EP5 結託

「……」

 目をさますとそこは明らかに室内ではなかった。頰に感じるのは砂利とコンクリートの硬い感触である。まぶたをじりじり焼く強烈な朝日は窓越しには決して味わえない直射日光だ。耳に届くのは小鳥とカラスの囀り、心地よい風が通り抜けたと思ったら、鼻をつくのは水の臭い。それも河原特有の水臭さであり、限りなくドブに近い。

 あゆむはむっくりと体を起こす。

「…どこだ、ここ?」と呟きに反して衝撃は計り知れない。自分の言葉が頭の中で縦横無尽に反響し容赦なく三半規管に揺さぶりをかける。前触れなく汗が噴き出し、心拍数が跳ね上がり、荒い息を吐きながらゆるゆると再び地面にへばる。

(超弩級の風邪か…?)否。典型的な二日酔いである。

 仕方がないのでそのままの姿勢で辺りを見回す。幸い朝日を照り返す川に人影はなく、不幸にも誰も手を貸してくれなかった。と、見ればヨドバシカメラが前方百メートルぐらいの所にあり、隣にはマルイのビルがそびえ立っている。この風景どこかで見たことがあるなあと考えて「…町田?」あゆむが寝ていたのは町田駅の南口からまっすぐ進んだ川のほとりである。

 何故おれは町田の川で、頭をガンガンさせながら意識を失っていたのか。拉致か? 痛むだけで全然働かない頭から絞り出した答えである。待て待て。最終記憶を辿ってみよう。おれは威借あゆむで、大学生、えーとえーと、富良ソワ子?

「そうだ教授!」と思わず叫んでまた頭を抱えた。

 そして痛みを堪えながら瀧を探すも姿はない。しかし記憶が少しだけ戻ってくる。飲んだ。飲み比べをした。導き出される答えとして喉の痛みは酒灼けであり体の怠さは二日酔いである。

 しかし何故町田に? それだけは幾ら考えた所でこれっぽっちも思い出せなかった。

 このままコンクリートにへばりついているわけにもいかない。あゆむは満身創痍の体に鞭打って、川沿いに張り巡らされたフェンスを杖に立ち上がると、とぼとぼと川を遡上し始めた。

 ーーどれぐらい歩いただろう。

 初秋の日差しが背中を焼く。気分の悪さに反してお手本のような秋晴れである。「暑い…」そして虫が多い。あゆむ目掛けて小型のカメムシが飛来する。昔晴れの日に悠々と自転車を漕いでいたら口の中に飛び込んできたのを思い出した。晴れた日のカメムシの異常発生は田舎も都内も変わらないらしい。もっともこののどかさを都会と言って良いのか分からないが。

「……」見ればあゆむの前方数百メートルに何かが落ちている。それは何かとしか形容しようがなく、近づけば近づくほど謎は深まる。やがて足元まで近づきじーっと観察してようやく「あ」正体が判明した。「ちょっと、桐森さん、起きてください」

 巨大なコロコロクリーナーとなった桐森は、小枝やら葉っぱやら身体中に絡ませて地球のお掃除に一躍買っていた。そして死んだように寝ている。

「駄目だ…捨てていこう」

「うおぉ…起きてるよぉ…威借くん、だっけ?」

「わあ生きてた」

「ちょっと体を起こしたいので手を貸して欲しい」

「そうしたいのは山々ですが、一本手を貸すと共倒れっす」

「まじか。しかしきみを責めることは出来ない。なんせ俺も己の身が支えきれない状況だからな。わっはっはっは」何が彼をそうさせるのか空元気なのは明白だ。「うおーふぁいといっぱーつ」と言う割に体がぴくりとも動かない。

「えーっと、おれどうしたら良いです?」

「水があったらいける気がする」

「……」何だそりゃ。「じゃあ買ってきますよ」

「悪いなあ、少年。後で倍にして返す」

 で、無一文に気づく。「…しゃあねえ」仕方がないので適当な公園を見つける。そしてゴミ箱にあった大五郎をサルベージするとその中に蛇口から水を汲んだ。「お口あーん」それを仰向けの桐森めがけて、ジャバジャバ流し込んだ。

「おおー恵みの水だ」喋りながら器用に水を飲む。「げぼらっ!」

 桐森千一、こんな人だったのか。あゆむは乳飲み子に授乳する気分で彼を見下ろす。無論乳飲み子をこんな雑に扱ってはいけない。昨日は殆ど会話をしなかった。お互い喧嘩腰だし歩み寄りの精神などこれっぽっちもない。それが逆に功を奏したのか、既に敵愾心はすっかり消えちょっと親しみすら感じていた。どこか憎めない人物。それがあゆむが桐森に下した人物評だ。

「おー不思議と体が動くぜ」大五郎を半分以上空にして桐森はよたよたと立ち上がる。

「ところで桐森さん。昨日の記憶どこまであります?」

「きみが『埒があかないので勝負は徒競走で決めましょう』と店を飛び出した所まで」

「……」

「そこから俺も記憶がない。目が覚めた時は体が微動だにしなかった」

「完全に狂ってますよ、そいつ。よく付き合いましたね」

「付き合う方も狂ってたからなあ」

 川に転落しなかっただけ不幸中の幸いか。

「で、威借くんはどこへ向かっているのだ?」

「帰るんすよ。へばっていても仕方ないでしょう。授業もありますし」

「授業は間に合わないだろう」

「ああやっぱりそうっすよね…」

「そして歩いて帰るのは些か無謀ではないか?」

「奇妙なことを言いますね。ではどうしろと?」

「電車に乗ろう」

「…天才か」

 水分を摂取して知力体力ともに回復したのか、二人は最寄りの駅まで文字通り這々の体で辿り着くと、訳を説明して交番から電車賃を借り横浜線に転がり込んだ。そして目的の駅まで到着すると、これまた這々の体で貧乏長屋へ転がり込んだ。

「して、何故あんたまでおれの部屋に?」

「俺んちまだ先だから…。後生だから…」

「はあ、追い出す気力も、ぐー…」

「ぐー」

 二人して上り框で片方だけ靴を脱いで気を失った。のちに大家が「邪魔」と蹴りを入れるが、起きないことを確認すると「ふん」不機嫌そうに毛布をかけてやった。



 猫が耳を齧っていたので目を覚ました。「…逆だろ」一応確認すると千切れていないし体色も青くなっていない。だが猫が背負ってきた秋の花粉で鼻がむず痒い。「ちんっ」

「きみは尊大なくしゃみをするのだなあ」見れば桐森は先に起きて周囲に何匹も猫を侍らせていた。そいつらが「餌をお寄越し」と体を摺り寄せ猫なで声を上げるのでやや困惑している。

「どこからか集まって来てしまって。大変だなあしかし」

「…好きでやってますから」あゆむは立ち上がる。まだ足元は覚束ないが体は楽になっていた。「食べたらどっか行きますよ」

 ふと、蛙貴族をクビになった今、この猫ズの飼育費用はどうなるのだろうと思う。これまでは芯嶋英作のポケットマネーから捻出していたが、あゆむが全て面倒を見るとなると普通のアルバイトでは賄えない。かといって今更元の場所に戻すのもなあ…。考えながら冷蔵庫を開ける。猫の餌がラップに包まれ常備されており、食べる前に共用のレンジでチン、満遍なく全員行き渡るように最後まで目を離さない。ちなみに冷蔵庫の中に人間の餌はない。

「もしかしてそれはニャア専用?」一連の作業を黙って見つめていた桐森は言う。

「…シャア専用みたいに言わないでください。…食ったんすか?」

「京都出身かなって思った」

「そりゃあ獣用ですからほぼ無味です」

「でも美味かったぞ! あんまり腹の足しにはならんかったがな!」はははーと笑った。

「なら良かった…」

 何を食わせても美味いという人種だ。悪い人ではないが雑。人によっては逆鱗に触れる。

「今何時です?」時間感覚を完全に失っていた。さらに言うなら威借あゆむ、時間感覚を取り戻すことより猫の餌を優先した。

「十八時半だ」「何時間寝てたんですか?」「分からん。しかし今日一日が終わろうとしていることは事実だ!」「…なんで嬉しそうなんすか」「阿呆なことをしたなあと思ってな、はっはあ!」「笑ってる場合じゃないっすよ」「笑う他あるまい! はっはあ!」「……」「とにかく後悔しても始まらん! じゃん。選べ少年風呂か飯か!」「大金! どうしたんです?」「虎の子だ」「嘘だ」「バレたか! さっき煙管をくわえた美女に貰った」「嘘だあ!」「『臭えからやる』と言われたぞ」「…おれの知る大家さんは血も涙もない人物です」「しかしくれるなら拒む理由はあるまい?」「裏がありそうなんだよなあ…」「しかし良い場所だな、ここは。こんな場所があるなんて知らなかった。来るものを拒まないオープンな感じが実に居心地良い」「拒まなすぎるんです」「俺も引っ越そうかしら」「部屋自体は空いているので住むのは自由ですけど、煙管をくわえた美女に気分次第で有り金巻き上げられたり暴力を振るわれたりします」「なんとそれはけしからん!」「でしょう?」「けしからん男だよきみは」「……」「羨ましい」「風呂!」「よしきた!」

