第一章「死と風はふいに訪れる」 第十節

 すべては、一枚のチラシが引き起こした。


 麗子も見かけた、チラシ配りの若い女性。

 彼女が配るチラシを受け取った通行人の中に、モラルに欠けた者がいた。記されている内容を確認して興味が無いとわかるや、その場で捨ててしまった。

 地面に落ちたチラシは、風に吹かれて舞い上がった。そこへ一台のバスがやってきて、煽られ、さらに高く上がった。

 風が弱まると、チラシはまるでグライダーのように滑空し、交差点を越えた。そして、たまたまやってきたバイクの運転手のヘルメットの前面に張りついて、その視界を奪ってしまった。

 そのバイクは、麗子が通ってきた歩道に並行して走っていた。何も見えなくなったのは、彼女の自宅がある方向を目指し、交差点を通過しようとしていたまさにそのときだ。

 運転手は当然驚き、咄嗟に視界を遮る何かを避けようとした。反射的に身体が動いてしまったのだ。その結果、ハンドル操作を誤り、横転した。

 麗子が驚いたのは、そのときに上がった音だった。そして、彼女が振り向いたときに存在した大型トラックは、そのバイクのすぐ後ろを走っていたものだ。

 前を走っていたバイクが突如として横転したものだから、大型トラックの運転手は慌ててハンドルを右に切り、隣の追い越し車線へ移ろうとした。とにかく、バイクやその運転手を避けようとしたのだ。が、追い越し車線にはすでに車がいた。タクシーだ。右折をするため、交差点の入り口に停車していた。大型トラックはそのタクシーを突き飛ばした。

 大型トラックの運転手は焦り、今度は左にハンドルを切って、バイクとタクシーの間をすり抜けようとしたが、それは無茶だった。

 右に切った直後、左に切り返したことで、大型トラックは大きく振られ、荷台に積んでいたコンテナの重さに振り回されて、横倒しになってしまった。

 コンテナが道路を穿ち、アスファルトを削り、火花を散らしながら前進。交差点を渡った先の、左側の歩道のガードレールそばに倒れた麗子に迫った。――しかし、直前、左に曲がろうとしていたのでガードレールには直撃せず、すぐ横にあった信号機の支柱に激突し、それを軸にして反時計回りに回転した。

 ガードレールや麗子の前を横切り、横断歩道の上でようやく停止した。チラシ配りの女性がいる、向かいの歩道に続く横断歩道の、計四車線の道路の左車線の側をだ。

 つまり、片側二車線の道路を完全に封鎖してしまった。


 その場が騒然となったのは言うまでもない。

 麗子が言葉を失い、危うく意識まで失いかけたのもまた、言うまでもないだろう。

「あ………………うっ、運が悪いにも、ほどって、あるでしょう……?」

 音がするほどに固唾を飲み、その言葉を喉の奥から絞りだした。

 絶対的とも言える恐怖が、麗子の身体を震え上がらせている。

 老若男女を問わず悲鳴が上がった。

 通行人や、車中、周囲の店などから男たちが飛びだし、集まり、そのうちの数人が、道路に倒れたままのバイクや大型トラックの中に閉じ込められたままの両運転手を救助する。

 その他の者たちは携帯電話で通報したり、備え付きのカメラで撮影したりしている。

 そんな中、麗子の元にも歩み寄る者がいた。

「あの、大丈夫ですか……?」

 それは、先ほどの中学生ぐらいの少女だった。

「あっ、う、うん! 大丈夫! 多分、大丈夫!」

 麗子は自分の身体を確認した。

「あの、これ」

 少女は、ガードレールのそばに落ちているスニーカーを拾ってくれて、手まで貸してくれた。

「あ……ありがとう」

 麗子は右手を伸ばし、少女の右手を取ろうとした。――と、そのときだった。

 コンテナの一撃を受けた信号機の支柱がグニャリと曲がり、二人に向かって倒れてきた。

 二人がそのことに気づいたのは、ほぼ同時だった。が、先に動いたのは麗子だった。

 手を借りるために伸ばそうとしていた右手で、少女を突き飛ばしたのだ。咄嗟に身体が動いた。

 麗子は、その勢いのままに左手で地面を突き放そうとした。

 その場から逃げることはできなくても、せめて直撃だけは免れようとしたのだ。――が、それは無理だった。その時間が無かったわけじゃない。突き放そうとした瞬間、左手首に鋭い痛みが走ったのだ。それで力が入らず、突っ伏してしまった。

 迫る支柱の影が、昼を告げようとしていた太陽の光と、麗子の視界を遮った。

 もはや直撃は免れないと悟り、再び、“死”を覚悟した。

 そして、心の底から願った。


 生きたい!

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