第三章「死して生を学ぶ」 第一節

 ケルベロスとは、ギリシャ神話における冥府の番犬だ。死者が冥府にやってきた時には友好的だが、逃げだそうとすると豹変し、捕えて貪り喰らうといわれている。それゆえ、たいてい恐ろしい存在として描かれるのだが、いま、玉座の傍らに鎮座して、胸を張って堂々としているケルベロスは、チワワやトイプードルなどの小型犬ほどの大きさしかなく、ただただ愛らしい。

 そんなケルベロスの傍らにある玉座には、5、6歳ほどの幼子があぐらをかいて座っていた。整った顔立ちをしているが、その目つきはなんとも鋭く、子供とは思えない迫力がある。髪の色は黒で、肩に触れるぐらいの長さがある。瞳の色は血のような赤。肌の色は浅黒で、素肌に純白のヒマティオンをまとっている。

 幼子はいま、見るからに不機嫌で、彼から見て正面の、少し離れた位置に立つ麗子を、その鋭い眼で睨みつけていた。

 その理由だが、顔を見れば一目瞭然。左の下あごが赤く腫れあがり、左の鼻孔に丸めたティッシュを詰めている。

 一方、睨まれている麗子だが、幼子のことなど眼中になく、ケルベロスを見つめていた。

 ケルベロスは後ろ足を上げ、右の首の、耳の後ろをかいていた。だが、よろけてしまい、コロンと引っくり返った。その可愛らしい姿に、麗子は顔を緩めた。

 無視されていると知った幼子は、その凄みを増した。

「ハデス様、いつまであごを腫らしてらっしゃるんです? そんな風になるわけないでしょうに……。それと、鼻血が出るわけないでしょ、当たってないんですから」

 麗子の隣には命がいた。

 ハデスと呼ばれた幼子は、指摘されると見るからに苛立ち、「チィッ!」と舌打ちした。

 左手で、腫れているあごをさっと撫でたところ、一瞬にして腫れが引き、なんでもなくなった。次は、右手の親指で右の鼻孔を塞いで、「ふんっ!」と鼻息を出し、詰めていたティッシュを飛ばした。そのティッシュは、床に落ちる前に消滅した。

 ハデスは、これで文句ないだろうと言いたげに、命を一瞥した。

「それと、そのお姿。いい加減、本来のお姿にお戻りください」

 命はさらに注意する。

「あぁんっ!? 別にいいだろうが、どんな姿をしてようが! これが一番楽なんだよ!」

 ハデスは苛立ち、幼子とは思えない乱暴な言葉を吐いた。だが、その声はなんとも幼いので、ギャップが激しく、違和感だらけだ。

「神様としての威厳にかかわります」

「ハッ! そんなもん、知ったことか! 威厳を気にするような神はなぁ、二流三流なんだよ! どっかの浮気者のようにな!」

 ハデスは天井を指差した。

「ですが――」

「――やかましいっ! 奴隷の分際で馴れ馴れしいぞ! 身の程をわきまえろ!」

 命が反論しようとすると、ハデスが一喝。聞く耳を持たない。

「ちょっと、その言い方はないんじゃないの?」

 二人のやりとりを見ていた麗子が口を開いた。

「あぁんっ!?」

 横から口を挟んできた麗子に対し、ハデスは声を荒げた。

「ちょっ、ちょっと麗子さん!」

 命がすぐに止めに入るも、麗子は、彼を押しのけて前に出る。

「彼は、アンタが恥をかかないようにと思って言ってるんでしょ!」

「なっ、神に対してアンタとはなんだ、アンタとは! この不届き者め!」

「うっさいわっ! あんなくだらないことをするようなバカはアンタで充分よ! だいたいねぇ、威厳を気にする神は二流三流だって言うけど、威厳の欠片も無い神はそれ以前の問題よ!」

「きっ、貴様ぁ、言わせておけば……! この、愚かな人間風情がっ!」

 怒り心頭のハデスは跳びあがり、椅子の上に立った。

「ヘッヘ~ッ! その愚かな人間風情に一発で気を失ったのはどこのどいつよ!」

「調子に乗るなよ、女! あれは戯れに過ぎんわ!」

「あれぇ~? そうは見えなかったけどぉ~? 目を回してたくせに、よく言うわよ!」

「減らず口が! 神の真の力をその身で思い知らせてくれようか!」

 ハデスは玉座から飛び降り、身構える。

「やれるもんならやってみろ! 人間、なめんな!」

 麗子もまた身構えて、ボクシングのようなファイティングポーズを取った。

 両者睨み合い、じりじりと距離を詰める。

「お二人とも! どうか落ち着いて!」

 命が間に割って入り、声を上げた。

「命! どけぇっ!」

「キミ、どいて!」

 しかし、二人は聞く耳を持たず、うるさいとばかりに怒鳴り返した。

 その瞬間、命の眉がピクリと動いた。すっと顔色が変わり、微笑を浮かべた。

「いい加減にしなさいっ!」

 爆発でもしたような怒号が上がった。音の波が一陣の風が巻き起こし、シャンデリアのような青い炎を激しく揺らした。麗子とハデスの二人は思わず縮み上がった。

 不穏な空気を察してオロオロしていたケルベロスもまた驚き、腰を抜かした。

「……」

 その場は、一瞬にして静まり返った。

 そんな中で命は、眉間にしわを寄せてはいるが微笑という独特な顔を浮かべて、麗子を見つめた。

「麗子さん、目の前にいらっしゃるのは、曲がりなりにも神様ですよ。言葉を慎みなさい。ボクのことを思って言ってくれたのはわかっていますから、とにかく気を静めて」

「は、はい……」

 麗子は素直に返事をし、一歩二歩と後ずさり、元いた位置に戻った。

 命は次に、ハデスを見やった。

「ハデス様、お戯れもどうかそのぐらいに。これ以上冗談が過ぎますと、ボクも自省が効かず、ついつい冗談が過ぎてしまいますよ。例えば、ペルセフォネ様にあることないこと告げ口してしまうかもしれません」