 飯を先に食うと色々満たされて風呂屋が遠ざかる気がした。

 あゆむの住む幽霊長屋の住人は、近所の銭湯を三日にいっぺんのペースで利用する。が、ここの番頭の親父が中々の曲者で女の裸見たさに脱サラして潰れかけの銭湯をわざわざ買い取ったという逸話の持ち主だ。それだけなら『エロスへの情熱はいくつになっても失われないのだなあ』と感心こそすれど軽蔑はしないが、問題は男性客への風当たりである。「帰れ」「失せろ」「疾く去ね」来客が男とわかった途端、傍若無人な振る舞いで追い返す。物が飛んでくることはザラであり、不用意に入れば怪我は免れない。男湯などただの一度も管理したことがなく、ヘビーユーザーであるアパートの住人が掃除をし湯を沸かすのが暗黙の了解となっていた。「それは愉快そうだ!」その旨を伝えると桐森は無駄にはしゃぎ始めた。「ぜひ行こう!」

 番頭との死闘は彼の圧勝で幕を閉じた。なるほど五百円玉を一円に両外して投げつければ、攻撃と支払いをいっぺんに済ますことが出来るのか。メモメモ。風呂掃除も嬉々としてこなし湯に浸かる。「また来るぜオヤジ!」「おととい来やがれ!」老いぼれといえど情け容赦ないバトルスタイルは大いに学ばせて貰った。「よし次はラーメンだ!」連れて行かれたのは駅前の外れにあるラーメン屋で豚の餌みたいなつけ麺を大量に出すことで有名だった。「この店に来たら俺は必ず大を食べると決めている」「はあ」「そして今日のコンディションならいける気がする!」今日のコンディション、つまり朝から何も食べていない状態である。気持ちは分からなくないが、普段は大概無理ということで「うん、無理!」半分ほど食べて桐森は匙を投げた。「若い人はいっぱい食べると風の噂で聞いた」「こんなこともあろうかと、おれは小盛りです」「少年さては策士だな」「豚の餌を文字通り豚の餌にしたくないだけです。豚には豚用の餌がありますから…」残った麺をあゆむの器へダイブさせる。各種調味料で味を変えながらどうにか胃袋に押し込んでいる間、桐森はニンニクを潰して遊んだり備え付けのテレビを見てゲラゲラ笑っていた。「おー執念だ」「とりあえず外、出ましょう」はち切れんばかりの腹で動くのは困難を極めたが、動かなければ消化されない。

 ジレンマだ…。

 人心地ついた二人はあてどなく夜の町を歩く。ようやく体が調子を取り戻すが、何かを始めるには遅すぎる。昨日の居酒屋へ行って謝罪と共にことの顛末や忘れ物の確認した方が良いのだが、何となくそんな気分になれなかった。

(決定的に困ってからでも遅くないだろう、多分…)

「…ていうかあんたいつ帰るんすか?」前を歩く桐森にあゆむは尋ねる。「あと本当に釣り銭、おれが貰っちゃって良いんですか?」

「こちとら宵越しの銭は持たねえ!」とシワシワの札と大量のじゃら銭を押し付けきたのだ。

「んーだったら飯でも奢ってやってくれ、瀧に。今回の詫びと言って」「…それは俺と瀧さん二人でまた飯に行くっつう意味っすよ? 良いんすか? 率直に聞きますけど、桐森さんあんた彼女に惚れてるんじゃないんすか?」「威借くんはどうなんだ?」「…惚れてますよ、バチボコ。バチボコ惚れてます」「素直に答えるなあ、俺はもうそんな風に真っ直ぐな目をして答えられなくなってしまったよ」「うるせえインポ野郎」「間男風情が。粋がるなよ」

 言葉こそ昨夜の焼き直しだが、二人の間に剣呑な空気は漂っていなかった。

「…昨日のあれは瀧に新しくできた友達が、どんな奴か確認したかっただけだ」「…友達? おれっすか?」「まあついカッとなって年甲斐もなくやりすぎてしまったが…。しかし一日一緒にいて悪いやつではないことが分かった! 威借くん、いや威借、いやあゆむ」「はい」「瀧の良き友達としてこれからも頼むぜ」「仲良くはしたいです…」「何だ嬉しくないのか」「現実感がないので…」「当ててやろう。貴様は瀧をエロ目で見ているから友達と言われるのが嫌なんだろう!」「エロ目って…、もうちょっとマシな言い方があるでしょう」「ではそのことをうまく隠せている自信はあるか?」「基本的に器用な人間ではありませんから」「うむ! ならば瀧にバレていると考えた方が妥当だな。万が一あゆむが自覚なき隠し事の天才だとて! 勘の鋭いアイツが見抜けないはずがない。エロ目となれば尚のこと! しかもお酒まで飲んじゃうって受け入れ態勢万全だろ!」「雑な推理っすね」「まあね!」「しかしそれはあんたも同様だ」「だって俺、隠し事うまいもん」「誇れたことかよ!」「えっへん!」「…やることやって散れば良いじゃないっすか」「……」「それをしないからインポ野郎っつってんすよ!」「しかしその恋が実ろうと実るまいと、友達居なくなっちゃうだぜ? 瀧に」

 瀧女史の話が事実なら、彼女の友として存在したのは桐森と芯嶋の二人だけである。ここにきて再度同じ疑問が蘇る。「…芯嶋さんはどうしてお二人の前から姿を消したんですか?」

「俺にそれを聞くかね」

「知ってはいるんですね?」

「……」否定しない。ベラベラと喋り倒していた男がむっつりと黙り込む。瀧女史には決して明かさなかったことである。答えるだろうか。しかしやがて桐森は意を決するように、諦めるようにため息をつくと「恋の鞘当て」と短く答えた。

「芯嶋さんが負けたんですか…?」

「こうなると勝ち負けなんてあってないようなもんだ」

「あの人が負けるなんて、にわかには信じがたいです…」

「俺だってなああゆむ、好きで現状に甘んじてるわけじゃないぜ? しかしにっちもさっちもいかんのだ。俺が俺の我を通した結果、無闇に瀧を傷つけるだけで終わる可能性が高いんだ」

 それが事実なら芯嶋が二人の元から離れたのも致し方ない。

「では瀧さんに友達を紹介してあげるってのはどうです?」

「友達って紹介するもんなのか?」

「この際瑣末ごとは無視しましょう」

 今度は桐森が考え込む番である。おそらくかつて幾度となく試した方法だ。今更あゆむが試したところで同じ轍を踏むのは目に見えている。しかしあゆむだからこそ、とも考えられた。

「男嫌い全盛期のあいつを知らないから言えるんだ。自分に気があると分かった途端、生ゴミのように扱ってけちょんけちょんよ。その度に同性からは蛇蝎のごとく嫌われるし、あまつさえ誰よりも傷つくのは自分自身ってんだから見てらんねえぜ。しかし何かしら奇跡が起こって仲良くやれる友達が出来れば俺としては万々歳だ」

「奇跡、なんすね…。でも、そうですか。良かった。それなら一緒に!」

「だが申し訳ねえが協力は出来ない。俺ガッコ辞めようと思ってるから」

「はあ?」突拍子もない言葉に現実感がついてこない。どこをどうやってその理屈に辿り着くのか。志半ば、これから本番というタイミングで何故投げ出す。ハラワタ大沸騰!

「まあそう腹を立てなさんな。ーーあゆむ、貴様は芯嶋英作の目的を知ってるか?」

「いえ…」

「あいつの目的は瀧だ。あいつは八年生会を潰して俺から居場所を奪い、代わりに彼女の側に居座るつもりなんだ。その証拠に俺の管轄地ばかり襲撃して直属の会員まで攫いやがった」

 そこで思い出した。桐森千一は八年生会である。そしてどこかで見た顔だと思っていたが、それは怪傑・大達磨転がしでソワ子たちを襲撃した部隊の陣頭指揮をとっていた男、高々と大達磨様を掲げるロックを見上げて呟いた。『俺たちが何をしたっていうんだ』

「芯嶋はかつて誰も成し得なかった八年生会崩しを成功させた。その責任を問われ俺はかの組織から追放されることが決まっている。殊更うるさいのは元・八年生会のOB連中だ。それだけでは腹の虫が収まらないらしく、俺を退学させようと画策しているらしい。しかしそれを甘んじて受け入れようと思っている。このままでは俺を八年生会に推薦してくれた人の面子も潰してしまうことなるし、正直学校に残っていたのは殆ど瀧のためだ。だから芯嶋がその位置に座るというのであれば譲るのもやぶさかでない。それにあゆむ、今は貴様もいる。ーーまあ散々不真面目やり倒した罰ってとこだ」

 つまり今回の八年生会騒動は、恋に破れた男の復讐劇だったのか…? 桐森の言うことは一応筋が通っているが、やはり腑に落ちない。しかし何が腑に落ちないのか?

