南の空に桜は咲かず

志槻 黎

第1話


 拝啓 三笠武吉様

 

  時下ますます御清栄のこと、お慶び申し上げます。

  梅の蕾もふくらみかけて参りましたが、いかがお過ごしですか……

 などという畏まった文章を貴様に送るのは面映いから、以降は今まで

 通りとすることをお許し頂きたい。

  マライ沖での貴様の活躍を聞きつけて便りした。訓練生でありなが

 ら戦場で功績を挙げた貴様が親友であること、本当に誇りに思う――



 届いた手紙を繰り返し読んで、三笠みかさ武吉たけよしはにやにやと笑う。尋常小学校からの親友である松本まつもと一甲いっこうからで、開戦してから初めて貰った手紙だった。一甲は唯一無二の存在で、良いことをするときも悪いことをするときも、いつも彼が隣にいた。兄の影響で始めた野球に没頭したのも同じ時期で、四六時中一緒にいたと言っても過言ではない気さえする。戦績を称える内容は申し訳ないことにあまり響かなかったが、大人になってもその関係は変わらないのだという事実が嬉しくて、だらしなく頬が緩む。上官に見つかっては大変だと思って慌てて口許を手で覆い、大して長くない文章を繰り返し読み続けた。


 一甲とは、もう随分と長いあいだ会っていない。四年前に武吉が予科練へ進み、三年前に一甲が陸軍に入隊してからは全く都合がつかず、まるで呪われているかのようにすれ違う日々だ。昨年の十二月に開戦してからは、困難だった対面は絶望的になった。武吉は南方の島々獲得支援のために戦場の空を飛び回り、一甲は東南アジアを攻略するために陸上で戦っている。手紙は実家経由で送られたものだったが、文面から察するに恐らくシンガプーラあたりに駐在しているのだろう。上海を経験した兄から『地上戦は苛酷を極める』と聞いており、武吉は彼が陸軍に決めたときから心配でならなかった。だが、これを見る限りは大丈夫そうで安心している。


「俺も頑張らないとなあ……」


 大切な親友は身を削りながら敵と、誰より尊敬する兄は心身ともに攻められながら身内と、それぞれ命懸けで戦っている。俺も精一杯戦って極東艦隊を護り、勝ち進められるよう尽力せねば。武吉はチューク島の空を見上げて思い、意気込む。極東とは違う空模様を眺めたまま、呼ばれるままに停泊中の空母へと向かい歩いた。開戦して半年が過ぎたが、落ち着きを見せることはない。戦火は苛烈さを増しながら拡大するばかりだった。



        ※



 これから大きな海戦がある。まだまだ先のことだと思っていたのに、あっという間に目前となった。一気に慌ただしく、緊迫した雰囲気になった艦内を客観的に感じながら、武吉は宛てがわれた艦上戦闘機に乗り込んだ。緊張も切迫もせず、平常心だった。どこか淡々とした気持ちでいるのは、あまりに出撃が嵩みすぎて慣れてしまったからか、空戦をただの《手段》として捉えているからか。或いはただ疲れているだけなのかも知れないと漠然と思いながら、整備兵たちの怒号を聞いている。


 武吉はもう、随分と長いあいだ内地に帰っていない。マライ沖海戦後に一度横須賀に寄港したのは昨年の十二月中旬。その後すぐにマライ半島へ蜻蛉返りを命じられ、東南アジア攻略を進める南遣艦隊に編成されたのが十二月下旬。編成替えで航空艦隊に編成され、南方の空を飛び回ったのが二月から三月だ。それなりの休養日はあったもののまとまった日数はなく、ほとんどを艦上か現地の基地で過ごしている。一ヶ月前にあった四月初旬のシンハラ沖海戦後に一度帰れるはずだったが、急遽指令を受けて珊瑚海海戦参入が決まり、今こうして再度南方に留まっている。一甲からの手紙は途中に立ち寄った台湾で受け取ったものだ。そこから最終停泊地のチューク島へ到達するまでの間にも航空戦は続き、もうどれだけ出撃したか覚えていない。出撃数も撃墜数も、すでに数えるのをやめている。


「三笠」


 酷く冷静に計器類の点検をしていると、抑揚のない声が武吉を呼ぶ。感情を限界まで抑制している印象を受けながら顔を上げると、搭乗服を着崩した男が、板に挟んだ点検表を持って立っていた。不機嫌そうな顔をしている。


「……桐生きりゅう?」


 自信なげに名前を呼び返すと、男の眉間の皺は一層深くなった。

 間違ってしまったか? と不安になったが、自分の記憶が正しければ彼は桐生イリヤだ。では他に何か原因があるのだろうか。自信なげなのが気に入らなかったのか、真摯に向き合おうとしない曖昧な態度が気に喰わなかったのか。両方か、と高を括った武吉は、自身の人付き合いのいい加減さを省みた。昔は積極的に会話の輪に入り込んでいたような気がするが、今は訳あって家族や一甲以外と深く付き合うことを放棄している。誰が寄ろうが離れようが、軽く受け流す程度の人付き合いだった。この桐生イリヤに対してもそうだ。彼はチューク島に配置された航空隊に所属する二等兵曹であり、予科練時代の同期でもあった。初対面の頃からなんとなく上手く付き合えそうな予感はしていたのに、自分の中にある何かがブレーキをかけてしまい一歩を踏み出せず、結局大した会話もなく卒業してしまった。お陰で灰色に近い黒髪に金色の目という特徴的な容姿、ルーシとの混血児という特徴的な立場であるのに、顔と名前が一致しない。彼自身のことは、よく覚えているのだけれど。


