第二章「死と太陽は直視できない」 第三節

 手術室を出た二人は、救命救急センターを抜けて非常階段を目指した。廊下の照明が落とされているので、すでに夜だと思われる。

 地下二階。さらにも増して薄暗く、人の気配がまるで無い廊下を、足音や衣擦れの音を一切立てずに進む。

 地下駐車場の出入り口の前を通り過ぎ、突き当たりにある扉の前でようやく足を止めた。

「こちらが霊安室です」

 命は《関係者以外立ち入り禁止》と書かれた防火扉のような分厚い扉を指差すと、鎌を逆に持って突き、穴を開けた。

「どうぞ」

 鎌を背負い直しつつ、穴に向けて手を差し伸べた。麗子は、勧められるままに扉に歩み寄り、先に穴をくぐる。命もすぐに後に続いた。

 扉の奥にも通路は続いている。人が三人並んでも充分通れるほどの幅と広さがあった。遺体を乗せたベッドやストレッチャーなどが通れるためだろう。

 扉は無く、地下だから窓も無いので、よりいっそう淋しい雰囲気に包まれている。

 前の通路と違って照明がちゃんとついているのに妙に薄暗い。テレビの、サスペンスドラマで見かけるほどの暗いイメージではなく、より清潔で、より明るい。それなのに、より不気味だった。

 人の気配もそうだが、生気が感じられず、別の世界にいるような錯覚を抱いてしまう。だからこそ、麗子は扉の前で立ち尽くしていた。彼女の戸惑いを察したのか、命が先に進んだ。

 通路はまっすぐで、突き当たりは右に曲がっている。彼は曲がり角のところで足を止めて振り返り、麗子が来るのを待った。決して急かしているわけではないのだが、彼女はそう感じたらしく、歩を進めた。

 曲がり角のところまでやってきて、奥を覗いた。すると、そこには三人の人物が居た。

「お母さん、愛莉……お父さん……」

 居たのは、見知った顔だった。誰も彼も生気が抜けたようで、目は虚ろ。

 一番手前にいる小太りな女性が、母の倖子だ。右手に置かれたベンチに浅く座り、手にハンカチを握り締めて、声を殺して泣いている。その隣には愛莉がいて、親友の母親を支えていた。彼女も涙しており、その口元はきゅっと閉じられて真一文字。悔しさを噛み締めているようだった。

 二人とは距離を取り、一番奥の席に座っている痩せた男性が、父の勝だ。その表情は無に近かった。涙を流すこともなく、ただ前だけを見つめている。

 三人を前にした麗子は、いまにも泣きそうな顔をし、おぼつかない足取りで歩み寄る。

「お母さん……ねぇ、聞こえる?」

 母に近づき、呼びかけた。

「……」

 しかし、何も答えてはくれず、振り向いてもくれなかった。

「ねぇ! 聞こえないの!? 愛莉! お父さん!」

 誰も、気づかない。

「ねぇったらぁっ!」

 声が届かないことに業を煮やし、麗子は、母の肩を掴もうとした。――が、触れた途端、感電でもしたかのように光が弾けて、その手が跳ね返されてしまった。

 触れることも許されない。その現実を突きつけられた麗子は膝から崩れ落ちた。

「どうして……? どうして、誰も気づいてくれないの? 私、ここにいるのに……」

 麗子は、すがるような眼差しで三人を見つめた。

 すると、一人が席を立った。

「お父さん……?」

 それは、父の勝だった。彼はこちらを振り返り、ゆっくりと近づいてきた。

 麗子は、もしかしたらと思って手を伸ばすも、すぐに気づいてしまった。

 父は、自分を見ていなかった。

 勝は、妻の元に歩み寄り、その頭を優しく撫でた。そしてすぐにその場を離れ、麗子の横を通り過ぎ、命が佇んでいる角へ向かった。この場から立ち去ろうとしているようだ。その後ろ姿を目で追った麗子は、父が、左手をズボンの後ろのポケットに入れているのに気づいた。

 麗子は察した。父はタバコを吸いに外へ向かったのだ。

 その後ろ姿は、幼い頃から何度も見てきた光景だった。

 記憶の中の若かりし頃の父と、いまの背筋を丸めた弱々しい父とが重なった。

 勝は角を曲がり、その姿を消した。そのとき、麗子はもう一度気づいた。

 角を曲がったときの父の顔は歪んでいた。唇を噛み締めて泣いていたのだ。

 麗子はあらためて察した。父は、タバコを吸いに行くと見せかけて一人きりになり、泣くつもりなのだと。

 そういえば、父が泣いている姿を見たのはこれが初めてだった。

 父の足音が途絶えてまもなく、母のすすり泣く声が聞こえてきた。

 麗子は、本来は痛いぐらい唇を噛み締めながら、のっそりと起き上がった。ふらつきながらも歩き出して、二人の前を通り過ぎ、通路の奥にある《霊安室》と表記された扉の前に移動した。開けるために手を伸ばすも、思い出して止めた。

「開けましょう」

 頼むために振り返ろうとすると、命の声がした。彼は鎌を逆さに持ち、すぐ後ろにいた。麗子と場所を入れ替わり、すぐに穴を開けた。

 穴の向こうには、通路と同じ程度の明かりに照らされた白い部屋があった。奥にはシングルベッドよりもやや狭い台が一つあり、白いシーツがかかっている。

 命、麗子の順に穴をくぐり抜けた。

 霊安室は、清潔感に満ちた八畳ほどの空間だった。中央にシーツのかかった台があり、その奥には白い祭壇があって、火の点いた蝋燭が左右に一本ずつ置かれ、間には細い煙を立ち昇らす線香が置かれている。

 シーツのかかった台だが、人の形に膨らんでいた。顔にも白い布がかけられているので、長い髪や胸のふくらみで、辛うじて女性だとわかる。

「……これが、私なの?」

 麗子は恐る恐る台に近づき、人型のふくらみを指差す。

「はい。それが、立花 麗子さんのご遺体です」

 その言葉を背中で受け止めた麗子は、手を伸ばし、顔にかかっている布を取ろうとした。本当に自分なのかを確かめようとしたのだが、取り除くことはできなかった。扉と同じだとわかり、彼女は苛立たしそうに後ろを振り返る。

「申し訳ありませんが、ボクでもその布を動かすことはできません。ですが、多分、しばらく待っていれば確認できると思います。葬儀社の方がやってきて、ご遺体を運び出すはずなので」

 麗子は納得すると、近くの壁を背にしてしゃがみ、その時が来るのを待つことにした。命も隣に移動し、ちょこんと座る。

「……近い。ってか、鎌が怖い!」

「あっ、すみません」

 命は、刃が届かないところまで移動した。

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