十日で稼ぐ五十万

(あれは果たしてボクだったのだろうか……)

 夏の終わりの遠い空を眺めながら、兎上は物思いに耽っていた。夏休みが明け始まった二学期。何の変哲も無い日常の裏で、日々繰り返される三時間の狂宴。もっともそれは現実の世界では三分な訳だから、実質のところ傍目には、兎上の生活はこれまで通りの筈だった。




*          *




 あの日、入店するや唐突に充てがわれた初めての客。しかしてクトノが気を利かせてくれたのか相手は恐ろしく優しく、不慣れな兎上を丁寧にリードしてくれた。小さい頃に父親のナニと、大きくなってからは薄い本のナニしか知らなかった兎上は、自身の手の中で生々しく律動しつつ大きくなるソレを見て逆に興味をそそられた。男性向けの本を書こうなどと思った事は一度としてない兎上ではあるが、男同士のまぐわいに興味の無い訳ではない。要するにこれは、ここでこれから為される経験の一部始終は、或いは今後の創作において活用し得るのではとの思いが、徐々に兎上の脳内で鎌首をもたげていた。


 見た感じは二十代の後半。なんでも交通事故で命を落としたという彼は、あの世に行く前に、せめて生前の無念を晴らしたいと兎上を指名してきた。要するに彼はロリコンで、その癖を隠したまま幼馴染と結婚。そして子宝に恵まれ順調に自らを偽り続けた中での不意の落命。なるほどそれは災難でしたねと頷きつつ、兎上は床の相手を微力を尽くし務める。




 どうやらこのアマハラは、死出の旅に発つ死者の、最後に寄る夜の遊び場も兼ねているらしい。とは言えその滞在期間は、納棺時に身に着けていた装飾品や冥銭の額に応じるというのだから、全く地獄の沙汰も金次第とは言い得て妙だ。


「俺はあと十日は逗留できるかな。その間、できればずっと君を指名したい」

 それはそれは唐突な求愛でもある。そもそも異性からの告白という日常の一幕から遠くかけ離れていた兎上だけに、目を丸くして驚いた所ではあるのだが、まあそこまで風体の悪くないおじさんに好きと言われるのは悪い気のする訳もなし。照れ隠しにナニのさきっぽを軽くかじりながら、兎上は「あひはほうごあいます。はひめへへすけど」と、もぐもぐ口を動かす。


 プレイ時間は一コマが五十分。前後のシャワーや着替えを含めると、実質ことに及ぶのは四十分と少しだ。これで諭吉が一人増えるというのだから、兎上はこれまでの苦労の余りの徒労に、もう一度目を丸くしたものだった。それから十日、約束通りおじさんは、持てる時間と金の全てを、兎上の為に投じてくれた。




(おじさん、天国でよろしくやってるかなあ……)

 兎上は授業の声もどこ吹く風で、窓際の席からぼうっと空を眺めたままだ。この十日で稼いだ額は、ざっくりと五十万。コース料金分のバック三十万に指名代金、それに貸し切りの割増料金に、おじさんからのチップも含めた総額は、既に兎上の年間バイト代を一瞬で上回ってしまった。その上客が成仏した今、今日からの風向きに不安な側面は残る所だが、まあなるようになるだろうと兎上は高をくくる。それは或いは、異性に好かれる事でついてしまった自信かも知れないし、暖かくなった懐の余裕かも知れない。


(男の人に、かわいいって言ってもらえたの……初めてかもしれない)

 そう思えばと、高鳴るのは胸の鼓動だ。幼少から貧相な体つきの所為でろくに女として見て貰えなかった兎上は、リアルで異性を避けるようになっていた。すると一人称はいつの間にか「ボク」になり、どうせ自分なんてという劣等感から、逃げるように創作とバイト、それからソシャゲにと明け暮れ始めた。読書の殻に閉じこもりだしたのもこの頃だろう。だがそんな自分も、ちょっと化粧をして身だしなみに気を遣えば、相手の好み次第では十分に欲して貰えるのだ。これは重大な発見と言えるだろう。況や兎上とて一介の牝ゆえに、男に好かれるのは嫌な気がしない。それどころか、こんな自分にすら欲情してくれるのかと歓びすら覚える始末だ。或いはもしかすると、オフ会で会った美大生のお兄さんも、アマハラでの自分でなら、心から好いて貰えるのかも知れない。