「退学どうこうは知らねえっすけど」イライラをぶつける。「だったら尚更玉砕覚悟で突っ込んで華々しく散るべきじゃねえっすか? おれたちがいれば彼女は一人ぼっちにはならない」

「いや、それは、ごにょにょにょ…」

「ほらみたことか! 結局あんたは瀧さんを言い訳に使った去勢済みの雄鶏なんだよ!」

「なにおーっ!」

 額を突き合わせて胸ぐらを掴む。ひとたび喧嘩が始まれば殴った拳が砕け蹴った足が折れる。先に手を出した方が負ける!

「…いやクールダウンしよう」桐森が年長者らしく身を引いた。「昨日の二の舞だ」

「水掛け論は犬も食わないっすね」不毛さを伝えたかった。「しかし前言は撤回しませんよ」

「この野郎…」

「それに瀧さんと約束しちまったんすよ。あんたらを仲直りさせるって」

 芯嶋英作自らの手で桐森を学校から追い出したとなれば、二人の間に横たわる溝はより深さを増す。なれば優先すべきは桐森千一を学校にとどまらせる方法である。

「だったらおれらで一矢報いてやりましょうよ。ジェントルフロッグに」

「…正気か?」

「むしろそれが最良の責任の取り方ってやつっしょ?」

「…確かに八年生会は人材不足、成果を挙げれば連中の腹の虫を黙らせられるかもしれない」

「だったら決まり! ひとまず整理すると、おれたちがやることは三つっす。一つ、瀧さんに友達を作る。二つ、蛙貴族を蛙爆竹。三つ、ミンナ仲良ク! で、一つ目なんすけど友達候補を作りましょう。言うまでもないですが同性の方が好ましい。しかしここで問題が浮上しまして、おれ壊滅的に友達が少ないんすよ。唯一の心当たりが、いや、だが、あの女は…」

「待て待て。貴様と芯嶋がいるから俺が恋の特攻隊長に任命されたのであって、そうなるとわざわざ友達を作る必要はないだろう」

「だってしますもん、告白、おれも。瀧さんをスーパーハッピーにすんのはおれっすわ」

「…なんだか頭が混乱してきたぜ」

「同じ女に惚れた男の足を引っ張るほど狭量でもないですし、だせえ譲り合いするほどオスの本能失ったわけでもないってだけです」

「この恋の暴走機関車め!」

 暴走機関車。その通りである。威借あゆむ、友達の作り方も、蛙貴族の倒し方も、三人を仲直りさせる具体的な方法についても、何一つ思いついていなかった。

「桐森さん、でも一つ言わせて欲しい。これは宣戦布告です。下らねえんすよ。八年生会も蛙貴族も覇権争いだか何だか知らねえけど、いい歳こいてどいつもこいつも何やってんすか? お友達と仲直りだあ? くっだらねえ! 勝手に殺しあって全員死ねよ! しかも片手間でおれのエンジェル弄ぼってんだから、んな奴にあの人をウルトラハッピーに出来るわけがねえ! 悔いろ三下! インポテンツ! …今日は帰ります」

「お、おい!」

 桐森の制止を振り切りあゆむは道を折れた。つかつかと進んだ所で止まり天を仰ぐ。

「おれ、今出来ることから動きだすんで、あんたもそのつもりでお願いします! で、それから退学なり卒業なりしてください。それで初めてモルタルボード投げられますから」

「ジャポンだぞ、ここは…」

「近いうちにまた会いましょう」

 そのまま振り返ることなく夜の闇に消えた。


 あゆむは煎餅布団に寝転んでシミだらけの天井を見つめながら考える。

 瀧の友達候補について。ソワ子だ。理由は他に知り合いがいないから。引き受けてくれるだろうか。彼女の興味を引く方法は二つ。面白いか、金になるか。瀧女史と親交を深めるにあたって、どちらかの利益がもたらされるか。うーんまったく想像つかない。いや待て、金は駄目だ。瀧が求めているのは真の友達である。では真の友達とは何か。知るかそんなもん。仮にソワ子が協力してくれたとて彼女を気に入るだろうか。出来ることなら百戦錬磨の友達作りの達人が望ましい。お互い距離の詰め方が分からずギクシャクするだけでは意味がない。ソワ子にそれが出来るのか。有り体に言って友達が多いとは思えないんだよなあ…。ちょっと痛いし…。考えれば考えるほど何も分からない。一番の問題は、没交渉の現状である。どうやら強行手段しかないらしい。あまり褒められた方法ではないが、手段があるだけマシである。

 問題は他二つ。三人の仲直りと蛙貴族潰しについて。

 桐森の言葉を整理する。かつて恋の鞘当てがあった。そこで桐森と芯嶋が瀧という絶世の美女を取り合った結果、勝者は桐森。そして敗者である芯嶋は二人の元を去る。それから月日は経ち、様々な理由によって桐森は瀧との距離を縮められずにいた。そしてどういうわけか芯作はこのタイミングで瀧を掌中に収めるべく行動を開始する。それが八年生会崩しであり見事成功。現在桐森は窮地に追い込まれ、芯嶋が瀧の所へ収まるのも時間の問題だと…。

 ここで一つ疑問。では芯嶋は、瀧に友達がいなくなっても良いというのだろうか。桐森をここから追放するというのは、それに等しい行為である。それとも自分がいれば彼女はハッピーだと考えているのか。そんな強引なやり口で瀧は絆されないし、彼のやり口とは到底思えない。

「違う、おれだ。おれがいるからだ」

 あゆむには瀧女史の友達になる資格がある。それに年齢的にも立場的にも恋敵になる心配がない。だから桐森はお払い箱になった…?

「だったらあの芯嶋さんの焦りは何だったんだ…?」

 そして『八年生会解散は予想外』とは? 全てことが順調に運んでいるにも関わらず、以前にも増して忙しなく動き回り痩せた。何かが間違っている。

「んおー、わからーん!」

 そして最後の問題。蛙貴族と戦って勝算はあるのか。様々な問題が片付いたとしても、蛙貴族に勝ち名誉を挽回しないことには、桐森はここに居られない。それでは意味がない。連中と戦うということはロックとラリとガクを敵に回すことに他ならない。さらに彼らの『勝負の定義』はひどく曖昧で、げに恐ろしきは不確定要素である。

 見切り発車だったなあと今更悔いる。いやこれも瀧のためだ。結局あゆむがいくら考えても何も分からなかった。徒労。無い知恵絞るより寝た方がなんぼか建設的である。

 明日から頑張ると心に誓って彼はふて寝した。


「…来てしまった」古民家を見上げる。

 そう何を隠そう富良ソワ子の実家を知っていた。だから押し掛けた。常識の範囲で考えれば逆効果であり、今度こそガチで通報されかねない。一応策は練ってきた。手に持ったビーニル袋の中には貢ぎ物が詰め込んである。これでどうにかして妹を抱き込む。

「ごめんくださーい!」さすが古民家チャイムがないので扉を開いて叫んだ。

「……」以前の騒々しさとは打って変わって室内はしんと静まり返っていた。留守ではないから玄関が開いていたんだよな? 犯罪的な匂いに怯えながら、そろりそろり後手に扉を閉める。

 てててと小さな足音が届いた。「あ、彼氏だ!」その声を皮切りに「彼氏! 彼氏!」と、どこに潜んでいたのか次々と弟妹たちが顔を覗かせる。「ねえ彼氏何しに来たの?」「今かくれんぼしてたの!」「今日学校でね」「おい足踏むなよ!」「彼氏これ食べて良い?の」

 手に持ったビニールをいつの間にか奪われていた。

「食べても良いが、あ。ちょっと待った!」身を乗り出して袋の中の一つを取り返す。

「わあアイスだ」ビニールに顔を突っ込んで素直な感嘆の声を漏らす。

 しかもダッツだぞと心でつぶやいた。しかし彼らに渡したのはバニラやラムレーズンなどスーパーマーケットの常連組である。一方あゆむが取り上げたのは期間限定の珍品であり、既に店頭での取り扱いは終了しているが、桐森に相談したところ元八年生会の情報網とやらで片道20キロの業務用スーパーの片隅に、すっかり霜だらけになって置いてあることわかった。食べられるかは分からない。ダッツのショコラミント、つまりチョコミントである。

