EP2 蛙の日常

「打倒打倒と馬鹿のひとつおぼえみたいに言いますが、具体的にはどうやって八年生会を倒すつもりなんすか? 野良猫の次は野良犬? それとも殴り合い? 素人見立てで悪いが、おれを含めてここの大半が向いてないっすよ。そして向いてる奴はそもそもやる気がない」

「日陰で目立たないようにひっそりと生きたい…」

 ロックは図体を丸めて膝を抱える。本人は目一杯『ひっそりと』を体で表しているが、謙虚さのかけらもない。ユンボの先端ぐらい暴力的な球である。芯嶋英作はあゆむの話を聞いているのかいないのか、唐揚げを食べている。学食で唯一美味しいメニューだ。あとは高くて少なくて不味いと三拍子揃っており、そのせいで野良猫たちが肥える。

「あゆむくんは義賊というものを知っているか?」

 油臭い息を吐きながら言う。

「義賊…?」

 傍で聞いていたソワ子が指折り数える。「鼠小僧、石川の五右衛門、ルパン…」

「ルパンは違うだろ。女につくだけだし」

「アルセーヌ!」

「はいはい…」

「ねえ唐揚げずるいスポンサー!」

「良かろう。これで買っておいで」

「わーい唐揚げパーティ! 行こうでかいの」

「ぼ、僕…?」ロックの腕が引っ張られる。

「荷物持ち兼ボデーガード! 唐揚げには育毛効果があるって、今作った嘘!」

「これは円形脱毛症…」

「え、まじ? うける。円でかすぎ」と言いながら二人は出ていった。

「彼女、ロックがお気になのかい?」見送りながら芯嶋は言う。

「お気にて…」いつの時代の言葉かもよく分からない死語だ。「お気にかどうかは分かりませんけど、あの体格にビジネスチャンスを見出したみたいっすよ」ロックを指して『何かと使える』と言っていた。「一番のお気にはガクです」

「え、ぼく?」とガクは勝手に唐揚げに食指を伸ばす。「意外!」

「…白々しいな」

「でもぼくは無いかなー。貧乏人は火炙りにされろって思ってるしっ」

 ひどすぎて引く。

「…でもソワ子のお気にはロクさんやガクだけじゃないっす。ラリさんとも女性同士なんだかんだ通ずるものがあるみたいですし、芯嶋さんはブっとい金ヅルとして慕っています。明確に敵愾心を抱いているのは、おれぐらいじゃないっすか?」

「あんらーうれしいー…」ラリは机に突っ伏したままくぐもった声を上げる。「糖が足らない」

「あゆむくんはソワ子くんと仲良く出来ないのかい?」

「無理っすね。目え合わせればベンショーベンショーで取りつく島もない」

「それは困った」

「別に困んないっすけど…」

「それもそうだね。よし生産性のある話をしよう。で、なんだっけ?」

「……」なんだっけ?

「義賊…」とラリ。

「そうそう、義賊。ようするに大事の前の小事。正義をなすためには悪事も辞さない。それぐらいの覚悟が我々には必要ってこと。つまり盗むんだ」

「盗む?」

「連中のものを盗んで盗んで盗みまくる。有形無形、有象無象は問わない。全て盗んで我々同様、辛酸を舐めさせられてきた人々に還元する」

「…つまりおれたちは…」威借あゆむ、どうしてこんな恥ずかしいことを言ってしまったのか説明がつかない。が、言ったものは言った。「昼は蛙貴族で夜は蛙義賊になるわけっすか?」

「素敵!」と目を輝かせながらソワ子は扉を開けた。初めてあゆむに向ける満面の笑み。「端数切り捨て!」おそらく弁償額のことを言っている。金に汚い富良ソワ子、破格の待遇である。

 ビニールに直入れのホカホカの唐揚げがどっちゃりとテーブルに置かれた。

「ふむ。ではこれより《蛙義賊》結成の儀を執り行う!」

 ただの飲み会は夜が更けるまで続く…。



 その途中、別室にて、宴もたけなわのタイミングで「芯嶋さん、ちょっと良い?」

「珍しいねガッくんが私を呼び出すなんて」

 芯嶋英作と西原田楽、薄暗い部屋で向かい合う。

「貴君が声をかけるのは女の子だけかと思っていたよ」「うーん、金持ってそうなおっさんにも声かけるよ。あ! 金持ってそうなおっさん!」「どうも金持ってそうなおっさんです。貴君の人生に幸多からんことを」「どもー」「ならば手短に済まさないと妙な噂が立ってしまう」「うんじゃあ単刀直入にーー今のままではダメだ」「駄目というのは?」「このままでは十分にあゆむの力を発揮することができない」「ふむ、つまり今の彼はただのナマクラになっちまったと言いたいわけだ」「話が早くて助かるよ」「私は今のあゆむくん嫌いではないけどなあ」「そんなの、昔のあゆむを知ってたら口が裂けても言えないよ。裂かれるよ口」「ではガッくん、どうするかね?」「ぼくが目を覚まさせる」「ほお」「彼がかつてぼくの目を覚まさせてくれたように、今度はぼくの番だ」「ふむそうか。では任せよう」「任されよう!」

