異世界娼館へようこそ

 まったく世知辛い世の中だなあと溜息をつき、兎上うなかみひよりは窓越しに空を見上げる。もう薄暮がかっている黄昏が、揺れる電線に合わせてぐにゃぐにゃと視界を過る。二両編成でしかない車内には自分の他に数人の客しかおらず、改めて地方の閑散に辟易とさせられる。


 兎上ひよりは、岡山県の高校に通う十七歳だ。県北の、言うなれば島根にほど近い温泉街の外れに住む彼女は、家から自転車で、バス停からバスで、そして駅から電車で、さらには終着からもう一度バスを乗り継いで高校に通っている。一時間に一本も無い電車の待ち時間も考慮するなら、片道で三時間。実に往復で一日の四分の一を掛けて健気にも日々登校している訳で、それが何故かと言えば、通学先の県立美作みまさか高校が、北部にあっては唯一、かろうじてデザイン科を有している事に起因する。


 そして常世の何が世知辛いと兎上が思い煩っているかと言えば、言うまでもなくそれは福沢諭吉、世に憚るお金の問題についてであった。なにせこの世は、あれをするにもこれをするにも金が要る。んでもっていざ稼ぐとなると、それはそれで膨大な労力を求められる上、捧げた時間に比べれば驚くほどバックは僅かだ。具体的に言うなれば、これから帰宅し着替えて家を出、温泉街の外れのコンビニで三時間アルバイトに骨を砕く。だが仮に砕いたとして、得られるのは三千円にすら届かない端金はしたかね。廃棄弁当を掻っ込み、帰って風呂って宿題を少々、ベッドでゴロリとソシャゲでもすればもうオヤスミナサイだ。これを週五日繰り返したとて、月の手取りは五万になるかならないか。通年身を粉にして働いても尚、進むべく大学の、年間授業料すら稼げないというのには嘆く他ない。


 兎上は、ケアの手間を減らすという為だけの理由で選ばれた、地味なショートカットの黒髪に指をくゆらせ、そのままメガネをくいとさせて視線を下ろす。眼下にはクロッキー帳が開かれたままおいてあり、しかして厭うべきかな、進めるべく課題は一向にして進んでいない。例えばこの手元にあるステッドラーの鉛筆が一本150円。それを各硬度毎に揃えるとなると、一瞬で一日のバイト代が消し飛ぶ。スポーツにしても何にしてもそうだが、専門分野を修めようとすればする程、財布から諭吉は軽々と翼を広げ飛び立ってしまう。だから日々は一層に憂鬱で暗澹としているのだ。




(はあ、こうさくっと稼げるバイトがあればなあ)


 兎上が憂患に駆られるのは、何もお金の問題が全てでは無い、いや、お金さえあれば解決できる以上、突き詰めればお金の問題とも言えなくは無いが、それはそれとして置いておこう。さしあたって今年の夏、兎上は受験勉強の為――、という理由にかこつけて、東京の予備校の夏期講習に参加していた。しかしてそこで目にしたものは、田舎の芋っ子を押しのけるように引いては寄せる人の波。予め言っておくが、岡山第三の都市たる津山どころか、倉敷ですら見たことの無い人だかりだ。無論市街のお祭りだとてこれだけの人が集まる事は無いだろう。それだけの一般人を目にした上に、今度は同年代の美大志望者との、恐るべく技術格差に慄かされる。本当に同じ年ですかアナタ? というレベルのデッサン格差。いやそもそも纏っている私服からしてセンスが違う。兎上はユニクロで買ったシャツを、精一杯の背伸びのつもりで着込んでいた。どうだしまむら・・・・からは卒業したのだと、張るほども無い胸を張ったつもりで参陣した。だが現実はどうだろう。都会の子は誰一人としてユニクロを着ていない。どこのなんだか分からないが、とにかくオシャレな何かをさりげなく身につけている。そのうえ技術力の愕然たる格差まであるのだから、それはもうカルチャーショックどころの話ではないだろう。散々に打ちのめされた格好で、兎上は初日の講習を終えたのだった。


 そして兎上の落胆はそれだけに収まらない。夏期講習を隠れ蓑に、本命として位置づけていた夏コミへの初参加。兼ねてから好いていたソーシャルゲーム「Hate GO」のオフ会も込みでの、Twitterはフォロワーとの邂逅。しかして現れたのは、揃いも揃って美男美女。あたしデブだしなんて言ってた女の子はフェミニンスタイルの森ガールだし、ただの変態だと思ってた男の子は大学生のさわやかメンズだ。おいおい待ってくれ、ボクは単にリアルな山ガールってだけですがと内心で毒づきながら、彼あるいは彼女たちのお世辞に胃を痛くしつつ初コミケも幕を閉じた。打ち上げのカラオケもろくに歌えず、そもそもボクは遊んだ事が無かったっけと暗澹たる青春に思いを馳せ、いやいやなんだって自分だけがこんな灰色の日々を送らねばならんのだと怒りすらこみ上げる始末。確か「キミの名は」だったか、都会のカフェってだけで興奮するアニメ映画のヒロインが頭を過ぎってぐぬぬと唸り、だけれどボクはあんなに可愛くないやともう一度呪詛を吐く。