「こらあ玄関閉めとけ言うたやろ!」と、帰宅早々開口一番お小言なあたり、オカン業が板についている。蜘蛛の子を散らすように子どもたちは消えた。「あらまあお兄さん」

「椎子ちゃん、お邪魔しています」正確にはまだお邪魔していない。「ソワ子は御在宅?」

 質問を聞くや否や椎子ちゃんは何かを察する。その目はあゆむの手のダッツに注がれた。再度こちらを向いて「まだ学校です」と答えた。「立ち話もなんですのでどうぞ」

「ではお邪魔します」

「それは冷凍庫へ入れておきましょう」

「話が早くて助かる…」



「姉の昔話をして良いですか? …ありがとうございます。いきなり質問で申し訳ないのですが、お兄さんから見て姉と私たちってどんな風に見えました? …ええ、そうですね。良かった、他所様にもそう思ってもらえるんだ。でも昔は今ほど仲良くなかったんです。発端は父が家から居なくなったこと。母は仕事を増やし、当時花の女子高生だった姉は小料理研究会を辞めました。…ええ小料理です。お料理じゃなくて。多分辛子レンコンとか作ってたんじゃないですか? そして当時お付き合いをしていた男性とも別れました。…お兄さん、たいへん複雑な表情をしてらっしゃいますよ? フフフ安心してください。所詮子どものおままごと、期間にして数ヶ月ですから頑張ってもAまでですよ。…え、昭和? 生まれがバレますね。でも幼馴染だったんです。本気だったのは妹の目から見て間違いありませんでした。まあ最近は連絡すら取ってないみたいですけど…。そんな大切なものを犠牲にして姉が何を始めたかというと、アルバイトだったんですね。人生初バイトです。当然失敗ばかりだったことは想像に難くない。さらに妹や弟のご飯も作り、家事を一通りこなさなければならなかった。…その当時私はまだ小学生でしたから、家族の一員というよりあの子たちの一員といった感じで、手伝おうとして仕事を増やしてしまうこともザラでしたね。よくひっぱたかれました。さらにさらに一応進学校だったので学業を疎かにすることも出来ない。高校を合格した時の母の喜びようが忘れられなかったのだと思います。そんな感じでバイトと家事と学業、三足のわらじを履こうとして早々に破綻しました。足が三本もなかったんですね。…え? 三足のわらじなら足は六本? はーいお兄さんが揚げ足を取ったので五本になりました。そんな感じですから、当然家の中の空気は最悪です。姉が頑張れば頑張るほど、室内の空気が淀みます。嘘が下手なんです。ど下手くそ。周りが見えなくなるし、辛さが顔に出るし、働けば働いただけ家族から笑顔が消えていく。本人もどうにかしなきゃって作り笑いなんかするんですけど、般若かナマハゲかって感じで、兄弟たちも子どもなりに気を使って作り笑いで返すんですけど、やっぱりそれも般若かなまはげかって感じで、我が家は般若かなまはげハウスでした。二度と戻りたくないです。あの頃には…。それがある日! きっかけなんて大概些細なものなんですね。あの日、忘れもしない。外では初雪が降っておりました。姉は一本の缶珈琲を大事そうに両手で揉みながら帰ってきたんです。『今ご飯作っちゃうから』それだけで我が家の空気が氷解しました。のちに聞いた話では、アルバイトで初めて怒られなかったそうで、いい加減慣れたのでしょう。所詮アルバイトですから。誰でも出来る単純作業でむしろ人より遅い成長で、ようやく人並みになれた。それだけの理由でいくら頑張っても成し得なかった家庭の平和が戻ってきたのです。一番驚いたのは姉自身ですね。半年以上見ていなかった弟と妹の笑顔を見て『ああ、こんなことで良いんだ』と肩の力がスッと抜けました。その日の夕食は、三玉九十八円の焼きそばに十円のもやしを六つ入れる我が家の定番メニューでしたが大変美味しく感じました。それ以降姉の成績は下から数えてすぐ、家事もけっこうズボラになりました。でも私たち兄弟はそっちの方が全然良い。家族に楽をさせたければ、自分が楽をしなければならない。自分が楽しくなければ、誰かを楽しませることは出来ない。もしお兄さんと仲が悪い、この場合便宜的に仲が悪いと表現させてもらいますが、とすればそのあたりが原因ではないですか? ただの守銭奴の面白主義ではないんです。家族のためなのです」

「……」

「それともう一つ、心当たりがあります。争うきっかけ、とでも言うべきなのでしょうか。お兄さんが姉と初めて出会った日、焼却処分した商品の中にーー」



 ガラガラと、引き戸特有の派手な音が聞こえた。子どもたちが一斉に駆けていったので、大将のご帰宅であることが分かった。「姉ちゃん!」無意識に身構える。

「…ただいま」と入ってきた富良ソワ子は、小脇に大量のバイト情報誌を抱えていた。

「…よお」とあゆむは精一杯作り笑いを浮かべる。

「……」侮蔑たっぷりの視線に貫かれた。「…ぶらざー&しすたー。ソルト!」

 言われて弟が台所から持ってきたそれを恭しく差し出す。

「そうそうコレをガリガリーってバカ! ソルトミルじゃねえか! 招かれざる客に撒くんだよ! かけるんじゃない! ちょっと美味しくしてどうすんだ! あとせめて砂糖な!」

「…なんか今日の姉ちゃん。…こわい」

 ソワ子がぎょっとした。正直当時の記憶があるか微妙な年頃であり、あゆむからすればいつも通りのソワ子であり、しかし彼女にとって少年の表情はトラウマであり、このままではあの頃に逆戻りだ。堪えるようにバイト情報誌を握りしめる。

「こらあ我が家では食べ物で遊ぶの禁止! っていうか世界的に禁止!」

 だが昔と違う点もある。椎子ちゃんだ。今の彼女は戦力足り得る。絶対に私が戻らせないという気迫を漂わせていた。そして適材適所。ある種の嫌われ役。子どもたちをまとめ上げるのは、ソワ子より向いていた。立ち上がり姉からソルトミルを取り上げ台所へ向かう。戻ってきた手に虎の子が。非常に気がきく娘さんである。「…お兄さん、ガンバ」

「あの! ソワ子! えー…なんだ、これお土産!」

「そ、それは! ダッツのショコラミント!」テコでも動かないかと思われたソワ子の機嫌が刹那的に良くなる。が「…あたしをまたハライタで苦しめようって魂胆? じゅるり」脅威的理性で己を律する。じゅるりが漏れているが。

「私分かりました」椎子ちゃんが助け船を出す。「温かいお茶を飲みながら食べれば良いのよ」

「ダッツのお高く止まったネーミングセンス嫌い! ショコラて! チョコって言え! しかもミントはミントのままかーい!」

 ここで注目すべきは富良ソワ子、味については一切貶めていないことである。

「では私がいただいちゃおうかしら。私にはお土産ないみたいだし」

「…え?」迸る冷や汗。「ヘイ! リトルリーグ! …一個ぐらい残ってるよな?」

「……」怒られると思ったのか、一度顔を見合わせると「散っ」と消えた。

「忍か! 忍者屋敷かここは!」

「ああ痛い! 歯が!」突如、妹が文脈を無視したオーバーリアクションを挟み込む。対ソワ子用の殺文句らしい。「私は殴られたことを未だに根に持っているし、姉はそのことについて負い目を感じている! だから復讐とばかりにお兄さんに協力を惜しまない!」

「この裏切り者!」折ったのだろうか、歯を。「歯が痛い人は食べちゃ駄目なんだから!」

 目に見えてうろたえる。妹から取り上げたダッツを宝物のように抱え込む。

「ねえお姉ちゃん」

「……」

「…お話だけでもきいてあげたら?」

 苦虫を嚙み潰しすぎたせいで、緑色の液体が口角から溢れ出した。

 違う、ショコラミントだ…。



「あんたたちが結託してあたしを屈服させる算段なのは火を見るよりも明らか」と言ってあゆむはソワ子の自室に通された。茶の間では分が悪いと判断したのだろう。そこは女の子の部屋というより古民家の一室、畳張りで障子張りの和部屋だった。そして簡素である。置いてあるのは勉強机と本棚ぐらいでものが少ない。

(しかし女の子の部屋で二人きりバージンをここで失うとは…)