 しかしてそこまで雑考を巡らせた所で、ふるふると兎上は頭を振り、一体自分は何を考えているのかと煩悩を払う。すっぴんの自分に優しくしてくれた初めての相手がお兄さんだったと考えると、脈ありの可能性を慮るのは行き過ぎた行為では無い筈だが、そう思いを馳せる度に疼く股間が気持ち悪く、なんだか自分がとんだ淫乱になったのではと自己嫌悪の念に駆られる。


(いけないいけない、それにリアルの処女は守り通さなきゃ行けないんだった)

 おまけにアマハラに入る為には、兎上はこちら側で処女を失う訳に行かない。つまり異世界でどれだけ経験を積もうとも、日常では絶対にまぐわっては行けないのだ。


(集中しよう。まずは大学の為の資金を貯めよう)

 斯くて修行僧の如く目を閉じる兎上。これはもしかすると、リアルでも自分に恋人ができる可能性に行き着いた兎上は、冷静に将来を見据え、可能な限り学業と趣味の二足のわらじを履けるように算盤を弾く。どうせならお兄さんと同じ美大に行きたいから、そう考えれば四年間で二百万は飛ぶ。もちろん一括払いでバンとそんな金を出せば訝しがられるのは間違いなく、そうなると一種の奨学金は取らざるを得ないだろう。後は東京でバイトをしてますよという体で毎月の家賃を切り崩す寸法ならば、アマハラで五百万は稼いでおきたいというのが兎上の本音だった。


(ていうかこれ、リア充するには身体でも売らなきゃ無理ゲだよなあ……)

 或いはこの社会自体が、一種の欺瞞に満ちているのだと確信するに至る現状。戦時中、建前上闇市は悪とされたが、人々は生きる為にやむを得ずそこを利用していたという。夏にちょうどその頃を描くアニメ映画を観たばかりの兎上だが、当時は遊郭もまた必要悪として存在していた。確かに今の日本に、そこまで切羽詰った家庭は多く無いとは言え、それでも何かを掴もうとするのなら、売れるものは差し出さねばならんという事なのだろう。なにせ皆が貧乏だった時代の貧乏と、皆がそこそこ裕福な時代の貧乏とでは、肩身の狭さに雲泥の差があるのだ。すると自分の家の台所事情に、鼻くそ程度の時給のバイトを加味して考え、これはそもそも、どこかで身体を売らなければ一端いっぱしの生活なんざ出来ないんじゃないかと兎上は背筋を震わせる。――そう言えば東京では、水商売の求人を呼びかける車が、歌を流しながらあちこち巡っていたなあと、今更のように思い出す。


(ばーにら、ばにらばーにらきゅーじん……)

 思わずその歌を口ずさむ兎上は、そういえばこの辺にはそこまでのお店は無かったなあと記憶を手繰る。兎上が生まれるちょっと前までは、温泉街にもストリップ劇場だとかがあったのだけど、バブルの崩壊を期に雪崩を打って閉店ラッシュ。今では街の外れに廃墟となって、代わりに心霊スポットとして名を馳せている始末だ。だがそう考えると、地方はお金を稼ぐにも一苦労だよなと改めて思い直す。なにせサクッとした風俗求人は少なく、地元のスナックや、旅館派遣のコンパニオン、数少ないデリヘルに名を連ねる他ないのだから。木の葉を隠すには森の中と言うか、こんないつ誰に知られるか分からない田舎町で風俗嬢をやるよりかは、東京でお水のバイトを探すほうが遥かに安全だと感じもする。――最もアマハラ以外でそんな仕事に就くつもりはない兎上ではあったが、可能性の一端としては、やはりそうなるだろう。


 


「おーい兎上! Aの問題、解いてみろ!」

 而してそこではっと現実に呼び戻された兎上は、そうだ授業もそこそこにこなさなければ、後々の奨学金に響くのだったと思い出したように声を上げ立ち、黒板に歩を進める。奨学金という要素の一つをとっても、少し階段を踏み外しただけでゲームオーバーになる世知辛い日本社会だ。辛いことからは逃げて善しなどと無関係の第三者は宣うだろうが、そんな甘言に惑わされたが最後、取り返しのつかない事態にのたうつのは他ならぬ自分なのだ。だから兎上は、何の障害も無く数学の問題を解き、何食わぬ顔で席へ戻る。コンビニのバイトを辞めたおかげで捻出された勉強時間で、ここ最近は予習とて万全だ。