(はあ……ボクにだってお金があればなあ……)


 そんな余りに落ち込む兎上を哀れんでか、フォロワーの森ガールはナチュラルメイクのやり方をこうだよと教えてくれる。ありがとうと頷いた兎上は、だけれどお店もお金も、ボクの故郷には無いんだよと、一層に虚しさを募らせ虚空を見上げる事しかできない。やっと出来た時間の合間に推しキャラのグッズを揃え、課題に勉強と手を広げれば、どうしたって見た目の事は後回しになる。ファッションじゃなくて、極めて経済的な理由で行き着いたショートカット。コンタクトレンズにする暇もなく、掛けられたままの赤縁メガネ。スキンケアを怠った結果増え続けるソバカスの群れ。マスカラを付ける気にもならない悲しい一重。そういえば胸だってろくにないやと兎上は顔を上げ、次には窓に映った自身から目を背けるように席を立つ。東京じゃ自動で開いた電車のドアを手動で開け、ICカードの代わりに定期を見せて改札を抜ける。温泉街へ向かうその日最終のバスに乗って兎上が帰路に付く頃には、もうとっくに日は沈んでいた。




 兎上の住む集落は、温泉街から少し離れた山奥に位置する。中世にはこの辺の神社を纏めるだけの力があったのだとは言うが、今ではその名残も無く、朽ちかけた社が幾つか点在するだけだ。バス停に停めた自転車に跨り、悲しみを振り切るようにペダルを漕ぐ兎上は、神様なんてものが居るのなら、今すぐ少しは、かつての繁栄を取り戻してみせなさいよと恨み節を零しながら坂道を駆け上る。なにせ近代に至るまで、銅山の湯場として栄えたというのだから。ほんの数百年違うだけでのこの格差は、余りにもあんまりだと我が身を呪う。


 しかして応える声のあろう筈もなく、街灯すら灯らない真っ暗な道を、自転車のライトだけを頼りに兎上は走る。まったく一度東京の喧騒を目にしてしまえば、この光景は寂しいを通り越しての恐怖だろうと内心で告げ、幾つかある社の一つを横切っていく。神主すらおらず、地元の有志によって辛うじて保存されるそれは、夜道には怪談の廃寺にしか映らない。くわばらくわばらと嘘くさい念仏を唱え、兎上がそこを通り過ぎようとした時、果たして俄に、聞き慣れぬ声が脳裏に響いた。


「……んなに稼ぎたければ、自分の身で稼ぐのだな」

「は?」


 何事かと立ち止まる兎上が、キョロキョロと辺りを見回した時、目に写ったのは境内で光る何か。兎上は、もしかしたら金目のものかもなどと邪心も込めつつ近づいていく。この界隈は、確かにおどろおどろしいと評しても差し支えない雰囲気を醸し出してはいるが、治安だけは驚くほどに良い。ゆえに不安は無いまま手を伸ばす兎上だが、その身体に身体は光に包まれて、言葉すら発する間もなく視界が消えた。




*          *




「んん……何があったの……ボク……」

 ううんと唸りながら身を起こす兎上。記憶では社の前で自転車を降りた後、何かの光に包まれて気を失っていた筈だ。だからと見慣れた風景を求め視線を泳がせる兎上だったが、眼前に映るのは、現し世では一度として目にする事のなかった光景だ。


「え……」

 湯気を上げる木造建築。それは油屋とでも呼ぶべきだろう旧き善き日本の旅館。アニメの映画にもあったろう、異世界に迷い込んだ女の子が、豚にされた両親を救うために娼館――、いや失礼、湯宿にて働く話が。さしずめそんな感じの、自分の見知るうら寂れた温泉街とは全く見た目の異なる豪奢な景色に、暫し言葉を失ったまま兎上はぺたんとその場に座り込む。


「ようこそお越し下さいました、お嬢様。本日は面接をご希望ですか?」

 しかして俄に頭上から響く声にびくりと身体を震わす兎上は、恐る恐る顔を上げる。そこにはカカシのような外貌のピョンピョンと跳ねる何かが、ちょうど彼岸と此岸とを繋ぐ橋の上の、鳥居めいた所で語りかけていた。


「へ……面接?」

 意味が分からないといった風に反芻する兎上を他所に、カカシめいた何かはさも当然とばかりに応える。


「左様でございます、お嬢様。ここは国生みたる諸元の地。黄泉と常世とを繋ぐ幽世にありますれば、お嬢様が望むのならば、望むように、アメノハシを渡られますよう」


 飛び降りて恭しく一礼するカカシめいた何かは、恐らくは微笑んでこう告げた。


 ――異世界娼館アマハラへ、ようこそ、と。

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