 部屋の内装よりそちらの方が感慨深くショックだった。無論思っていても口には出せない。

「男を部屋に招き入れるバージンをあんたで失うなんて屈辱」ソワ子は思っていることを無遠慮に吐き出す。「これはもう強姦罪ね」

「招き入れたのはそっちだろ、美人局だ」

「勝手にうちに押し入ったのはあんた」

「……」恒例の口喧嘩を黙殺することで未然に防いだのはひとえに成長といえよう。

「で? 要件は? あたしも暇じゃないの。この間と同じ質問なら答えるつもりはないから」

「分かった。単刀直入に言う。会って欲しい人がいる。その人と友達になって欲しい」「…はあ?」「お前は友達って多い方か?」「…友達なんかいなくても死にやしないってタモリが言ってたわ」「確かにおれも世に蔓延する友達信仰は洗脳に近いと思う。が、おそらくタモリには友達が多い」「……」「そしてそれは友達を作らない理由にはならない」「無駄な交友費を使えるほど我が家の経済事情は恵まれていないの」「向こうは年上だし稼ぎもあるから、その辺りは心配しなくて良いと思う」「誰なのその人は」「…大学の教授だ」「はあ?」「や、講師だったかな?」「そういう問題じゃないの! え、人体実験の一環?」「純粋に友達になって欲しい」「…あたしを売ってあんたが何らかの見返りを得る絵図ね」「うっ、それは…」「結婚適齢期をすぎた男性講師がなりふり構っていられず手近な学生に手を出そうって魂胆ね。だったらパス。あたし年上の金持った男と付き合うことにステータスを感じる脳みそ海綿体構造の性悪女とは違うの」「…おまえ友達少ないだろ」「しかもそういう女に限ってある程度年齢がいったらポイでしょう? もちろん介護をする覚悟があるなら別だけど、あたしは介護をするのもごめんだしポイ出来るほど非情にもなれない。世界のミフネはごめんだわ!」「違う! 女の人なんだ」「…女?」「気むずかしくはない。が、どこに地雷が転がっているか分からない人だ。すっごい甘党で辛党だ。そしてお前の言う『結婚適齢期を過ぎた男性講師』からセクハラを受けてもめげず、研究に打ち込み学生のことを考えてくれる。むしろ学生のこと考えた結果仕方なくセクハラを受け入れているというか…」「ああ、あんたがフられた人ね」

 そうだ。前に言っていた。それも半ば愚痴を漏らすような形で…。まずい。愚痴である以上好印象のはずがない。「…どうかな?」祈るような気持ちであゆむは今一度たずねた。

「うーんじゃあ二・三質問」「…どうぞ」「あたし基本的に交通費も出し渋る質だけど良いの?」「必要とあらばこちらで用意する」「友達になってメリットはあるの?」「メリットデメリットを抜きにしたシンプルな交友関係が望ましい」「講師と学生の時点でシンプルとはだいぶかけ離れているけど…」「いや二人でいることそのものに、常にメリットを見出せる関係が望ましい、のか?」「あんたにはあるの? メリット」「なんでこんなことになったかは追々話すが、ある」「なに」「フェアな位置に立てる」「なにそれ…」「そして純粋に瀧さんに友達が出来たら嬉しい」「もし私が友達になれなかった場合は?」「お前に非はない」「そう」「ああ」「じゃあ、うん」「…うん?」「まあ、とりあえず会うだけなら、会う」

「本当か!?」半ば諦めていたので喜びもひとしおである。「しかし何故?」

「だって、面白そうだから」ソワ子は口を尖らせる。「威借あゆむに傷つけられたもの同士被害者の会でも立ち上げようかしら」

「…でも多分金にはならないぞ? むしろタイムイズマネーならばマイナスだ」

「でしょうね。はーあ、バイトどないしましょ」

「……」これは一応あゆむを信頼しての『面白そう判断』とみて良いのだろうか。彼が嘘をついている可能性もあるわけだ。それこそ『結婚適齢期を過ぎた男性講師』の可能性もある。

「…まだなんかあんの?」

 突如むっつりと黙り込んだあゆむを見て、わけもなくソワ子は不安になったのだろう。

「椎子ちゃん、良い子だな」

「捕まれよロリコン」

「前時代的だな。ロリコン文化に女子高生を入れるとは、もはやノスタルジーを感じる」

「男子三日会わざれば刮目してみよ。数日の間に随分落ちぶれたものね…」

「お前の嬉し恥ずかしエピソードを教えてくれた」

「あんちくしょう!」

「それによってお前とウマが合わない理由が分かった、気がする。おれは自分を律することで正しく生きようとしたが、お前は自分を許すことで正しく生きようとした。そんな二人が混じり合わないのは当然の結果だ。しかし同時にそこはかつて威借あゆむが憧れていた場所でもある。どうやったらそこで上手くやれるか、教えてほしい」

「お言葉だけど、あたしは上手くやれなかったから八年生会を抜けた。どっかの誰かさんが『他人を不幸にする商売なんてたかが知れている』なんて言うから、半端に感化されたのね…」

「ああやっぱりそうだ。認めるよ。お前はおれよりも一歩前を進んでいる。だっておれが蛙貴族に入ったのは今まで通りの自分を貫くためなのだから。それでは上手くいかないと薄々感づいていながら、己のやり方を変えられなかった。だから野良大学生のような被害者を生んでしまったのも、当然といえば当然の結果だ」

「お言葉パート2だけど、あんたとウマが合わない一番の理由はその頭の固さだから。何十年下らない生き方貫き通してんの? 遅いのよ威借あゆむは。…まあでも今は変わろうとしているわけだし協力してやらないことも…って、うちは真剣10代しゃべり場じゃねえぞ」

「十代に毛が生えたようなもんだろ? おれたち」

「幾つになっても同じこと言ってそうね」

「生きてる限り十代に毛が生えたようなもんだ」

「あたしこれでも女の子ですから、毛深くなるのはごめんよ」

 ナハハーと二人で笑った。笑いながらソワ子は襖を開ける、と「……」廊下で兄弟たちが組体操式に組み上がり、聞き耳を立てていた。「あ」とリーダー格である椎子ちゃんと目があう。「ご、ご飯が出来たから…」と震える声で漏らす。「すぐ行く」叩きつけるように襖を閉めた。

 なんだかんだ富良家の頂点に君臨しているようである。

 あゆむ方に向きなおった。

「一番簡単で単純な方法は気にしないことね。目的のためなら犠牲は厭わない。まあそれが出来たら苦労しないわね。だとすると柔軟さが必要になる。さすれば方法は、パッと思いつくだけで三つ。一つ目は他人の思想を借りる。多少の不具合が出たり都合が悪くなったりすることがあっても根っこの部分で責任は取らずに済む。宗教なんか近いと思う。二つ目の方法は金。あんたの正義を金で売りなさい。人間所詮神様にはなれないんだから、依頼人の幸福に最大限努力して結果を出せってことね。人間生きてる限り金がかかるんだから、決して悪い選択ではないと思う。ーー以上二つを包括するのが『愛』。愛する人があんたの正義の責任を取る。そして愛する人の振るう正義は完全に正しいし最大多数の幸福と金を生む。そんなもの本当に正義かって? 愛はソレを盲信する爆発力を持っている」

「…んな万能型の恋人がおれの前に現れるのかね」

「…私なら出来る」

「…ワタツィ?」

「あんたが私に惚れるってんなら悪いようにはしない」

「…わけを聞こう」

「わけも何も説明した通り。あんたは金になるし私にはそれが出来る。以上!」

「…いいのか?」

「だから良いって言ってんでしょ!」

「いやでも悪いよ…。おれのためにお前の人生を犠牲にするのもなんか申し訳ないし、それに順番が逆だ。その人の正義に賛同した結果惚れることはあっても、惚れた相手が全面的に正しいなんて、ぱーぷりんのお花畑中高生ではないか」

「…そう。そう言うと思った。前言撤回なんて絶対に認めないんだからばかーっ!」

「はい」

「だったら最後三つ目。ーー見届けるしかないんじゃん? 自分が納得出来るまで。そして点じゃなくて線で判断する。あんた人間のこと舐めくさってるみたいだから、お言葉パート3だけど、人生それで終わりじゃねえから。人間そんなヤワじゃねえから」

 あまりにもシンプルな答えだが、あゆむの中で何かがカチッと音を立てて動いた。

「ソワ子」「なによ」「おれは今芯嶋さんととある人を仲直りさせるべく暗躍している」「そう」「そしてそのためにの芯嶋さんを倒す」「…そう」「並行してお前には瀧先生と友達になって欲しい」「関係性はよく分からないけど、一度引き受けた以上投げ出すまではやるわ」「その暁におれは瀧さんにこ、告白…しようと思っている」「はあ? 一度フラれたのに?」「ちょっと逆鱗に触れただけだ…」「もっと悪いじゃん」「だから誰かと付き合うとかは、それを片付けてからでないと駄目だ」「片付けるなんて、まるでフラれるべく行くみたいね」「当たらずとも遠からず」「あたしをてめえの色恋のダシに使おうたあ良い度胸じゃない」「すまん」「でもあんたそれで良いの? あの人を倒すって、それって八年生会を復興させるってことじゃないの? あんた本来の目的と逆のことをしようとしてんのよ?」「罪を憎んで人を憎まず。八年生会を憎んで桐森千一を憎まず。おれの目的はこの世の悪を駆逐することだ」「スケールでかっ」「確かに八年生会は悪の総本山かもしれない。しかしそこにいる人たち全員が悪人かというと、そんなことはない」「まあ悪人というより正しくは怠け者の集まりだったけど…」「それにあんまり目に余るようなら、また潰せば良い」「…そう」

