合い達に送り付けてサーガを広めようと思う。僕のせめてもの罪滅ぼしだ。誰に咎められなくてもやっぱりそうしないと申し訳ないというか僕の気が済まなかったから。


 そうして穏やかに何事もなく過ごし迎えた朝――出立の朝。


 もっと居てもいいんだぞとは言われたし、王都での入団試験まではまだ日程の余裕もあって急いでいるわけじゃあなかったけど、避難していた家族が戻り始めて日常を取り戻すサーガの街は眺めている以上に忙しそうで、そう何日も甘えてられないなと感じたからだ。

 僕達三人だけじゃなく、魔法学校組の三人も今日発つ予定だってさ。祖父はまた王都で会おうって昨日のうちに街を去った。今までもそうだったけど、する事が色々とあるみたい。


 祖父とは、カルマについてそして『彼』について等々、二人きりの時に話をした。でもその時もあの腕の主が彼だとは何となく言い出せなかった。

 その件とは別に、王都までの道中も含めた入団試験当日までは毎日祖父に鳩レターを出すのを条件として行動の自由を勝ち得た。要するに安否確認ができればいいんだね。これで思いのままにクエストを受け冒険者をやれるけど結構高く付いた。まあ仕方ない、必要経費だと思おう。祖父も半分代金を持ってくれるしね。


 出立の支度を整え、二人より早く一階ロビーに下りていた僕は、時間潰しも兼ねて飾ってあった幾つかの街の写真を眺めた。

 どのくらい前かはわからないけど。集合写真や華やかな花の祭典サーガ祭の様子が写されている。

 と、僕の目がある一枚の古そうな写真の上で止まった。


「あれ、これは……」


 ちょっと目を瞬いて見間違いじゃないのを確かめる。


「やっぱりこれじーさんだ。わっか~」

「お早うアル君、ん? ああそれな、一番真ん中のあんちゃん騎士はクラウス様らしいな。親父からそう聞いてる。君を初めて見た時からこの写真の彼も同じ目をしているからもしやと思っていたんだが、本当に身内でしかもクラウス様ご本人までこの街に来て下さるなんてなー。ビックリだよ。それに、前にも言った気がするが 街の守り神とも同じような目だし、オースチェイン家の先祖はこの土地の出身だったりしてな」

「ダニーさん、おはようございます。昨日はお世話様でした。先祖の事は正直どうかわからないですけど、ここにはどこか親しみを感じますね」

「おおそうだろそうだろ。オレの中じゃアル君はもう息子みたいなもんだからな、この先いつでも里帰りしてこいな!」

「あはは、はい、ありがとうございます。その時はまた美味しい料理をたらふく食べさせて下さい!」


 朝早くから花壇の手入れや宿の掃除に勤しんでいたダニーさんは箒を片手に僕の横に並んで暫し写真を眺めた。遺跡に行こうとしていた彼が昨日助言に従って思い止まった相手、それがクラウス・オースチェイン、祖父だ。


「クラウス様には、例の五十年前の神事襲撃の折に親父が随分と世話になったみたいでな、事あるごとに思い出話を聞かせてくれるんだよ。今はお袋と温泉巡りの旅に出てっからここにはいないが、いたらきっと感激のあまり心臓止まってたろうな、ハハハ」


 いやいやハハハって、実際なったら笑い事じゃないでしょー。

 写真の若かりし祖父は最前列中央で今はもう引退して身に纏わない王国騎士団の制服を着て、表情は凛々しく笑みはない。

 仲間や街の人と悠長に写真撮影だなんておそらくは遺跡鎮圧の後だろうに、ちっともそうは見えないね。昔から無骨な人なのは変わらなそうだった。それでも歳を取って幾らかは丸くなったんじゃないのかな。

 そんな当時の祖父のやり残した仕事を僕達が片付けた。そこは素直に喜ばしい。ただ、一つ疑問が残る。

 五十年前の発動は何が原因だったのか。


「あの、ダニーさん、昔の神事では祭壇で何か変わった事をしたなんて話を聞いてたりはしませんか?」

「変わった事ねえー……うーん、当時から遺跡内部には普通スライムがいたらしいが、特に害はないくらい弱い種類とは言え神事の際には大半を駆除したらしい。それでもし切れなくて祭壇の供え物によく食いついてたって親父は言ってたっけな」

