「いずみさあん、いいの? ねえ、いいの?」

 いずみさんがインドの青鬼を持ち出してきたときはどうなるものかと思ったが、おじさんは案外お気に召したようで、ワイングラスを大事そうに両手で抱えてはちびちびとっている。

 その間おれはその様子をちらちら眺めたり、だからさあ、うちの上司がクソでさあ、ねえ、いずみさあん、ねえって、といずみさんに再度絡んでそっぽを向かれたり、持ってきてた文庫本を読んでみたり――薄暗くてあんまり読めないがこんなもんはフインキである――していたが、ふと思い切っていずみさんに訊いてみた。

「ねえ、いずみさん、そういややっぱりいいの?」

「なにがですか?」

「いや、だって……」

 思わず声を潜めて、ちらっとおじさんのほうを窺う――さいわいおじさんはグラスの中身を味わうのに夢中だ。

「あの人さっき刃物抜いてたでしょ? いいの?」

 やっぱり警察とか呼ばないといけないんじゃないの? ねえ?

 いずみさんはなぜか遠い目をすると、ふっと儚げに笑った。

「いろいろなお客様がいらっしゃいますので……」

 いやそういう問題かなあ? そういう問題なのかな? そういう問題じゃないんじゃないかな? そういう問題で済ませちゃだめだと思うなあー、おれはあー?

 と、さすがにおれが言い募ろうとしたとき、おじさんがいずみさんになにやら声をかけて、いずみさんは絶妙なタイミングで会話をぶっちぎってそっちへ行ってしまう。おれは伸ばしかけた片手を上げたり下げたりする。

 しかたがないのでおじさんといずみさんのやりとりの様子を窺っていると、おじさんの言っていることはやはりわからないもののおかわりが欲しいらしい。気に入ったようだ、インドの青鬼。

「申し訳ございません」

 いずみさんが頭を下げる。

「そちらはこれが最後でございまして」

 きょとんとした顔をするおじさん。

 いずみさんがインドの青鬼の空き缶を振って、もうないですよー、ということを言葉によらずおじさんに伝えようとする。なにやら胸元で仕草を取り、もう一度頭を下げる。

 ずーん、とヘコんだ顔をするおじさん。

 うーん、こういう表情の機微は外人さんでも同じなんだなあ、とおれは他人事のように考える。他人事なので。

「そうですね、エールはもうございませんが、生ビールならお出しできます。ラガーですが」

 途方に暮れちゃってる感じのおじさんを慰めるようにいずみさんが言う。

「どうぞお飲みになってみてください。お口にあわなければお代は構いませんので」

 おじさんのほうに会釈を残して、いずみさんが動き始める。

 キャビネットからビールグラスを取り出すと、カウンターの端からにょっきり生えた金色の管状の装置に手をかける。

 そこには緑地に赤い星のマークのラベルがついている。ハイネケン。オランダビールの銘酒だ。エールほどのコクはないが、しっかりとした麦の旨みと、ラガーならではのキレの良さがある。

 いずみさんが先端の蛇口にビールグラスを添え、レバーを動かすと、ぶしゅううう、と白い泡が噴き出す。サーバー使い始めの粗い泡をグラスの半分ぐらい溜めると、いずみさんは一旦それをカウンターの陰に置く。そして、冷凍庫から新しいグラスを取り出すと、それを蛇口の下に構え、またレバーを操作する。霜のついたグラスの中で、金の液体と白い泡が入り乱れてキラキラと輝く。

 一気に縁近くまで泡を盛り上げておいて、一旦サーバーを止める。上のほうの粗目の泡をスプーンで掬い取ると、さっき除けておいたグラスのほうに捨てる。残った泡の層の上に、さらに慎重な手つきで細かい泡を充たしていくと、輝く黄金色と濃密な白い泡とが7:3の美しいプロポーションができあがっていた。

 完成した生を手に、いずみさんがおじさんのもとへ向かう。

 カウンターにすっと置くと、言った。

「お待たせしました」

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