第一章「死と風はふいに訪れる」 第三節

 自分のデスクで昼休みを終えた麗子は、恋人のことを考えないためにも、愛莉にボトルを入れさせるためにも、定時である午後5時30分に帰れるように、まだ手をつけられないでいる自分の仕事に取りかかった。

「立花さん」

 ――が、その矢先、誰かに名前を呼ばれた。

「……はい?」

 出鼻を挫かれ、やる気を削がれた麗子は、邪魔をするなという思いを込めて語気を強めそうになったが、なんとか堪えた。その声が誰のものかを察してすぐに振り返り、窓際に置かれたデスクにいる、痩せた男を見やった。

 40代後半の頼りなさそうな男で、頭に白髪が目立つ。レンズの大きなメガネをかけており、服装はスーツだ。

「課長、なんでしょう?」

 麗子はすぐに席を立ち、その男、課長の元へ向かった。まもなく、課長も席を立った。

 麗子よりも華奢で、背も低い。猫背だから余計にそう見える。

「ちょっと話があるんだけど、いいかな? 大事な話なんだ」

 くたびれた顔をした課長は、申し訳なさそうに言った。

「はい、構いませんが」

 素直に応じた麗子だが、内心では(仕事をさせてくれ)と願っていた。

「それじゃあ、あっち行こうか」

 課長は右手を指差した。そちらには応接間がある。

 どうしてわざわざ応接間で話すのか。大事な話とは一体なんだろう?

 麗子は怪訝に思いつつ、課長の後についていった。

 周りの同僚たちも訝しんでおり、二人のことをチラチラうかがっていた。

 先に応接間に入った課長が扉を開けて待ってくれているので、麗子は少し足を速めた。彼女が入るとすぐに扉を閉め切り、手前にあるソファを勧めて奥側へ移動した。

 一礼して席に着いた麗子は、すべてのブラインドが下ろされていることに気づいた。

 外が見えないようになっているので、この場はまさに密室。その上、二つのソファに挟まる形であるテーブルに、書類等を入れる大きな茶封筒が置かれてあり、あらかじめ用意されていたと思われる。

 麗子は、動揺が顔に表れないよう注意しながら、内心で勘ぐる。

(なんか緊張する……。なんだか、お叱りを受けそうな雰囲気だ。遅刻したことかな? でも、もう充分叱られたしなぁ。他に何かしたっけ? 仕事でミスは無いはず……。人間関係でトラブル起こした覚えも……うん、無いよね。勤務態度は真面目なはずだし、挨拶だってちゃんとしてるし、セクハラとかは、嬉しいような悲しいような、縁が無い。……あれ? じゃあ、なんだろう?)

 あれこれ詮索していると、向かい合わせになるように座った課長が、例の茶封筒に手を伸ばした。ひもを解いて封を開け、中のものを取り出そうとする。

(あっ、もしかしてお見合いか? 前にもあったなぁ)

 何が出てくるのか気になり、つい凝視した。すると、課長は手を止め、彼女をチラリとうかがうと、眉尻を下げて八の字にした。それで微笑んだかと思えば、茶封筒を隣の席に移してしまった。

(しまった……)

 麗子は、とりあえず誤魔化そうと微笑み返した。すると、課長は逆に微笑むのをやめて、真剣な顔をした。

「立花さん、あのね、そのぉ……」

 課長は喋り出すも、すぐに口ごもる。少し前かがみになって猫背を強調し、両肘を両膝の上に乗せて、まるで祈りでも上げるように五指を組み合わせた。そして、その両手を口元に押し当てた。

「僕はね、立花さんのことは好きなんだよね……あっ、人だよ、人! 人として好きだってことね! だから、こんなときはちゃんと言わなきゃいけないと思うんだ。誤魔化したりすべきじゃなくて、包み隠さずにね」

「……?」

 課長が何を言わんとしているのかわからず、麗子は眉間にしわを刻んだ。

「あの、ほら、うちの会社、このところ業績が悪いでしょう。節約とか節電とか、かなりうるさくしてたから知ってるとは思うんだけど、かなりキツイみたいでね。……それでね、その、ついにやらざるを得なくなっちゃったんだよね。……人員削減、というのを」

「あ……リストラ、ですか?」

 課長は小さく頷いた。

「それでね、“早期優遇退職”というのを、いま募っているところなんだ」

(退職勧奨でしょ、それぐらい知ってるって。あー、くそっ、話ってそっちかぁ……)

 課長の悪い癖である遠回しな言い方に苛立った麗子は、同時に嫌な予感を覚えた。

(よりにもよって、嫌な仕事が舞い込んできたなぁ……)

 麗子は、この場から逃げ出したくてたまらなかった。

「それでね、立花さんだったら、どうかな? 会社のために辞めて欲しいと頼まれたら、辞められるかな?」

 課長は上目遣いになり、麗子の目をじっと見つめた。彼の瞳孔は小刻みに揺れている。

(えっ、嘘でしょ、まさか、そっち……? うわっ、最悪なほうか!)