「へえ……それはまた祭壇の見た目が台無しになりますよねー、あはははは」

「だから見かねた者がその都度追い払ってたって話だな。中には祭壇奥の壁との隙間に入り込んで逃げたスライムもいたようで、そいつはさすがに諦めたみたいだよ。弱くても変幻自在ってのは厄介だよな。ま、うちの花壇になんていたらエス研からスライムジェットとかスライムホイホイを取り寄せて一匹残らず駆除するがな」


 五大都市の一つララにはスライム研究所、通称S研があって、スライムホイホイ、スライムジェットとかの市販されてない製品を売ってもいる。

 話は脱線したけど、ハハハと笑いつつ結構本気そうにするダニーさんの横で、僕はある可能性に思い当たっていた。

 スライムが祭壇奥の隙間に逃げ込んだだって? そういうスライムの一匹がたまたま偶然あの黒い腕の隠された位置まで入り込んでしまったとしたら? どんな小さな隙間からでも奴らは出入りできる。駆除の手が迫り生存せんと必死なら全力で安全そうな空間まで逃げ込んだはずだ。そして召喚陣が人間と魔物の別なく発動するものだったとしたら?

 今となっては全部が粉々に砕けてしまって調べようもない。カルマなら真実を知っているかもしれないけどね。でももう暴かなくてもいい過去の真実だろう。むしろ、暴かない方が当時を知る人やその家族のためだ。蒸し返して危機管理が杜撰だったからと街がギスギスするのは望まない。

 この話題は僕の胸のうちに永遠に留めておこう。


 それからダニーさんと雑談を続けていると、ジャックとミルカも荷物を手に下りてきた。二人はそれぞれダニーさんと挨拶を交わす。


 ホントはもっと彼と話していたかったけど、残念、もう出発の時間だ。


「それじゃダニーさん、お世話になりました」

「おう、こっちこそ助かったよ。ホントのホントにまた来るんだぞ?」


 マジ顔で念を押すダニーさんに僕達は三人揃って笑って了解した。ダニーさんも含めて誰ともなく宿の外に出た僕達は、そこであっと驚かされる事になる。


 自警団のおじさん達や早々と戻って来た街の住民の人達が宿の前に勢揃いしていたからだ。皆わざわざ朝早くから見送りに来てくれたんだ。

 そして何と……。


「ミルカちゃん、アル君、ジャック君、三人は王都に行くんだよね。もし時間があればまた会おうね。ぼく達も王都に戻るんだ」

「私は別に会いたくないけどっ」

「ちょっ、クレアちゃん!」

「それでいいんじゃない。クレア抜きで五人で会えば」

「なっ、ちょっとリディアちゃんそんな言い方……ってあああクレアちゃんがむくれちゃったよ~」


 うーん早速と騒々しいね。ミルカはしれっとしてるし。

 朝の早い時間に出る予定だったから、リディアさん達には昨日のうちに別れの挨拶をしてあったけど、何と三人は三人共見送りに起きてきてくれた。

 きっと必ずまた会おうと約束をした。まあ互いの都合もあるから明確な日時までは決めなかったけどもね。 


 見送られ手を振られ手を振り返し、僕達は何度も何度も振り返ってサーガの街を後にした。


「よーし、より腕を上げられるようクエストを沢山受けながら、王都を目指すぞー!」


 道中、涙と鼻水を垂らしたジャックがそれらを拭いもせず前を向いて宣言のガッツポーズ。細かいとこ気にしないのはまあある意味おとこらしいけど、ちょっと汚いよジャック……。


「あら、早めに王都まで行ってそこでクエスト三昧でもいいんじゃない? 知識の面でも王都図書館も魔法学校図書館も蔵書が豊富だし一般人も入れるから、効率良く能力の底上げのできる方法を調べて試すのもありよね。何より、都には情報屋もたくさんいるから特殊なスライムの情報も得られるかもしれないわ」


 ミルカが言いながらサーガの土産品の花柄のハンドタオルで滲んでいた目尻の涙を吸い取った。


 とっても美味しい提案に、僕とジャックの目がキラーンと光る。


「うんいいね。それで行こう!」

「俺も前言撤回で大賛成だ!」


 僕はきっとぶきっちょな笑顔を浮かべているだろうな。ダニーさん達と離れゆく寂しさに気を抜くとジャックみたいに涙が滲みそうになるんだもの。

 人情に溢れた花の街サーガ。

 そこでの冒険はとりあえず、おしまい。

 けど、サーガの誇る花のお祭りの頃にはきっと戻ってこよう。

 この、他にはどこにもいない僕の大事な友人達と。







 ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ…………。


 そこは豪華絢爛な王宮の一角の、王女として生まれ落ちた少女に与えられている広い宮殿。


 ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ…………。


 外はまだ明るい日射しに満ち、王女殿下の天上庭とまで称される美しい絵画のような庭園にも燦々と日は降り注ぎ、訪れる者は皆眺めているだけでも心地の良い場所だと口を揃える。