「うさみん、なんか変わった?」

 そして着席するや小突かれるのは、臨席からの問いかけ。兎は兎でも「うなかみ」と読む兎上にとっては、この渾名は随分と不本意なものではあるのだが、ひよちゃんでは些かに馴れ馴れしすぎるし、パリピを気取りたい高校生ともなれば、この程度のノリが分相応なのだろう。ちなみにデザイン科たるこのクラスは、全体の九割が女子生徒で占められている。


「へ? 何が」

「何がって、授業中も寝てないし。なんか雰囲気がさ」


 なるほど。ああそう言えばと兎上は内心で頷く。夏休み前までの兎上は、コンビニバイトの疲れからかしばしば居眠りを繰り返し、時にバレては叱責を受けていたのだ。


「あー。バイト辞めたからね」

「え? 辞めたの?」


 まあその辺は受験に向けてだとか適当に言い繕うも、どうやら雰囲気自体が多少変わったらしい。ひと夏の経験という訳ではないが、もしかするとアマハラでの出来事が現実にも影響を及ぼしているのかも知れない。なにせ各日三分と引き換えに数万の諭吉が、ぽんと投げて寄越されたのだ。翌日の予習を一時間と見積もっても、化粧水を買ったり眉毛を整えたり、今まで手の回らなかった美容に時間を割けるのは、微々とはいえ見た目に変化を齎していてもおかしくはない。


「うーん、なんか大人びたっていうか、可愛くなったっていうか」

 うぬぬと唸るクラスメイトを横目に、そんなものかなと微笑んでみせる兎上は、夏休みに行った東京の夏期講習が原因かもねと嘯いて誤魔化す。これは少々節制し慎重に事を運ばないと、裏で何をしているのかと訝しがられる可能性も有り得るなと兜の緒を締め、兎上は今日からの計略を練っていた。




*          *




 放課後。久方ぶりに美術部のデッサン会に参加した兎上は、高校の課題をそこで終わらせて帰途につく。駅前で食事を摂り、電車の中ではソシャゲのアプリを起動する。これまで無課金に甘んじていたHGOも、コンビニで仕入れた林檎のカードで晴れて課金勢だ。とは言えいつも同じ場所で買っていれば流石に怪しまれるから、三千円ぐらいの小口で、幾つかに分散させるのが賢いやり口と言えるだろう。


(なにせ契約が怖いもんね。くわばらくわばら)

 もちろん、アマハラ経由のお金はグリーンそのものではあるが、何かの拍子に所持がバレ、説明に窮してしまうという事態は往々にして起こり得る。そんな時、喩え周囲に信じて貰えないとしても、アマハラの名を出す事はタブーなのだ。もし明かしてしまった場合どうなるかというと、契約不履行の咎で、財産の逸失や記憶の抹消、場合によっては落命のケースもあり得るという。とかく何らかの形で罰則が課せられ、アマハラとの今後一切の因果を断たれるらしい。事後に知らされたそのルールに慄いた兎上だったが、クトノに適当に乗せられた結果、一応は息災のまま現在に至っている。


(ま、その点ソシャゲはいいよね。目に見えて物が増える訳でもなし。ストレス解消にはもってこいかも)

 クトノの曰く、極端に金遣いが荒くなったり、身につけるものが派手になったり、そういう部分から某かが露見するのだとの事。幸いにバイト代の振込用に口座を持っていた兎上は、稼ぎの大半をそこにぶち込んで、残りを小遣い代わりに手元におくようにしていた。


 そう考えれば余り自由だとは言えないまでも、やはり金銭の余裕は、心にもゆとりを齎すものだと改めて知る。これまでは乗り遅れれば家人を呼ぶしか無かった麓の駅も、いざとなればタクシーが使えるのだと思うだけでも随分と気が楽だ。温泉街行きのバスに乗り、いつも通りのバス停で降り自転車を走らせた兎上は、やはりいつも通りの社の前で、手を合わせて祈った。かくて光りに包まれ消えるカラダが、今日これからのアマハラの始まりを兎上に告げるのだった。

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