 薄い胸を張った。

「あ手出しは無用だから。芯嶋さんは芯嶋さんのやるべきことやっててよ」

「あい分かった。なんだかワクワクしてきたよ」

「ふふふー、目に物を見せてくれる!」

「ああ二人でえろいのやってるわん!」隣の部屋からくぐもったラリの声。

「耳年増。頭の中のスケベな妄想が漏れ出さないようにコンドームでも被せてこようかな」

「聞こえてんぞクソガキ」

 あゆむは酔い潰れていたので尻にアロエを塗りたくられた。


 あゆむが蛙貴族に入って一週間が経とうとしていた。その間八年生会から報復を受けるようなことはなかったし、日常生活も変わりない。しかし嵐の前の何とやら、近日中にこの平穏が得難いものとなる。そんな予感がしながら学食でまずいカレーを食っていたら「よお」声をかけられた。が誰だか分からない。見覚えはある。なんだっけええっと、そうだ、よみうりランドのたっくんだ。盛りマスカラ選手権を従えているので思い出せた。「ああ久しぶり」

「お前…大変なことしてくれちゃったな」

 大変なこと? 真っ先に思い浮かんだのは八年生会との諍いだがどうやら違うらしい。

「俺らここ一週間、授業に出ても一切出席扱いにならなかったんだけど?」

「…あ?」

「連絡もとれないし授業も出ない。学生証返せって皆カンカンだぞ?」

「…あ」業者単位で学生証を預かっていたのをすっかり忘れていた。「…ごめん」

「ったく。仕方ねえ。過ぎたことをとやかく言っても始まらない」あら大きな器、と思ったのも束の間「そうだなあ、じゃあ飯でも奢ってもらおうか」と不穏な笑みを浮かべた。

「ああそれぐらいなら良いけど…」

「オッケー。じゃ、みんな呼んでくるから」

「は?」衝撃の一言があゆむに飛来した。「み、みんな…?」皆って誰だ。無論学生証の持ち主である。十や二十ではきかない。そんなことになったらプチパーティだ。平成の世で『餓死』の二文字がくっきりと浮かんで見える。3Dか! これが現代の映像技術か!

「えー悪いよお」鼻から抜ける声。罪悪感の欠如した『悪いよ』は以前にも聞いた記憶がある。盛りマスカラ選手権、クネる。「いいのお?」手のひら返し。

「良いよな? だってお前が悪いわけだし」

「……」どんな理由があれ返すのは義務である。その点に関してたっくんに非はなく、忘れていたのはあゆむの問題だ。しかし餓死は何としても避けたい。とりあえず今は見逃してもらって、改めて一席設けるというのはどうだろうか。交換条件に学食より若干グレードを上げて、それまでに懐事情と綿密な打ち合わせをしたのちーー。と。

「うわあああああゆむうう!」横殴りに何かが飛びかかってきた。「あゆむあゆむあゆむ!」

「…が、ガク」首に腕が絡まりつく。くるちい。「は、な、れろ…」

「無理! このまま一体化する!」

「提灯鮟鱇の交尾かっ」取り込むのも取り込まれるのもごめんなので腹に肘を入れた。「うっ」と本気の呻き声が漏れる。「きもちぃ…」「きもち悪ぃ…」

「さ、西原くん?」たっくんが恐る恐るガクに話しかける。「え二人、え、知り合いなの?」

「知り合い? マブだよマブ」

「…お前が勝手に言ってるだけだ」

「で、きみは誰だっけ?」

 不自然につり上がった口元がピクリと動いた。「や、やだなあ俺だよ。合コン呼んでくれただろう?」と言ってから改めてたっくんは名乗った。

「ああP.N.合コン大好きっ子くんね。はいはい思い出した。ということにしておいてー」

「ははは…」二度目のピクリ。「変なあだ名つけないでくれよ。でも西原くんには感謝している。あれがキッカケで俺たち付き合うことが出来たわけだし」

 期せずして二人の馴れ初めを聞いてしまった。どうでも良い上に面白みがない。

「あんれー? 誰かと思ったら誰かさんじゃん。お久しブリーフ!」

「…お久しブリーフ」盛りマスカラ選手権は俯く。先ほどまでの新鮮ピチピチぶりが嘘のように存在感を希釈してちょっとずつ後ずさる。

「えーテンション低いー」だがガクは手首を掴んで逃がさない。「再開を喜び合おうぜえ」

 目に見えて動揺する。隠そうとすればするほど漏れ出して感づかれる。

「きみたちが幸せそうで何よりだよ。キューピットし甲斐があったってもんだ。ねブラザー」

「おうブラザー!」たっくんは弾けんばかりの笑顔を浮かべた。

「ーーっ!」

 途端、盛りマスカラ選手権は逃亡を図る。ガクの手を振り払おうとするが、思いの外力が強く離れない。モテる秘訣は細マッチョとみた。たっくんは事態についていけず放心状態である。

「…ブラザー」あゆむはその意味を考え、ほどなくして一つの解答に辿り着く。たっくんの思い描くジャッキーとクリスタッカー的な意味はない。全くない。「ホールニューワールド…」

「違うのお! 時期は被ってないのお!」盛りマスカラ選手権はすがりつく。墓穴を掘った。そこまでされたら能天気なたっくんでも大方予想はつく。

「え、だって初めての彼氏って…」ふくふくとした笑顔から血の気が引いていく。

「おひょう! ダメな言い訳の典型だあ。ーーねえ合コンくん。誤解して欲しくないのは、彼女は嘘は言ってない。事実きみが初めての彼氏だった。初めての、彼…、おひゃひゃあ!」