 そんな光の庭園とは裏腹の宮殿の奥まった場所にある薄暗い一室からは、先程から不穏な音が一定のリズムを保ち上がっていて、未だ止む気配がない。


 ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ…………。


 何かを切断し続けている音だ。

 それはこの宮殿の主である王女が立てている音だった。

 彼女は一人鏡台の前に腰かけ、はさみを手にしていた。

 露わになっている彼女の白く細い首を見れば、長いまつげでさえもその負担になりはしないかと案じてしまう、そんな儚さがある。

 十五、六の年頃の娘のどこか瑞々しい艶もある。

 傾国の美姫と謳われる容貌がそこにはあった。


 ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ…………。


 各国の王族は元より、是非にと降嫁を望む有力貴族達が勇んで彼女の前に控えた事もあるのだが、しかし王女には嫁げない事情があった。


 聖なる力を司る少女――聖女として幼少時よりその身を清く保つ事が求められてきたからだ。


 それは全くの建前だったが、統治において時にその建前が最良の効果を齎す事もある。

 この国で聖女の存在を知らない者はいないだろう。そして周辺国も。

 歴代随一。

 古代勇者と共に魔王を討ち滅ぼした伝説の大聖女の再来かとさえ囁かれていた。

 この国はそんな聖女が暮らす国として、周辺国からは確かに一目置かれているのだ。


 それほどに、人類にとって強力な魔物に対抗出来得る聖女の存在は重要なのだ。


 彼女は王女でありながら聖女でもあるのだ。


 聖王女、と社交界ではそう呼ばれている。


 ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ、ジョキリ…………。


 金眼の上で絹糸のような白髪が揺れる。


「きゃああ姫様っ、姫様っ! おやめ下さいルシアナ姫様!!」


 室内に上がった悲鳴は王女の侍女のものだ。

 部屋を清掃するようにと言われて入ってきた侍女は、絨毯の上に無残に散らばる長い白髪を慄いたように見下ろして声を震わせる。


「姫様、何故またこのような……。折角の美しい御髪を損なわれるような真似を……っ!?」

「慌てる必要なんてないではないの。どうせ三日もすればすぐに元通りになるのだし。……何もせずとも」

「それは、そうでございますが……」

「本当に、呪いのように、生まれた時からいつもいつもいつもいつもこの白髪で嫌になってしまうわ。あなたのような黒髪が心底羨ましいわ。本当よ?」

「ひ、姫様……?」


 コトリと鋏を置いて椅子からゆっくり立ち上がった聖王女は、侍女の後ろ一つにきっちり括ってあった髪を解いて垂らすとそれをほっそりとした指先で梳いた。つやつやに磨かれた桃色の爪さえ美しいその指で。