 一瞬ソワ子の顔色が変わった。しかしそれが何色なのかあゆむには分からなかった。

「おいソワ子」

「…あによ?」

「お前の言ってたやつ、好いた惚れたじゃなくたって、別に出来るんじゃないか?」

「…難しいと思うな。誰かを信頼するって時間とか行動とか運とか、色んな要素が複雑に絡んで初めて成立するものだし。まあでも不可能ではないんじゃない?」

「だよな」

 二人でせーので立ち上がる。それがお開きの合図。さて帰るかとあゆむは空の鞄を背負った。と「…妹がご飯作ってると思うけど」ソワ子が壁に向かって話しかけている…。気が触れたわけではなく、あゆむに向けた言葉のようだ。意訳すると夕食などご一緒にいかが?である。

「あんたもやし嫌い?」「まさか。貧乏学生はもやしと共に青春を歩むのだ」「今日は多分卵が入る…」「なんと。パワー焼きそばではないか!」まさかのお誘いに心踊る。が「遠慮しておこう」以前の経験と富良家の経済事情を考えるに『遠慮してくださって助かりました』と恭しく頭をさげる椎子ちゃんが浮かんだ。「馬鹿ね。あんたも、あの子も」「は?」「気を使ってんのよ」「…つまりおれが気を使って遠慮をすることによって申し訳ない気持ちにならないよう気を使っているってことか? 嘘だろ! 複雑で婉曲! 京都人かっ!」

 大人しくご相伴に預かる方が、精神衛生上よろしいようである。

 お互い。


 次の日、あゆむは早速桐森を呼び出した。

「桐森さん、決まりました。とりあえず会うだけ会ってくれるそうっす」

「おお、そうか。富良ちゃん。口は悪いけど悪くない子だよな」二人に面識があることをその時知った。考えてみれば元・八年生会同士である。「しかしこんな形で共同戦線を張ることになるなんて。人生何があるか分からんぜ!」

「それを言い出したらあんたとおれだって妙なことになってます」

「違いない」

「しかし実際どこで何をすれば親睦が深められるか、おれには想像もつかないです」

「それならうってつけの場所を知っているぜ」

「初デートに映画館は鬼門って言いますが?」

「おい、俺を思考停止型の甲斐性なしだと思うなよ」

「ふーん、まあそんなに自信があるなら任せますわ」

「おう」と無駄に尊大な態度だ。「ところであゆむ、貴様は芯嶋を倒すプランがあるか?」

「提案しておいてなんですが、あるわけないでしょ」

「誇るな」

「叡智をお貸しください」

「良かろう」あまり物事を考えるタイプでないことは知っているが、どうか。「それは孤立だ」

「…孤立?」

「芯嶋を孤立させる。孤立が奴に最も有効な一打を与える。残りの蛙貴族を全て引き込む」

「…なるほど」確かに手足を取られればただの肉饅頭だ。だが「彼らが裏切るとは思えない」

 ガクはともかくとしてロックとラリは難しいのではないか。二人は金で動くタイプではない。

「別に裏切らせる必要はないぜ!」

「どういうことっすか?」

「…攫っちまえばいい」

 嗚呼と。あゆむは再認識した。この人は決して善人ではない。

「誘拐は八年生会の十八番だぜ? しかし西原はあゆむ貴様に一任したい。他二人は任せろ」

「一任って、丸投げじゃないっすか。しかし金で動く男が一番交渉しやすいのでは?」

「そんなものはない」

「八年生会の潤沢な資金はもう使えないんすね…、当たり前か」

「西原田楽、あの男の脅威はモテモテスキルより別にある、と俺は思う。一度逃げると決めたら完璧に逃げ果せること。それが彼奴の真価だ。よもや忍者の末裔か?」

「いや知らんすけど…」知らんと言いつつ心当たりはある。かつてガクはいじめっ子から逃げ、そして彼らの虚栄心を満たしつつ最小限の怪我で済むタイミングで捕まっていた。

「おそらく俺が捜した所で見つかるのに三百日はかかる。拿捕にまた三百日だ」出来ないとは言わなかった。「ーーだがあゆむ、貴様なら三日で会うことができる。気がする」

「買い被りすぎだ。会える可能性が他よりやや高い程度です」

「ならば断る理由はないだろ?」

「それはそうですけど…」

「決まりだ! 必要なものは出来る限り用意する! 八年生会は協力は惜しまない!」

「……」以前もどこかで聞いたことのある言葉だった。


「あーんあゆむー」腰が万力で締め付けられた。「寂しかったあ」

「…よおガク、久しぶり」声を絞り出しながら引き剥がす。

 とりあえず捜してみようと大学構内を彷徨うこと数日、向こうから声をかけてきた。奇しくも桐森の宣言通り三日目の出来事である。

「久しぶりってほどでもないけどね。ねえお昼一緒しよ?」指を絡ませてくる。

「……」距離感の測れない奴だったが、ここまで顕著だっただろうか。「ああ」

 断る理由は無い。むしろ好都合である。

 二人で学食に足を踏み入れた。もちろん奴は奢ってもらうこと前提であり、あゆむは奢ること前提で安くて不味くいカレーの食券を二枚買った。おごってもらうこと前提だが文句はいわない。「はあいお水でーす」先に席を取って二人分の水を置いた。気がきく。

「…お前、最早カレーが付け合わせだな」

「えへへのへ、おばちゃんに怒られちゃった」

 ガクのカレーには取り放題の福神漬けがこれでもかと盛られていた。なんかこいつ大学生大学生してんなあと、少し羨ましくなる。こういう時にあゆもは常識から抜け出せない。

「どうだ最近は」「普通だねー」「そうか…」「あゆむらが居なかった頃に戻っただけだし」「血風・達磨落としはどうなった?」「今のところ順調に勝ち残ってるよ」「そうか」「そうっす」「あソース取ってくれ」「えーカレーにソース? おばあちゃんじゃん」「お前は《奇跡のカレー》をよくそのまま食えるな、ってそのままじゃねえ!」「どうやっても不味く作れないカレーをここまで不味く作るのはある意味奇跡だね。そうだよ野菜もちゃんと食べないと」「福神漬けって野菜グループなのか?」「はい問題です。福神漬けの中でこの剣みたいな形のやつの名前はなんでしょう」「なた豆」「すげえ博識!」「…お前さりげなく自分を褒めてないか?」「クイズってのは出題者が優位に立てるよう出来てるんだよ?」「…確かに!」

 で。むしゃむしゃ。ところで武士が食事をするときの擬音は武者武者なのだろうか。

「あーもう!」痺れを切らす。自然な会話の流れではいつまで経っても目的地に辿り着かない。

「だったらデートしようよ」「デート?」「今から授業サボってさ」「今からあ?」

 デートとは何か。狭義ではカップルのお出かけ全般である。広義ではカップル以外にも男女のお出かけはデートで括られることが多い。よって同性の友人ではデートとは言わない。

 ーー外出だ。

 とかそんなことを言いながらあゆむは駅前まで連行される。「もううるさい。だったらちょっと待ってて」と言い残しガクは駅前の高級マンションに吸い込まれていった。自宅ではない。大方の予想で愛人宅、大穴狙いでパパである。待つこと三十分。「じゃじゃーん」ちょっと痛い美女が現れた。女子アナ系の清楚系の薄化粧の痛い美女である。

「え、どちらさん?」「体毛も処理済みなのです!」「ば! めくるな!」「さすがに生足は無理だった」「まあモノホンでも基本的に厳しいというし」「女性ホルモンでも飲もうかしら」「…女性ホルモンって飲むものなのか?」

 どこかガクの女装はやり慣れていた。本人の趣味か、パパの趣味か…。「ではレッゴ」

「しかしデートのやり方なんて知らんぞ、おれ」ソワ子とのあれは買い出しである。「さらに言うなら金もない。学食のカレーが限界だ」

「うん知ってる」そういうとガクは腕を回してきた。もちろんそこに男を惑わす膨らみはない。だが何故かガクの纏う良い香りが脳内快楽物質を司るバルブを全開にする。

「あゆむと一緒ならぼくはお金がかからなくても平気だよ!」

 とりあえず近くのショッピングモールへ向かうことになった。

 普段と違う姿そして距離感に妙に構えてしまうが、結果から言うと別に変わったことはしなかった。雑貨屋や帽子屋やペットショップを冷やかす。とりとめの無い会話をして笑いあう。模範的デートは知らないが、確かにこれならテクニックは不要、場合によっては邪魔である。

 しかし周囲の視線が無駄に刺さる。特に男ばかりだったのは、女装男子特有の無防備さか。スカートなど膝より10センチは上なので見ているこっちがひやひやする。

 そして不思議と見せてたまるかという気分になった。

 デートと言われ、ある程度覚悟していた。あゆむの知るステレオタイプのデートでは、お金を出すのは男であり、女性は口では「金などいらぬう」と言っていても、尻ポケットにすっぽりと収まる財布の薄さを見た途端、顔色は変わる、手のひらは返る、しまいには「帰る!」と言い出す始末…。もちろん憶測の域は出ない。ところがどっこい、聞いていた女像と大分違う。あれ買って、これ買って、疲れた足痛いスタバー、スタバ買収してー。一言も言わなかった。買ったものといえば一本の缶ジュースで思わず「本当に良いのか?」と尋ねてしまった。

「一緒に飲みませう」普段は気にならない間接チッスやまつ毛の長さやプリプリの唇を意識してしまう。上目遣い。コカコーラに絡みつく女性らしい長い指が目に焼きつく。

 あれ今女って言った?