 堪えきれなくて笑い出す。

「最低…。わたしを捨てたくせに!」

「男二人を両天秤にかけた女が被害者面しはりますう? それに捨てたわけじゃないよ。拾ってもいない。悲劇のヒロインは自己申告制じゃあないぜ?」

「一つ…きいて良いか?」たっくんは机で体を支えながら「…俺を、選んだんだよな?」

「いやいやいや、今の会話から明らか選んでないっしょ? 自分どんだけ能天気やねん」

「わーんゲイになってやるう!」たっくんの遁走。

「末長くねー」清々しい笑顔で見送る。「でも既に初めてではなかったよね?」

「…くっ!」ガクの頬に左手が飛来する。が、くぐり抜けた修羅場の数が違うのか、容易くそれを受け止めた。あゆむは一発ぐらい殴らせてやれよと内心同情する。

「お帰りはあちらだよ」

 キッと睨まれたのは「ええ…おれ?」とばっちりだ。

「ーーお前、なにやってんの?」

 居た堪れなくなって学食を飛び出した。ガクを連れて。もちろん盛りマスカラ選手権の姿はない。どこかへ消えてしまったし、おそらく二度と会うこともない。

「あゆむはアホなの? 学生の命とも言える学生証を預かっていながら何故言いなりなのか。高笑いしながら目の前でシュレッターに叩き込むぐらいやってよ」 

「そんなことばかりしてるから要らん恨みを買うんだ」

「でもあゆむ困ってたでしょう?」

「それはそうだが…」

「まあまあとやかく言いなさんなって。とりあえずちょっとついてきてよ」

 ガクはずんずん進んでいく。あゆむが連れてこられたのは大学の果てだった。三方向をコンクリートの壁に囲まれた袋小路。そこに見紛いようのないたくましい背中が見えた。「ロクさん?」「ベストタイミングだ」「おい、どういう」「しっ。静かに」物陰から動向をうかがう。

「ああ? お金無いってどういうこと? 今日が期限だっていったよなあ!?」

 穏やかでない空気である。先日の温厚さが嘘のようにドスの効いた声をあげる。背中ですっぽりと隠れているが彼の前には人がいる。誰がどう見てもテンプレート式のカツアゲであり、カツアゲているのはロックだ。「やっぱりこっちの方が似合ってるよね」悲しいが同感だった。

「…でもそんな急に言われても」男のかすれた半泣きの声が聞こえる。

「うるせえ服脱げ」靴下まで引ん剝いて鞄の中身をぶちまけた。「持ってんじゃねえか!」

「いやでもそれは家賃が…」全裸で震えている。

「借りた金は返すのが筋だろ。ああ!?」

 どうやらカツアゲではなく取り立てのようである。蛙貴族の資金源か?

「オラ行け、消えろ! オラ」と長渕キックでロックは男を追い出した。

「ひーっ」と悲鳴をあげながら、あゆむ等とすれ違う瞬間目が合った。「ごめんなさいい!」取るものもとりあえず、ストーリーキング。あっという間に姿は見えなくなる。

「……」ごめんなさいの心当たりはないが、見たことのある顔だった。でも「誰だっけ?」

「あゆむくん…」ビクッとした。背後に突如として巨壁が立ちはだかる。驚きすぎて背中の筋を痛めた。しかしロックはいつもの様子に戻っておりカツアゲなどする気配はない。「これどうぞ…」茶封筒を差し出してくる。受け取れしかるのち開けという解釈で間違いなさそうだ。

「なんすかこれ…大金じゃないっすか!」中には万札が入っていた。それもメンバー全員諭吉でサッカーチームが組めるぐらいの数である。「おれこれ貰って良いんすか?」

「もちろん。てか元はあゆむのお金だし」何故かガクが答えた。

「僕は…人生で初めて…人様のお金を奪ったんだ…」ロックはその場で膝を抱えてうずくまる。

「正義のカツアゲだよ! 正しいことをしたんだから胸を張れっ!」

「カツアゲに善悪が存在するのか?」

「レアケースレアケース。このお金はあゆむが不届き者どもに貸していたお金だ。それをロックの有り余るポテンシャルを生かして全額返済してもらった。しっかし連中、持ってるのに借りてあまつさえ返さないんだから、性根から腐ってるよね。おっと金額が多いとかは言いっこなしだ。どうせあゆむ自身おぼえてないんだし、利息だと思って受け取っておきなよ」

 良いのだろうか、言われて考える…。

「いや良いはずねえだろ! 一体全体これは何の真似だ!」「荒療治」「…あらりょうじ?」「あの頃のギラついたあゆむに戻ってもらおうと思って」「…返してくる」「受け取らないんじゃないかな。あゆむを全力で避けるようしっかりとトラウマを植えつけておいたから」「余計なことしやがて…」「ラリも『カップルを懲らしめる』って言ってたから今頃腐った照り焼きチキンとか食わせてるかも。にしし」「楽しそうだな」「良い気味じゃない?」「どうしてお前はそんな風になっちまったんだ?」「変わることができたと言って欲しいな。かつてのきみのおかげでね」「あれは全部嘘だ」「あゆむと離れ離れになった後、同じように何度か転校を繰り返したんだけど、やっぱりぼくいじめられやすい体質みたいなんだ。でも大丈夫だったよ。きみから習ったやり方は効果覿面だった。その内自分は他人より顔のつくりが優れているってことに気づいた。モテるだよね、何をやっても。それからは向かうところ敵なしだ。強いよ、女の子って。人類の半分は女なわけだし男の弱点は女なわけだし、彼女たちを味方につけることでぼくの立場は一転した。はいここでクエスチョンタイム! 男が最も無様に敗北を噛み締めるのはどんな時でしょーか」「…漏らした時」「寝取られた時」「…八年生会に狙われている理由も、それか?」「限りなく近い。モテない男の見苦しい復讐劇だね」「…分かった」「それは良かった」「おれが再びお前を導かねばならない」「…中々病は深刻とみた」