「だってこの髪お婆さんみたいじゃない?」

「いいえいいえそのような事は決して! 真珠のように輝く美しい尊い御髪でございます!」


 長年自分に仕える少し歳上の侍女の、嘘のない必死かつ熱心な眼差しに彼女は少し、いやかなり毒気を抜かれた。


「……そうね。ありがとう」


 吐息と共にそう言って小さく苦笑すると、鏡台に戻って残った髪の長さを整え始める。


 聖王女ルシアナはしばしば自分の髪を切り落とす。


 その都度周囲は青くなるのだが、どうせすぐに伸びるからといくら止めても彼女はやめないのだ。この現象も聖なる力の顕れだと教会では説明する。

 床の掃除を済ませた侍女が下がると、ルシアナは部屋の片隅に置かれた透明な球体に目をやった。水晶球のような物体だ。設置タイプの通信魔法具のようにも見える。

 しかしそれには完全には当てはまらない。


 じっくりと見つめればそれは単なる無機物ではないのがわかるだろう。


 何しろ時折り能動的に震える。自らの意思で動くのだ。


 ――スライムだ、球体に擬態した。


「カルマ、聞こえるかしら? 頼みがあるの」


 聖王女の声が静かな部屋に響くと、ややあって、球体スライムが淡く光り出し、球の中に像を結んだ。

 灰色髪の少女カルマだ。

 魚眼レンズ越しのような顔のアップが映し出されているためか、カルマの赤い瞳が片方だけやけに大きく目立って見えている。


「はいはーい。どうしたのかな聖女ちゃん?」

「どうしたなんてわざとらしいのは嫌いだわ。どうせこの宮殿のあちこちに忍ばせている手下達の眼で見ていてわかっているくせに」


 すると十歳程の少女姿の古代スライムは、両手の指を丸め両目の前で手眼鏡を作る。


「キヒヒヒ! まあ確かにね。カッコ良くスライムアイって言って欲しいね。まっ単に人間っぽく形式ばってみただけだよ~」


 カルマはその性質上と言うか能力上、他のスライムの目を通して遠隔地の光景を把握する事が可能なのだ。ただし直接命じた個体以外は単に「視る」だけで行動を制限できる類のものではないが。

 聖王女ルシアナは嘲るようにして柳眉の片方をくいと上げた。


「いくら猿真似をしようと魔物風情が人間にはなれないわ」

「知ってるよー。なれたらボクは今頃世界の王様だね!」

「下手な冗談も嫌いよ。無駄話はこのくらいにしましょう。さっさと報告して、最近のアルフレッド・オースチェインとクラウス・オースチェインの動向を」

「ああも、ホ~ント君って昔から人使い……じゃないか、魔物使いが荒いよね。ボク達が『彼』と仲が良かったからってまだ嫉妬してるの~? ホント根に持つタイプ~」


 聖王女の拳が強く握り締められ微かに震える。

 金眼がスライム球を、その向こうのカルマを殺したそうに射る。


「魔物風情が……っ。まだわたくしがお前達を滅ぼさないでいるのを有難く思いなさい」


 ――聖女本来の存在意義通り、この聖王女は基本、魔物の存在を許容しない。赦さない。


 しかし現在世界には魔物が蔓延っている。

 だがこれは彼女の許容ではない。彼女を聖女たらしめる絶大な力があるにもかかわらず、まだ今は雌伏して待つ時だとしてあからさまには魔物討伐に動かないだけだ。

 いや、とカルマは内心首を振った。

 彼女の宿願、念願を果たすまでは、そのツールたる魔物を殲滅できないのだろうと、そう自身の考えを訂正した。


 ついでに言えば、スライムであるカルマとつるむのも現段階では利用できるからにほかならない。


 それはお互い様だとカルマの方でも重々理解している。

 カルマにも果たしたい約束がある。

 それを果たすまでは聖王女殿下に協力するのもやぶさかではないのだ。


「キヒヒヒ、巡り巡ってなのか何かの因果なのか、心底魔物ボクたちを憎む君こそ、歴代で一番聖女らしい聖女だよ……皮肉にもね」

「カルマ……!」

「ああそうそう話を戻すと、あの二人ならそのうち王都に行くと思うよ」


 やや長い沈黙が返る。


「……何、ですって? 二人共に王都に来ると言うの? クラウスはともかく、クラウスはアルフレッドが王都に来るのを許したというの?」

「そうみたいだね~。しかも何とアルフレッドは騎士団の入団試験を受けるんだってさ」

「……それは本当の話なの?」

「こんな事でボクが嘘をつくとでも~?」


 真偽に慎重になっているルシアナの様子をスライム球の向こうから見つめるカルマは目を細め、キヒヒと小さく笑ってやった。


「今年は要注目の選抜試験になりそうだよね~。まあそういうわけだから、じゃあね聖女ちゃん」


 カルマがにやりと笑って手を振ると同時にスライム球から像が消える。

 ルシアナが文句を言う間も止める暇もなかった。どうせもう一度呼び掛けたところでしばらくはもうカルマも応えないだろう。気分屋なところがある。

 ルシアナは物思うように一人俯いた。つい先程ベリーショートにまで短くしたはずの髪がもう肩より少し上の位置まで伸びている。白髪はさらりと垂れてその可憐な横顔を隠した。


「……アルフレッド・オースチェイン。異質な者。ああふふふ、のこのこと向こうからやってくるなんて。ふうん、入団試験ねえ……。今度こそ、忘れられない抱擁を交わせるかしら?」


 宮殿奥の贅を凝らされ最上品で満たされた豪華な一室で、何かが大きく欠けた白い少女が黒い微笑を湛えて佇む。

 きらびやかな王都、その明るく華やかな強い光の分だけそれが落とす影は濃く深く、その深遠の底はまだ誰にも見えない。


 年に一度の王国騎士団入団試験は、それぞれの思惑を前に波乱の兆しを見せていた。

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