「うっ!」

 ハデスはびくりとし、途端に姿勢を正した。

「そっ、そそそっ、そうだな。たまの戯れはいいが、度が過ぎてはいかん」

 ハデスは、明らかに棒読みでぎこちなく答えると、後ずさり、玉座に座った。姿勢を崩したりはせず、ちゃんと座っている。さっきまでとはえらい違いだ。

 命とハデス、二人の間には異様な緊張感が漂っている。

 そのことを察した麗子は、ふと思い出した。

「……ペルセフォネって確か、ハデスの妻の名前じゃなかったっけ?」

 小さな声でぽつりとつぶやいた。

 びくりっ。

 すると、ハデスがまたその身を震わせた。

 それを見逃さなかった麗子は、当たっていると確信し、神とはいえ、ハデスも所詮は男なのかと、鼻で笑った。

 二人が態度をあらためると、命は満足し、元の位置である麗子の隣に移動した。

「さぁ、ハデス様、本来の威厳あるお姿にお戻りください」

 命は笑顔を浮かべて言った。それに対してハデスはなんとも嫌そうな顔をしたが、渋々応じ、「わかった……」とだけつぶやいた。

 すると、その幼い姿が目まぐるしい成長を遂げて、5、6歳の幼子から、30代後半ぐらいの大人に変わった。

 それは、あの扉の彫刻にあった姿だった。

 どこぞの組の若頭風――。

 命のその言葉を思い出した麗子は、的を射た見事な表現だと納得した。

「これで満足か?」

 ハデスは、地の底から響くような低い声で答えると、ようやく姿勢を崩した。脚を組み、肘掛けに肘をついて頬杖を突くと、なんとも鬱陶しそうな顔をした。

「ありがとうございます。――では、ハデス様、こちらにいる、立花 麗子さんを死神としてお認めください」

 命は、あらためて麗子を紹介した。ハデスは一瞥するも、すぐにそっぽを向いた。

「ハデス様?」

 命がたずねると、ハデスは沈黙を返した。知らぬ存ぜぬを貫こうとしているようだ。

 その姿がどうにも大人げなく見えて、麗子はつい、「ほんとに神様なの……?」とつぶやき、疑いの眼差しを向けた。その言葉は隣にいる命に届き、離れた位置にいるハデスの耳にも届いた。

 ハデスは、麗子を睨みつけた。一方の彼女はもうめんどくさくて、目を合わさないようそっぽを向いた。

「ハァ……。そうですか」

 命は溜め息をこぼすと、左耳にかかっている髪を少しかき上げて、その下に隠れていたシルバーのイヤリングを指先で軽く弾いた。鈴のような音色が鳴ったかと思えば、小さな光を放った。腕輪のときのように、光の粒子になって左手に集まると、どこにでもあるような携帯電話に形を変えた。二つ折りのタイプで、色はシルバーだ。

「なっ、なんだそれは!?」

 ハデスは知らないようで、血相を変えている。

「ペルセフォネ様からいただいた直通のお電話です」

 命は、見えるように携帯電話を掲げた。

「なんだとぉっ!?」

 ハデスはひどく驚いて、思わず席を立った。

「ハデス様にもしものことがあった場合にという名目でお借りしてますが、実のところは、度を越えたイタズラをして収拾がつかなくなった場合や、万が一、他の女性に心変わりして手を出すようなことがあった際、すぐさま通報できるように、というのが真の理由でしょうねぇ。……どうされますか?」

 命は微笑を浮かべ、ハデスに携帯電話を見せつける。

「おっ、おのれぇ、神を脅すとは……!」

 ハデスは、椅子の肘掛けの先端を握り締めて、ギリリと奥歯を噛み締めた。

「ハデス様、それは誤解です。脅すなんてとんでもない。一時の怒りに心を惑わされず、神様としての義務を立派に努めてくださいと、お願い申し上げているんですよ」

 命は、ニコニコしながら言った。

「うぐぐっ!」

 ハデスは、倒れるように椅子に座ると、バリバリと胸元をかきむしった。

 はらわたが煮えくり返っているのだろうか。

「これが微笑みの鬼か……」

 二人のやりとりを見ていた麗子は、善の言葉を思い出し、ぽつりとつぶやいた。

「いま、何かおっしゃいました?」

 命がこちらを見たので、麗子はさっと視線を逸らした。

「ほんと、口は災いの元ですよねぇ。――それでは、ハデス様、立花 麗子さんが死神になることを、お認めくださいますか?」

 命は正面に向き直した。

「わっ、わかった……」

 ハデスはついに屈服し、がっくりと項垂れるように頷いた。

「ありがとうございます!」

 命は笑顔を浮かべると、携帯電話を手放した。その途端、光の粒子に戻り、元のイヤリングとなって左耳に収まった。

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