 ガクため息。アメリカンスタイルでやれやれと肩をすくめる。

「やばいよ? パシリとか金撒きあげられたりとか、小学生かよ」小学生の西原田楽かよ。「うるせえ、おれの勝手だ」

「…ぼくに対しては高圧的なんだけどねえ」

「お前が間違っているからだ!」吐き捨てる。

 ガクは間違っている。それはあゆむの中で確固たる意志だ。しかし自分が間違っていないことの肯定にはならない。

「あゆむが変わったことについて、ぼくは不満なわけじゃない。でも『どうやら駄目らしい』と気づいていながら生き方を変えないのは最悪だよ」

 去りゆくあゆむの背中にその言葉は届いたのか。

 ガクには分からなかった。


 その日を境に八年生会との戦いの火蓋は切って落とされた。

 蛙貴族は蛙義賊として芯嶋英作の宣言通り盗んで盗んで盗みまくる。「これではただの窃盗団ではないか!」あゆむは文句を言いながら軽トラをふかす。未だ返せずにいた。荷台は改造され『人に向けてはいけない玩具』がスイッチポンで発射できるようになっている。噴き出る七色の煙はファンシーというよりケミカルで吸い込んだ敵の意識を一瞬で奪う。気絶した八年生会が蛙貴族の走った軌跡となる。彼らはそれを憧憬を込めて《畦道》と呼んだ。

「あほーとんまー」ソワ子は煽り担当である。

 向かった先はあゆむの部屋、一度許してしまったのが運の尽き。あっと言う間にわけのわからないガラクタに占領された。仕方がないので現在彼は隣の部屋で寝起きしている。空いてたから勝手に使った。なんせ部屋は有り余っているし、管理人も管理とは名ばかりだし、それに万が一請求されたとてどうせ払うのは芯嶋英作だ。

「いいなあ、あたしも住んじゃおうかなあ。花の女子大生、憧れの一人暮らし」

「お前の憧れる一人暮らしは風呂なしトイレ共用のプライバシーゼロ空間なのか? 訪れるものと言ったら酔っ払いかルンペンか、もしくは酔っ払ったルンペンだ。それでも良いなら」

「うるさいうるさい。あゆむのアホアホ」

 そんなこんなで彼の部屋は古伊万里の壺から高橋留美子のサインまで古今東西のお宝で飽和状態である。無論総じて眉唾だ。由来通りであれば国立美術館に寄贈すべきものも少なくないが、おそらく本物は1パーセントにも満たない。だいたいこんなものを盗まれた所でどんな痛手を負うのか。むしろこちらが利用され、ゴミ掃除をやらされている気さえしてくる。

 当然八年生会もやられっ放しとはいかない。

 しょうもない窃盗行為への程度のひくーい報復は日常的に行われた。背中に張り紙、呪いの手紙、野良犬を放つ、ポケットに刺身など並の精神では発狂ものである。

 ーーその日はあゆむ、ソワ子、ロックの三人が《かわずの巣》にいた。

「んぎゃあああああああああああ」と野太い悲鳴があがる。突然の出来事に滅法弱く、毎度お手本通りのリアクションが出来るのは、ロックを除いて他にいない。彼の悲鳴は最早八年生会襲撃の合図となっていた。初めの頃はあゆむたちも新鮮味を持って驚いていたが最近は正直マンネリである。やれやれと二人は振り返った、が「…うっ!」しかしその日は一味違った。

 投げ込まれたのは巨大なGである。それも極東の島国のチケンなやつとは遺伝子レベルで異なるマダガスカルオオゴキブリだ。さらに品種改良か突然変異か、本来持っていないはずの飛翔能力を持ち、講義室の中を縦横無尽に飛び回る。両羽を広げると30センチ近くある悪魔だ。

「…八年生会は生物兵器を作ろうとしているのか?」

「あゆむーっ、これを使えーっ!」ソワ子が殺虫剤を投げてよこした。しかも

「すげえ氷殺ジェットじゃねえか! どこで手にいれた?」

「ヤ○○ク! いちばんそいつが火力ある!」

「ロクさん換気換気!」

 残念ながらダブル貧乏は、こと害虫に対して驚異的な耐性を持っていたのである。

「しかし正直私は驚いているよ」

 ある日、二人の働きぶりを見て芯嶋は感嘆の声を漏らした。

「コンビネーションは、ロッくんとラリくんにも引けを取らない。ベストパートナーだ」

「……」「……」忌々しげに睨み合う。

「ねえぼくは?」

「ガッくんはほら、万能型だろう?」

「うーっ! ぼくもあゆむとコンビ組む!」

 弊害として壊滅的に仲が悪い。些細なことで常に言い争う。喧嘩の種は至る所に転がっており『ネギつきタン塩の焼き方について』とか『信号無視におけるの罪悪感と横断歩道の距離感について』とか『ランボー2について』とか…。ラジー賞はあゆむには禁句だ。二人の争いを芯嶋は「犬も食わないねえ」と言って喜んだ。意見が食い違うから喧嘩になるというより、相手が気に食わないから異を唱えるといった感じで正逆の立ち位置を常にキープする。何故そこまで気に食わないのか。何が彼らの琴線に触れるのか、それは誰にも分からなかった。

 しかしその甲斐あってか蛙貴族の名が少しづつ広まり始めていた。曰く『八年生会打倒を志す阿呆集団がいるらしい』『命知らず』『身のほどを知れ』と、決して良いものばかりではなかったが、百回に一回ぐらいエールを貰った。「そういう馬鹿嫌いじゃないよ」と食べかけのポテチ渡された。猫の扱いについて「よくやった」と褒められた。現在猫達はアパートの愛玩動物として猛威をふるっている。

 芯嶋はそれを「良い兆候」と笑った。良い兆候を主に作り出したのがあゆむとソワ子である。

まあ単純に二人の喧嘩が目立つだけかもしれない。

 窃盗の後は必ずあゆむの家で祝杯を挙げるのが恒例化していた。時にはアパートの有象無象が集まってきたし、時には八年生会など関係なく酒盛りは行われた。

 思いの外悪くなかったのである。

 この空気が嫌いではなかった。

 あゆむも誇り高き緑色の紳士として、井戸の底でふんぞり返っていたのである。


 報告しに行こう。どこへ? 瀧のところへ。報告とは少し違うか。しかし最近構内の不正が減っているとか聞ければ、とても励みになる。つまり会いたいだけである。

 研究室の扉の前に立つと「……」扉の向こうから二人分の声が聞こえた。

(言い争っている…?)