「……計器類に異常なし。動作は、」

「三笠、貴様は何機堕とせる」


 沈黙が気まずくて迷いながら報告すると、聞き終わることなくイリヤが問う。相変わらず声に抑揚はなかったが、その睨むような目はギラギラしている。大方、この局面をパイロットとしてではなく整備補助として迎えなければならないことが不満なのだろう。しかし今の彼は飛べない。武吉が来る少し前のチューク島防衛で、イリヤは一度撃墜されている。命は助かったが脇腹に縫うほどの傷をつくっており、それが塞がるまで搭乗を禁止されているらしかった。


 戦果を挙げないと許さない。そう言いたげな目をしている。


 そんなものは言われなくても分かっている。けれど胸を張って「分かっている」とは言えなかった。《意識と思想の違い》。それをむざむざと見せつけられた気がして、武吉は少し寂しくなった。

 祖国・極東帝国が勝利するよう、航空戦で死力を尽くす。手段や最終目的は同じなのに、そもそもの根幹が大きく違う。


 多くは国の防衛と繁栄のために。自身は兄を護り、兄が目指す革新を後押しするために。


 けれどそれは可怪しいのだと、人は挙って指差して嗤う。異端だからと暴力で一掃しようとする。精神的に追い込んで消そうとする。兄たちが掲げる理想の――未来を自分で選び、生き死にを自分で決められる社会の何が悪いのか。それが分からない武吉は、自身と周囲の間にある分厚い壁と深い溝に絶望していた。


「何機堕とせるかは分からない。でも、一機は堕として来よう。必ず勝てるよう尽力する。この先の、次に繋がるように」


 武吉はつかえる喉を無理にこじ開けて、どうにかイリヤに答えた。

 こんなの嘘だ。できれば一機も堕としたくない。けれど無事にやり過ごすには、でまかせでも何でも吐いて、本音を飲み下してしまわなければならなかった。虫が皮膚の下を這うような不快さが全身を巡る。武吉は耐えるように強く拳を握り、視線を計器板に戻して軽く目を伏せた。イリヤは何も言わなかった。


 多くを死なせないために多くを殺す。この矛盾は未だに飲み下せていない。飛行機に乗ることは好きだが、それに《殺す》という行為が付随すると堪らなく嫌だった。それでも数多の出撃をこなし、向かう敵を堕とし続けたのは、それが俺の義務でありそれ以外をする必要はないと言い聞かせてきたからだ。人を殺すのではなく、敵を破滅へと追い込んでいるだけ。その結果に誰かが死ぬことになるが、それは仕方ないこと。異国の誰かが死ぬか俺が死ぬか。でも俺はまだ死ねない。兄の戦争が終結するのを見届けるまで、決して……。そう決め込んでからは問題なく出られるようになったが、不意に戦争の構造を思い出しては苦しくなる。無意識に噛み締めていた奥歯が、ぎし、と軋んだ。


「……三笠、そろそろ発艦だ」


 奥歯を解放したのとイリヤの声を聞いたのは、ほぼ同時だった。考え事をしすぎてしまったと慌てて顔を上げると、イリヤは閉めかけたキャノピーを全開にして上体を突っ込み、武吉の肩を強く掴んで耳元で囁いた。


「必ず生きて帰れ。戦死なんぞしやがったら俺が許さん」


 囁き声なのに妙に力強く、エンジン音に負けることなく鮮明に鼓膜を振動させた。もう誰からも聞けないのだろうと思っていた言葉を貰った武吉は、喜び半分戸惑い半分で動揺している。顔を遠ざけたイリヤは、武吉を睨むように見据えていた。相変わらず目つきは悪かったが、光を受けてきらきら煌めく金色は綺麗で、思わず見惚れた。


「わかった、必ず」


 彼が再び眉間に皺を寄せかけるのを察知して急いで返答した武吉は、自然と笑んで武吉と拳を突き合わせた。終始不機嫌そうだったイリヤが不敵に笑んだのを見た途端に、急に清々しい気持ちになるのだから不思議なものだ。憑き物が落ちたようにすっきりとした気持ちになっており、やはり彼とは上手くやれそうだと感じた武吉は、これまでの苦悩や不安を全て断ち切った。


 勝つ。勝って生きて帰る。国や名誉のために死ぬ必要はない。帰りを待ってくれる人がいる。キャノピーを閉め切ってゴーグルを下ろし、操縦桿を握った。プロペラが回る。エンジンに異常なし。フルスロットル。妙に心地よい振動に揺られながら、久々に戦意が高揚するのを感じていた。ブレーキを踏む足に思わず力が籠もる。


 発艦指示員の旗が揚がり、前方に控えていた艦上機が次々飛び立つ。それに続いて武吉も前進し、見送りの帽振れを文字通り見送って、正面いっぱいに広がる青を見た。空も青、海も青。その中に幾つも点在する暗色の異物を撃破するのが俺の仕事だ。火蓋はすでに、切って落とされている。早くも交戦している気配がある空を気にしながら、操縦桿を引いて母艦を発った。もう後戻りはできない。堕ちるか堕とすかするまで、自軍の艦ともお別れだ……。


 生きて帰ったら、今度こそイリヤと話をしよう。目先の目標を胸に、武吉は安全性の欠片もない空の戦場へと飛び込んだ。帰る理由なんて、そんな些細な約束だけで十分だ。




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