「あ、たこ焼き…」ふとあゆむは口走った。

 群馬が生んだカロリー爆弾はいつでもフードコート内で一定の地位を確保している。

「食べたいの?」ガクは言う。

「いや、いいよ」贅沢しすぎると猫が餓死する。

「ではぼく買ってこよ」

「…嘘だろ」十分ほどでガクは湯気を立ち昇る熱々のたこ焼きを持って現れた。「天変地異だ」

「考えてみれば奢るなんて初めての経験かもしれない」

「あとでタックスとか請求されん?」

「しないよー。でも半分はぼくが食べます」

「それは別に構わないが…」

 どういう風の吹き回しか。よからぬことを企んでいるのではないか不安になる。もっとも現状企んでいるのはあゆむの方だ。

「本気で落とそうと思ったからさ」「東尋坊な話?」「火サスでも失神ゲームでもなく、あゆむをぼくに惚れさせようと思って」「私もノンケあなたもノンケ。な?」「男が好きなんじゃない、お前が好きなんだーってやふ。あーんおいひー」「こうなると、さっぱりおろしてんつゆも食べたくなるのが人情だ」「じゃあそれも奢るから。そしたらぼくと結婚しよう」「ああそんなことならお安い御用」と言いかけてただならぬ雰囲気を感じ取った。「…え。本気?」「まじまじ」「お前、おれにガチゾッコンなのか?」「どうなんだろね」「…どっちだよ」「こんな感じだけど結構戸惑っている」「…それガチじゃん」「これからホテルに行こうと思ってる」「えー…嫌かも」「ふむ。『まだ』ってことは可能性はゼロじゃない」「え、おれまだって言った?」「拙者ゴイスー気持ちよくするんでー」「やめろおれに触れるな」「きゃ。男らしい言葉のチョイス!」「正直ギリギリの所にいる」「うぇるこめー」「お前そんな奴だったか?」「だってあゆむ、元気無さそうだからさ…」「お前のパーソナリティを侵害してまで元気付けてもらおうとは思わぬ」「あ、それに関しては利害の一致なんでー」「弱ってる人間に漬け込もうって魂胆じゃねえか!」「ばれてーら」「生来より鉄のパンツを履かされ育てられた男の精神力を舐めてもらっちゃ困る」「えーでも女装男子にグラリと揺らいでいる時点で、結構錆び気味?」「……」「ねえねえ、蛙貴族をクビになったのショックだった? それとも単位? 恋? にゃあ? 悩みがあったらとりあえず一発って病気の人が言ってたよ」「重篤だそいつ…」「とにかく、ぼくはあゆむのためなら何だってする覚悟だよ!」

 たこ焼きを一つ、あゆむの口に捩じ込んだ。

「…おれはたこ焼き一個で絆される男ではない」

「五・個。おろしも買うし。あなたのためなら全然貢ぐし」

 正直この状況は逆に好都合とも言えた。問題は罪悪感である。気の利いたことが言えない。正直さはセールスポイントでなく、予防線であり言い訳だ。己の弱さが露呈する。だが人間不思議なもので往々にして強さより弱さに惹かれる。

 だから開き直ることにした。開き直ることしか出来なかった。

「だったらおれはお前の気持ちを利用するぞ」

「どうぞ」

「良いのか?」

「だってあゆむに利用されるなんて、すごくドキドキするもん」

「わかった。ガク、蛙貴族を裏切れ」

「はい」

「黙っておれについてこい!」

「なんなりと」

 ガクの残りのたこ焼きを全て奪った。でも申し訳ないので一個返した。



「同伴かよジャリ」「この間はごちそうさまです」「おう家賃遅れんなよ」「金額と期日が決まっていれば…」「期日は私の酒が切れた時。金額は私の酒代」「へーい…」「最近てめえの部屋うるせえぞ」「あ、すいまんせん…」「いや」「?」「うるさいのは良いことだ」「はあ」「だが私を混ぜないのは駄目だ」「確かにそれは申し訳ないことをしました」「たりめえだ。騒ぐ時はみんなで騒ぐ。これギャルの鉄則」「ギャルだったんですか?」「二年ぐらい前かな?」「うそつき」「ああ?」「現役でしょう?」「ちげえねえ」

 ニヤリと笑うと大家は管理人室に消えた。

「なんか格好良いね、あの人」ガクは言う。あゆむにぴったりと寄り添っている。

「……」段々この状況に慣れてきている自分が恐ろしい。

 自室の前に立つと扉が半開きだった。「あれ?」鍵を閉め忘れたか、部屋を間違えたか。もしくは番号札を入れ替えるアクロバティックなイタズラか。

「おうあゆむ!」と、突如として扉が開いた。「邪魔してるぜ!」

「桐森さん。どうやって入ったんすか?」

「大家が入れてくれた」

「あんにゃろう…」職権乱用だ。

「どこで拾った美女だそれ!」あゆむより数段テンション高くガクを迎える。「マドモワゼル! アイムきりもり」

「セボン、セシボン、天才バカボン」とニッコリ。

「山奥で拾ったんす。十年ぐらい前に」

「十年前? SF?」小首を傾げる。「まあ良いや。入って入って」

「入ってって」ここはおれの部屋だぞーと心で叫ぶ。「つうかスペースないんすけど…」

 あゆむの部屋はトキが死ぬシーンぐらい人で溢れかえっていた。あのシーンのポピュラーなツッコミは『子ども抱えろよ』であるが今は抱えてもスペースが作れない。皆大人だから。

「あーちょっと諸君、出といてくれる? 紹介しよう彼らは元・八年生会の面々だ」

「人望?」

「これからどうなるかわっかんねえがな! 今の所手足より優秀な俺の手足!」

『うるせえ!』『お前のイカ臭い手足と一緒にすんじゃねえ!』『え足まで臭いの!?』『やってるとこ想像するとウケる』『体柔らかいねー』『金返せ!』

「な?」

「…その自信はどこから?」

 こんにゃろうと飛びかかって行ったのであゆむは部屋に入る。と、もぬけの殻かと思われたそこに、しかしまだ人が残っていた。部屋の中央に座っている人物が二人。

「ロクさん!ラリさん!」

 ロックとラリ。二人は動こうとしないのではなく動けなかった。

「あ! あゆむくん!」ロックが身を乗り出し勢い余って床に転がる。「病気は?」

「病気?」

「峠は越えた」と桐森が廊下から答える。

「そうかあ。良かったあ」半泣きで項垂れた。

 意味が分からずあゆむは桐森の方を向く。

「きみが危篤状態だと伝えたらほいほい付いて来たぜ」

「……」人を疑え。

「しかし何故僕は縛られているのでしょう」二人はテープでぐるぐる巻きである。

「…あんなもん裂きイカ感覚で引き千切りますよ」あゆむは桐森に耳打ちする。

「大丈夫だ。ダクトテープだから」

「…映画の見過ぎじゃねえかなあ」ため息。「しかしラリさんもよく騙せましたね」

「騙してないぜ」

「?」

「そこはほら、力技だ」

「ひでえ!」

「…大陸に売り飛ばされるかと思った、ぐすん」ラリは普段の様子とは打って変わって、しおらしくなっていた。「パンツ替えたい…」

「あゆむ、貴様こそどうなんだ?」ガクの方はどうなんだと桐森は問い詰める。

(…あ、こいつ)察する。桐森千一は可憐な美女の正体に気づいていない。ガクもバラすつもりはないらしい。もちろん面白そうだからである。だからバラす。いずれバレるから。

 あゆむの指し示す先、そちらでは例の美女がせっせと洗濯物を畳んでいた。

「一つ持って帰ろう」

「帰るな。貴重品だ。一枚でも失うと大打撃だ」

「お前西原か!」

「あら桐森千一さん。おばんどす。こんな所で何をなさっているんどすか? ここは蛙貴族の作戦本部どすよ? 敵陣のど真ん中に突っ込んで来るなんてお馬鹿さんどすなあ」

「おいやめろ。そういうんじゃねえ。桐森さんコイツは丸め込んだんで」

「ひどい!」

「ちょっとラリさんとロクさんと、話をさせてもらえないっすか?」

「きみなら彼らも丸め込めるというのか?」

「わかんないっすけど、話がさせてほしい」

「『攫え。そしてもてなせ!』が八年生会のモットーだぜ。徹底的に気持ち良くさせて堕落の限りを味あわせる。そちらの方が有効だと思わないか?」

「話してからでも遅くはないでしょう?」

「それもそうだな。ではあゆむの話が終わり次第、彼らを徹底的にもてなすとしよう」

「やっぴー」ガクはパンツを被った。



「手荒な真似をしてすみません」二人にあゆむは頭を下げる。

「良かったよう、あゆむくんが元気そうで」六郎はまだ言っていた。

「……」面倒臭いのでとりあえずこのままで話をすすめさせてもらおう。

「わけを聞かせてもらって良いかしらん?」辛うじて正気を取り戻したラリが睨みつける。

「単刀直入に申し上げますと、お二人には蛙貴族を裏切っていただきたい」

「……」

「おれは蛙貴族を、芯嶋さんを倒す」

「復讐、ではないのよねん?」

「はい」蛙貴族を首になった腹いせではない。

 あゆむは説明する。かつて芯嶋には二人の友がいたこと。その三人の間で恋の鞘当てがあったこと。蛙貴族結成と八年生会崩しの目的。結果桐森は学校を追われそうになっている、と。