 一人は間違えようがない彼女の声である。もう一人は男の声で聞き覚えはない。そしてはっきりと分からないが一方的に瀧が声を荒げていた。男は言葉少なに宥めすかしている。

(日を改めるべきか…?)と思い扉から手を離した、が「…あ」

「……」無常にも扉が開く。精悍な顔立ちの男がと目が合った。太い眉が印象的で男はあゆむの方に一瞥をくれると何も言わずに立ち去る。開けっ放しの扉、瀧と視線が交錯する。

 ーー彼女は泣いていた。

 ああと、聞かずして二人の関係を察する。ある程度想定していが、むしろこんなに美しい人を放っておくほうが異常であり、その場合特殊な性癖とか宗教上の理由とか逆に心配になってしまう。だから正直安心した。でも結構ショックだった。

「あ、あの…。おれ、帰ります!」結局帰るんかい、と内心でツッコむ。

「待って」涙声で「帰らないで」

 そんな風に言われて帰れる男がいるだろうか。いやいない。

「……」

 女性が愚痴を漏らす時一緒になって彼氏をけなすと「そんなことない!」と向こうの肩を持つらしい。逆に彼氏の肩を持つと「そんなことない!」とさらにパートナーを貶める。このことから恋愛上級者たちは、徹底して男の味方をして二人を破局へ導くという。

 ではあゆむはどうするべきか。本当に好きかと尋ねられれば本当に好きである。ただそれを他人を不幸にすることで証明しろというのは間違っている。本当に好きなら瀧女史が最も幸せになれる方法を選ぶべきであり、そこに自分を捻じ込むのは選択肢の一つでしかない。

 しかしそれは逃げじゃないか? 自分本意で何が悪いというのか。紳士だか騎士道だか知らないが格好つけているだけだ。ランスロットを見習え。好きってのはお利口な理屈じゃねえんだよ。周りも自分も何かも見失ってそれでも突っ走るのがLOVEだろうが!

 貴様それは浮気を純愛とする常套手段ではないか! 本能に従順な動物的愛は性欲だ。人間的な純愛とは大きく異なる。いい加減にしないとマディソン川に沈めるぞ。

「…ああ精神が分裂する!」

「どうしたの?」

「…いえ」

 瀧は鼻をすすりながらお茶を淹れてくれた。「やりますよ」と言ったら何かしら手を動かしている方が気がまぎれるとのこと。変な味の甘い茶を啜る。宣言通り少し落ち着いたようだが、未だ目は赤い。こんな時どのような言葉をかけるべきか、圧倒的経験不足ゆえ想像もつかない。直接的な言葉より婉曲的な方が良いだろうか。それとも天気? 天気の話題かしら?

「…私、あなたが芯嶋くんと一緒にいるところを見たわ」

 結局先手を取られてしまった。

「あなたたちはどういう関係なの?」「強いて言うなら上司と部下ですかね」「先輩と後輩ではなく?」「そんなフレンドリーではないです。しかし上司と部下ってのも違うか…。会社じゃ無いんだし」「師匠と弟子?」「あ、それが近いかもしないです」「そう、だったらお互い師事する相手を間違えたようね」「…確かに。っていうかそれも違う気がしてきました」

 それからしばらく考えてみるが、結局しっくりくる答えを見つけられなかった。

「…瀧先生と芯嶋さんはどういうご関係で?」

「学生の頃ね、三人でよく遊んだの。芯嶋くんたちは私をただのお友達として扱ってくれたから馬が合った。でも二人ともよく分からないことに情熱をあげていたなあ。ほら男子の遊びって子供の頃からよく分からないでしょう? ああきみも男の子か。女の子はそれを遠巻きに眺めて『なんであんなわけのわからないものに情熱を注いでいるのかしら』って首をかしげるの。それが少し優越感でもあり疎外感でもある…」

「…もしかしてもう一人は、先ほどすれ違った人ですか?」

「そうね。すれ違ったのはあゆむくんだけじゃないけど」

「……」絶句。このタイミングでうまいこと言われた。

「思えば二人がまだここにいるから、私も講師なんてやっているのかも。でも同じ場所にいたところで心の距離が開いてしまえば、物理的にも距離は開くのね。当たり前か」

「物理的な距離を埋めるから、心の距離が埋まるのかもしれません…」

「でも芯嶋くんなんて全然会ってくれないんだから。神出鬼没の上に偶然見かけてもすぐ逃げちゃって。普段はでっぷりと構えていくるくせに、そんな時ばかりどうして俊敏なのかしら」

「普段でっぷりと構えているから、そんな時に俊敏なのかと…」

「桐森(きりもり)くんーーさっきの彼ね、桐森くんはああやって定期的に会いに来てくれるけど最近は顔を付き合わせれば喧嘩ばかりだし、呆れられてるだろうなあ」

「呆れている人の所に自ら足は運びませんよ」

「そうかなあ。そう思う? …でもなあー」

 やや瀧の表情が柔らかくなった。結果的に桐森の肩を持つことになっているが、これといった意図はない。流れである。しかし分かっていたことだが、自分の入る余地の無さにやや気が滅入る。片恋相手が違う世界で生きていることを知り勝手な疎外感を抱く。

「…おれからしたら、そういうのは羨ましいです」

「羨ましい?」

「おれなんて芯嶋さんのパシリですよ?」

「彼は他人を手足のように使うのがうまいから…」

「男二人に女一人の繊細微妙な関係って正に青春じゃないっすか!」

「……」

「時かけみたい」

「私は無意識に男を振り回したりしない!」

 それが地雷であることなど果たして誰が知り得たか。絶叫。狭い講師室に瀧の声が響く。プラスチック製の茶碗が素っ頓狂な音を立てて転がった。床に広がった飲み残しのお茶が、じりじりとあゆむに迫る。彼方から届く初夏のセミの声が静まり返った室内を踏み荒らす。

「…ごめん…急に大きな声出して」顔が髪に隠れて表情が読み取れない。

「…あ、いや、その」尻の谷間までびっしりと冷や汗をかいていた。

「やっぱり今日、帰ってくれる?」

 あゆむは何も言うことが出来ず、そそくさと部屋を後にするのが精一杯だった。

 生まれて初めて女性を傷つけた。



「生まれて初めて傷つけたと自覚したの間違いじゃん?」

「は?」

「現にあたし殴られてっし」

「……」

「殴られってっし!」

「おれは女にも振るえる拳を持っている」

「傷つけまくりじゃん暴力亭主!」

「なんだとこの野郎また殴るぞ」

 後日かわずの巣にて蛙貴族のメンバーが集まる。言うまでもなくあゆむはひどく落ち込んでいた。有り体に言って一人で抱え続けることに耐えられなくなった。とにかく吐き出したかった。…だからといってソワ子は相談相手として最悪の部類じゃないか。

「カマトトぶってんじゃねえぞ!」とソワ子。

 後ろでラリとロックが「カマトトぶるってこういう時に使うの?」と首をかしげた。

「とにかくあんたは他人を傷つけることに関して一家言持ちだっていってんの! たまたま相手が美人だったからっておセンチになるのは片腹筋違痛えっていってんの!」

「じゃあお前はおれにどうしろってんだ!?」

「堂々としてろ! 誰かを傷つけたからって刃物が折れるか? 折れないだろ! 折れたら使い物にならないだろ! それが刃物の利点だろ! 刃物なら刃物らしく堂々としてろ!」

「…どういう意味だ?」

「あたしもちょっと分からない!」

 一つ分かったこととして自分は慰められるより殴られた方が元気が出るということである。

 芯嶋は「片腹筋違痛えねメモメモ」と後で使うつもりらしい。

「…芯嶋さん」「なんだい?」「瀧さんに会いました」「話の流れでなんとなく分かったよ」「瀧さんの彼氏にも会いました」「桐森くんも懐かしいねえ」「会ってあげないんすか?」「まだその時ではない」「その時?」「約束があるからね」「約束?」「あゆむくん、桐森くんもまた八年生会だよ」「……」「二人が揉めていた原因も大元を辿れば八年生会だ。いいかい私は連中を打倒する。それまで彼女に会うことは出来ない。彼女の幸せを望むのであれば、貴君も志は一緒だろう?」

 そう言われてしまえば反論の余地はない。しかし「揉めてるって言ったっけ?」と脳みその片隅で分裂した人格が小首を傾げている。まあ取るに足らない由無し事だったので黙殺。

「さて前置きはこれぐらいで。今日集まってもらったのは他でもない。ガッくんが攫われた」

 さらっと言ったせいでイマイチ緊迫感に欠ける。が、とんでもないことにジワジワ皆気づく。

「八年生会に?」とラリ。芯嶋は頷く。

「……」あの一件以来、あゆむとガクの関係はちょっとギクシャクしていた。一方的にあゆむが避けていたという方が正しいが、だから「自業自得ですね、放っておきましょう」といったわけではなく、いずれにせよ一度きつい灸を据えられろと思っていたのである。

「そういうと思ったよ」

「しかし妙ねん」とラリ。「天性の逃げの才を持つあの子がそう簡単に捕まるのかしらん」

「捕まった理由があるんだ」とロック。「怪我してる所を襲われたんだ! どうしよう!」

「だったら尚更捕まらないんじゃないの?」とソワ子。「手負いの熊と同じ理屈で」

「鋭いねえ君らは。これが信頼関係か。ーーガッくんにはスパイとして潜り込んで貰った」

「…スパイ?」

「布石だよ。内と外から連中を叩くね。おそらく今までで一番でかい山になる。心してかかって欲しい」その瞬間蛙貴族は蛙義賊に姿を変える。「これ以上小物を盗んでも大した痛手は負わせられない。無闇にあゆむくん部屋を圧迫するだけだ。我々がこれから掻っ払うのは『八年生会創設にまつわる品』である。連中にとって尻子玉を抜かれるに等しい」

「名付けて《怪傑・大達磨転がし》」

「かっこいい!」とソワ子は諸手を挙げて喜んだ。

 なぜ達磨。なぜ転がすのか。転がらないのが達磨の真骨頂だろう。

「しかしそんな大切なものなら今まで通り道理を無理で押し通すのは無理じゃないっすか?」

「無理だろうね」芯嶋はあっさりと認めた。「だから策がある」

「策?」

「貴らだよ」

 芯嶋はあゆむとソワ子を指名した。

 で。

「……」

「……」

 いざ二人きりになると喋ることがない。あゆむの二メートルぐらい先をソワ子が歩く。

『ちょっとこれでデートしてきてよ』と言われて万札を渡された。『怪傑・大達磨転がしでは二人のコンビネーションが欠かせない。しかし君らは毎日飽きもせず喧嘩三昧。これでは成功するものもしない。だから親睦を深めてきて欲しい。今すぐ。速やかに。さあ行った行った』