「つまりラリさんロクさん、あんた方は芯嶋さんに利用されただけなんだ」

「そ。別にけっこうよん」

「っすか…」淀みない返答にたじろぐ。「まあそういうと思ってました」

「つまりアムちゃんはシマちゃんの恋路を邪魔しようとしてるわけね。馬に蹴り殺されるわよ」

「殺されるのが馬であるなら本望ですが、今はその時ではない。瀧さんに頼まれてしまったんす。昔のような関係に戻れるよう手を貸して欲しいと。しかしこのままでは桐森さんは学校を辞めそれが叶わなくなる。だからそれを防ぐべくおれは芯嶋さんを倒す」

「ああ逆なのね。つまりあらしらをあむちゃんの恋路に利用しようってわけ」

「そんな言い方されると否定出来ないじゃないっすか…」

「きみを応援してあげたいのは山々だけど、二つに一つというならあらしが応援するのはシマちゃんだから。しっかしモテモテなのねん、その女。なんかむかちくわあ」

「ラリさん、おれ納得出来ないことが色々あるんす」

「…あによ。まだなんかあるの?」

「芯嶋さんは蛙貴族に何故おれを入れたのでしょう。瀧さんを狙っているとすれば、いわば恋敵っすよ? そんなやつを近くに置きたがりますか?」

「恋敵だからこそ目の届く所で管理してやろうと思ったんでしょん」

「では何故おれをクビにしたんです? 結果として桐森さんを焚きつけてしまったんすよ? 手元に置いて管理し続けていれば、あの人は勝手に学校を辞めた」

「……」

「極め付けは、なぜ今もなお血風・達磨落としを続けているのか。邪魔者は全て排除したはずだ。あの人は今何と戦っているんだ?」

「あらしらが知るわけないでしょう…」利用されるだけ。伏し目がちの横顔がそう言った。「何にせよね、一人の男が決めたことに他人が口出しするって、超ダサい」

「超ダサいのは生まれつきっす」

「開き直るのはもっとダサい」

「思考停止のダサさだって大概ですよ」

「生意気ングね、あむちゃんは」

「ではこう考えるのはいかがっすか。これは芯嶋英作にとって苦渋の選択だった」

「え?」と言ったのはロックである。

「友と袂を別ち、大切な人と距離を取り、一人誰にも頼らずに日夜得体のしれない何かと戦っている。その苦しみを拭ってあげたいと願うのは、デバガメとかおせっかいとかダサいとか、ありきたりな現代用語で片付くほど愚かしいことでしょうか」

「……」

「おれ思うんすけど人間助けられても結構気づかなくないっすか? で、気づいたとしてもすぐ忘れちゃうっていうか、まあよく聞く話で悪い記憶の方が鮮明に残るっていうでしょ。だから本当の意味で助けるって多分のその場では『なにしやがる!』って気分になると思うんです。で、五年後ぐらいにふと『ああ、あの時助けられたんだ』って思い出す。それが本当の助ける。だって本当に困ってる時って、自分でも何に困ってるかよく分かんないすよ。分かってたら解決出来ますもん。解決するよう動きますもん。だから本当に本当に困ってる時って、困ってること自体分かんないんじゃないっすかね。すいません、着地点を考えずに喋り始めました…」

 途中から恥ずかしくなってきて、最後の方はまともに二人の顔を見れなかった。ここ最近立て続けにしゃべり場る自分は、やはり十代に毛が生えたようなものだった。

「…ラリちゃん」と。先に口を開いたのはロックだった。「僕はあゆむくんの言葉、信じてみても良いと思う」

 ラリは黙ってガクを見る。不安そうだったが目をそらすことはなかった。やがて小さく溜息をついて「そう」と呟いた。「あんらがそういうなら、仕方ねえわねん…」

「ラリさん、ロクさん…」

「あらし一人ぼっちは嫌いだもんっ」二人ぼっちの間違いではと思うが深く追求しなかった。

「そこの女装男子も、シマちゃんに恩とかないのん?」

「恩を仇で返すタイプだからね」

「その格好でミスコン飛び入りしたらあ?」

「良いかも!」と言ってガクはくるくる踊りだす。「あ、でもダーリンが妬くのです」

「妬くかい」

「ああんダーリンは認めたあ」

「てめこんにゃろう!」

「あらん? そういう関係?」

 きゃあと言ってガクが部屋から飛び出していったので、あゆむも懲らしめるべくそれに続く。静寂をとり戻す室内。二人、再度部屋に残されたラリとロック。

「言わなくて良いの?」またしてもロックが先に口を開く。

「良いのよ」体からダクトテープを剥がしながら「言った所で何も変わらないのだから」

「でも根本的な作戦変更を余儀なくされると思うけど…」

「だって結局かなわないんだから。シマちゃんには」

「……」沈黙が答え。ロックは三角座りで動かないので、仕方なくラリは彼のテープまでベリベリと剥がし始めた。「これ何ロール分使ってるのよ…」剥がしても剥がしても下からアルミが現れる。気づいた時には部屋の真ん中に日吉駅のモニュメントみたいなものが出来上がっていた。「ほらしゃんとするう!」舌ったらずで気の抜けた喋り方だったが、ロックは立ちあがった。がしゃんと電灯に頭をぶつけてパラパラと頭頂部に埃が積もる。

「良い? ロック。言っちゃめっ! よん?」

「分かった…」 

「あらしらも蛙貴族クビになったって」



「不思議だ。不思議と殴れぬ。ソワ子は平気だったのに…」

「それはそれで問題だと思うけど…」

「よおご両人」廊下で乳繰り合う二人の姿を見つけた桐森が隣の部屋から現れる。「愛の形は人それぞれだが、個人の軽はずみな行為が全体の損失に繋がるぜ」

「えーぼく難しいこと分かんない!」

「わあやめろパカパカするな! こっちから見るとものすごい光景だぜ! ひゅう」注意しながらちょっと嬉しそう。「で、終わったか?」

「一応」

「うむご苦労!」

 それはあゆむの自己満足に他ならないが、桐森は力強く肩を叩いた。

「よしてめえらもう一仕事だ!」

 八年生会残党が現れ、次々とあゆむの部屋に突入していく。「きゃあえっちぃ」とラリの声が届き、まもなくして人間神輿、担ぎ上げられて現れた。そしていつまで経ってもロックの姿が見えないのは想定内である。腰を痛める前にやめた方が良い。

「あの人たちは野良大学生にはならなかったんですか?」担ぎ手を見ながらあゆむは言う。

「なったものもいる。ならなかったものもいる。しかしいずれにせよ、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない」

「おれ八年生会解散について、間違っていたんじゃないかって思ってたんす」

「ああ」

「でも判断するのはまだ早いって思い直しました」

「おいおい恨まれるぜ」

「承知の上です」

「そうか…」ため息。そして「よしてめえら全力でもてなせ!」

 誘拐とおもてなし。それが彼らのやり方である。

「大家と交渉して広間を借りた。前打ちといこうぜ。あゆむも来るだろう?」

「手まわしが早いっすね…」まああの大家なら、遅かろうと早かろうと酒が飲めれば無下にはしない。「そうですね是非参加させて欲し、あっ! 今何時です!? 十九時? うーん行きたいのは山々なんすけど、ちと野暮用が…。追い出されるのが二十一時だから…これから向かったとして実働一時間半か…」「学校か?」「そうっすね」「何か俺に出来ることがあれば言え」「ありがたいっすけど自分でやらないと意味がないんで」「そうか。男が決めたことなら水は差すまい」「あ、でも一つだけ」「高速の手のひら返し…」「守衛をやり過ごすのにうってつけの場所って元・八年生会の桐森さんなら熟知してますよね?」

 それからあゆむは、トイレやら部室棟やら巡回ルートやら、様々な情報を伝授してもらうと取るものもとりあえずアパートを飛び出した。

「一晩中やってるからなー」という桐森の声に手を振る。

 外は既に秋を通り越し冬の空気で満たされていた。

 それを胸いっぱい吸い込むと夜の闇に溶けるような気がした。

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