「…デートったって、どこに行けば良いんだよ」「経験不足が仇となったわね」「お前はあるのかよ」「まあね」「ふーん」「へへん」「じゃあお前がエスコートな」「えっ」「当たり前だろ、おれのデートヴァージンを奪うんだから」「待って、まずデートっていうのやめない?」「…そうだな、そうなると、どうなる?」「…さあ」「せっかく一万円あるんだからさ、普段買わないものとか出来ないこととかないわけ?」「ない」「貧乏性!」「慎ましやか!」「紙一重だと思うけどなあ…」「あんたは?」「ない」「なんだかあたし悲しくなってきたわ」「だって無理に絞り出すもんじゃねえだろ」「それはそうだけど…………あ、そうだ」「よしきた!」「洗剤が…」「あ?」「洗剤が切れてた…」「えぇ…」「あとシャンプーも石鹸も消耗品全般が、ない」「そんな一斉に切れるか?」「我が家はまとめ買い派なの!」「……」「……」「…じゃあ買い行く?」」「…うん」

 威借あゆむ人生初デートは近くのホームセンターと相成った。なんだかんだソワ子は楽しんでいたように思う。普段使うやつよりちょっと高いシャンプーとか弟たちにお菓子とか、所帯染みた贅沢だがこれはこれで普段出来ないことである。派手な散財には向かないタイプなのだ。そこから無理矢理絞り出そうとしても出るものも出ない。そういう人間だから。

「ねえ、その…お願いがあるんだけど…」粗方買い物も済んだ頃ソワ子は言った。殊勝すぎる態度に逆に警戒してしまう。「…いす」

「あ?」「アイス」「ああ?」「アイスが食べたい!」「…なんだよ」「アイスを買おう」「買えよ」「違うの。半分食べて欲しいの!」「なんで」「なんでも!」「残せば良い」「残せるもんじゃねえだろ!」「ダッツなら丁度良い量だ」「なにあたしとジョイント接吻はごめんってこと!?」「ジョイントは関節だ。間接的は…なんだっけ?」「お願い! スプーンは別にするから!」「……」「おねがいーっ!」

 押し切られる形であゆむはアイスの店に連れて行かれた。まあ特に反対する理由はないのだが。30種類も選べるなんてとっても素敵。冷凍庫を覗き込んで思わず「…高ぇ」おれには分からぬ価値観だと諦めた。「バニラ」

 一方ソワ子は冷凍庫の前から動かない。跳んだり跳ねたり独り言を言ったり、端から見ていてかなり痛い。「あ、それ選んじゃう? わかるー」他の客に絡むな。紆余曲折の末選んだのは「チョコミント!」つくづく相性が悪い。

「……」しかし目を輝かせてほくそ笑む姿に、苦手なんだけどなあとは言えなかった。

 晒し者の席に座る。

「ほえー」とソワ子は容器を手の上に置き、目の高さまで掲げると矯めつ眇めつ眺める。完全に薄緑色の玉に心を奪われていた。生唾を飲み込み桃色のスプーンを突き立てるとパキパキとチョコレートが割れる。既に柔らかく、器に盛り付けた瞬間から食べ頃だ。量販店で売っているスプーンクラッシャーとは原材料から違う。すくい上げると思いの外粘り気がありツノが立つ。寄り目でそれをじっと見つめる。視線に熱があったらドロドロに溶けてしまうだろう。そして、やおら、パクリ。「ーーーーっ!」声にならない悲鳴をあげる。手足を振り乱しながら「んまあ! んまあ!」と繰り返した。

 発作だ。そうでなければ奇人のそれである。あゆむがじっと観察していることに彼女は気づかない。アイス一つにどうしてそこまで緊張感を保てるのか。おとぎ話の王女でも昔はとても食べられない時代は終わっているぞ。二口三口と続いてもリアクションは色褪せない。

 しかし唐突にハッと我に返り「これ以上は駄目!」チョコミントを机の上に置いた。

「…何をしている?」「見ないようにしてる!」「…チョコミントを?」「早く食べて! この世から消し去って!」「…えらく切れ味のある心変わりだな。しかし未練垂れ流しの人の前で食べるのは心苦しい」「…わいの」「ああ?」「弱いの! お腹が!」「…口に入れるものなら何でも食べると思っていた」「何だって食べるわ、それも美味しく。速やかに消化吸収、エネルギーに分解する。でも冷たいものに関しては別なの! 体が拒むの! 子どもの頃酷い目にあったの!」「じゃあ今は治ってるかもしれないな」「え?」「子どもの頃の駄目なものっていつの間にか治ってるもんだろ?」「…そ、そうなの?」「おれも気付いたら猫アレルギー治ってたし、紫蘇とかミョウガとか美味しいと思うようになったもん」「…へ、へえ」「そりゃあ子どもは無茶な食べ方をして体を冷やすこともある。でも口の中で温めてゆっくり食べれば、急激な体温変化など起ころうものか。季節は初夏。外は灼熱。体が冷える間も無く汗が噴き出す。何であれば暑い場所で食べて氷菓子の真価を堪能しようではないか」

「……」ソワ子はあゆむを見た。続けてチョコミントを見た。最後に外を見る。再度あゆむを見る目は、自信に満ちていた。「なんかいける気がする!」声高に宣言すると麗らかな日の下へ飛び出す。この世の春とばかりに一瞬でチョコミントを空にすると、続けてバニラアイスまで「乳くせえ」と言いながら平らげてしまった。

 …あれ?

「死ね!」ここまでシンプルな暴言を久しぶりに頂戴した。捨て台詞。十分と経たずに戻ってきたソワ子は尻を抑えながらヨチヨチとお花を摘みに消えた。

「…やっべ」

 次に見た彼女の姿は惨憺たる有様で目の下に隈、先刻までの覇気はなく、こけた頬、顔面蒼白である。「あゆむのあほ…嘘つき…うんこたれぇ」蚊の鳴くような声で囁いた。

「ウンコたれはどっちじゃ」とは口が裂けても言えない。

「歩けるか?」「…おそらく」「家まで送る」「…一人で帰る」「最悪のケースを想定しろ」

 急病のお客様アナウンス。その場合一人より二人の方がちょっとだけ救われるような気がした。「…勝手にしろ」とつぶやく。納得したというより反論する気力がない。

「すまん。一応責任を感じている」

 だから初夏に鍋だったのだろうか。ふと先日の出来事とリンクした。

 ーーソワ子の家は京王線の各駅停車しか停まらない都会の狭間の山間部にあった。田舎者はこういう所に来るたびに東京にも自然があるんだなあと知る。

「…家まで来るの?」「そのつもりだが」「送り狼」「実家だろう?」「ふん」

 古民家。彼女の実家は年季の入った平屋建てで、わけもなくノスタルジーをおぼえる。手入れの行き届いた家庭菜園に今時珍しい鶏小屋。あまり貧乏の印象は受けなかった。「ただいま」と引き戸を開けると「おかえりー」「おかえりー」「おかえりー」小さいのが足元にうじゃうじゃ絡みついてくきた。「校庭に野良犬がね」「二重跳びでー」「自転車のチェーンがあ」ちびっ子たちが口々に今日の報告をする。けたたましいことこの上ない。

「あたしゃ聖徳太子かっ」言いながら靴を脱いであゆむの視線に気づいた。「ーーぁによ?」

「嘘じゃなかったんだなあって、兄弟」

「誇張はしても嘘は言わない主義」やや元気を取り戻した様子である。

 この様子じゃ貧乏というのもあながち嘘ではない。しかし明るい貧乏だ。あゆむは違う。

「ねえあんた誰?」と予想していた展開ではあるが、いざ来ると正直戸惑う。「彼氏?」

「と、ともだち…?」「敵よ!」「おい!」「姉ちゃんのハライタの元凶」「……」

 あながち嘘ではないので否定できない。

「コラッ! お客さんに迷惑かけちゃ駄目でしょう!」

 救いの手が差し伸べられる。リーダー登場とばかりに現れたのは、エプロン姿の大きな妹である。あゆむはほっと胸をなでおろす。

「え、彼氏?」リーダーもあまり頼りにならない様子だ。

 ーーではこれでと言って帰ろうとした所を引きとめられた。

「それは自己責任です」

 ことの顛末を説明するとリーダーこと、富良家の次女こと、中姉ちゃんこと、高校二年生の富良椎子ちゃんはきっぱりと断言した。

「快楽主義だか何だか知りませんが、自制心が足らんのです」

「はあ」

「お兄さんに責任はないです!」彼女はぷりぷり怒りながら言った。

 ソワ子は「夕飯は粥で…」と言い残すと自室へ消える。説教から逃げたに違いない。

「電車賃幾らですか?」椎子ちゃんはがま口を開きながら「それぐらい出させてください」

「あ、や、大丈夫。大した額ではないから」

「そうですか。そう言って貰えると助かります。富良家の体面的にもお財布事情的にも」

「……」抜け目ねー。「あそうだ、これ、日用品とかお菓子とかあるから。使って欲しい」

「わあ助かります。結局消耗品が一番嬉しい」

 感謝はしても遠慮はしない辺りソワ子と同じ血が流れている。

「威借あゆむさん」

「な、何を急に畏まって」

 椎子ちゃんは三つ指をついて深々と頭を垂れた。

「どうぞこれからも姉と仲良くしてやってください」

「仲良く…」それに関しては素直に是と言えないあゆむだった。

「自称一家の大黒柱ですが、そのせいで友達が多くないのです」

「…椎子ちゃん、正直おれとソワ子は仲が悪い。目が合えば言い争いだし、肩がぶつかればつかみ合いだ。今日送り届けたのは偶然、運命の悪戯、つまり成り行きでしかなく、あいつも実の妹から『仲良くしろ』と言われたらさぞ迷惑だろう」

「迷惑なんですか?」

「…言葉の綾だ。人並みの関係を築けたらそれに越したことはないけど…」

「だったら大丈夫です! バリバリ仲良くしくさってください」

「バリバリ…しくさる?」

「だって姉とそんな風に全力で喧嘩する人、初めてだから。家に招くのも初めてだから」

「ん? 待て待て。ははーんさては誤解が生じているぞ。ソワ子には好きな奴がいるんだ」

 ちゃんといるかは確かめていないが、今回はそういうことにした。

「ああそれフラれます」妹、断言&的中。「見る目がないんですよ。つまり面食いなんです。テレビのアイドルなんかに対する『格好良いー』を現実に持ち込むから、それらしいものが好きになっちゃうんです。そのくせ本当に好きな相手は軽んじる傾向にあるのです。阿呆です」

「阿呆…」

「猫って好きな相手に噛み付くでしょう? つまりそういうことです」

 …どういうことだ。

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