 考えが甘かった。てっきり、退職勧奨の仕事を手伝ってくれ、と言われるのかと思っていたのだが、蓋を開けてみれば、自分こそがその対象だった。一応、その可能性も考えてはいたが、まさかだった。

「………………課長、はっきりとおっしゃっていただけませんか?」

 麗子もまた少し前かがみになり、より敬語を用いる。

「あ……う、うん、ちょっと遠回しだったね、ゴメン……あっ、いえ、申し訳ありません。――立花さん 退職勧奨に応じてはいただけませんでしょうか?」

 課長は、咳払いをして喉の調子を整えた後、言った。そして、深々と頭を下げた。麗子の要望に従い、自分の意思をはっきりと伝えたのだ。それが非常に酷なことだとわかっていても。

 自ら求めたとはいえ、面と向かって会社を辞めてくれと頼まれた麗子は、動揺を禁じ得なかった。

(どうして? どうして、私なの……?)

 麗子は、自分が選ばれた原因を探った。

 課長との関係は悪いものではない。どちらかと言えば、良いほうだ。とはいえ、部下と上司というだけで、友人と呼べるような間柄ではなく、それ以上は皆無。忘年会などで酒を飲み交わすことはあっても、目上の存在である彼の前で限度を超えた羽目の外し方はしていないし、不用意な発言も、憶えているかぎりは一度も無かった。礼節は重んじていたし、一人の人間として嫌われているとは思えず、仕事においても、使い勝手のいい一人だったはず。使われていて、それは感じていた。

 考えてはみたものの、どうしても解せない。

「……あのう、課長、おたずねしてもよろしいでしょうか?」

 麗子は直接聞いてみることにした。

「その、どうして私なんですか?」

「それは……」

 課長は押し黙った。麗子も合わせて口を閉ざし、彼をまっすぐに見つめる。

 言いにくいことだとは思う。だが、こちらには聞く権利があり、どのような理由であれ、ちゃんと説明されなければ納得できない。説明されても納得できるかどうかわからないが、ともかく理由が知りたかった。だからこその無言の圧力だ。

 それに耐えられなかったのか、課長は俯いた。

「リストラを……するときに、選ばれやすい方というのがいます」

 課長は、テーブルを見つめながら語りだした。

「サバサバとした性格で、会社にも、辞めることにも執着心が薄い方。退職を求められたときに異議申し立てができない、私みたいな小心者の方。頼まれるとつい引き受けてしまう、人の良い方……などなど。その方の仕事ぶりや、給料の高い安いは関係なく、そういった方々がまず選ばれます。ただし、会社にとって価値のある方や、派遣などの方々は除外されます。派遣はそれ以前の問題ですからね。いま述べたのは、主に正社員です……」

 麗子は、なるほどと思った。

 課長が例に挙げた人物には、共通点がある。それは、後々面倒なことになる可能性が低いということだ。自分が必要とされていないと知るとすぐに見限る者や、泣き寝入りする者、使命感で応じてしまう者などが選ばれやすいということなのだろう。

 自分はどのタイプかと考えると、サバサバに該当するんじゃないかと思えた。何故なら、すでにこの会社や、課長に対する執着心が薄れているからだ。

(会社にとって価値のある人材は除外って……おまえには価値が無いって言われた気分。課長の性格を考えると、悪気は無いし、気づいてもいないんだろうなぁ……)

 課長のその一言が、会社などに対する想いや執着心を大いに削った。

「立花さんの場合はそれだけじゃなくてね、器用だからどんな仕事でもそつなくこなせるでしょう? それに、まだ28と若い。うちを辞めても次の仕事を見つけられる可能性は高いわけで、僕――というか、人事部が立花さんを選んだのは、そっちの理由が大きい」

「なるほど」

 麗子は納得した。……が、その内心では、(それってようするに、仕事ができるのに、仕事ができない奴に劣ってるってこと? フッ、わけがわからんわ)と毒づいていた。

「以上が、立花さんを選んだ理由です。……納得なんか、できないよね」

 課長は溜め息をつくと、さらにも増して背中を丸め、猫背をひどくした。

 白髪交じりの頭をくしゃりと撫でる。

(白髪がまた増えてる。ストレスかねぇ……)

 元々小さい課長がより小さく見えた。その姿に哀れんでしまう。

(人の良さが取り柄みたいなものなのに、こんな仕事一番不向きじゃん。どうせ押しつけられたんだろうけど。断れないもんなぁ。立場的に考えて、一番危ういのこの人だし)

 課長には後ろ盾が無い。管理職だから社の労働組合に加入できず、年齢的にも、先ほどの選ばれやすいタイプの一つに該当していることから考えても、彼こそがもっともリストラの対象になりうるのだ。それゆえ、退職勧奨を率先して行われなければ、自分の首が飛んでしまう。

 会社から追い出されたくなければ、生け贄を差し出せ。

 つまりはそう脅迫されているようなもので、それをわかっているからこそ、麗子はつい同情心を抱いてしまった。

 しかし、別の見方があるのにも気づいた。

(待てよ……退職を求められた側に同情させるんだから、この人って、ある意味適任なんじゃないか? 怒りや反感を抱かせず、かわいそうだと思わせる。これって狙ってできることじゃないよ。この仕事はトラブルをなによりも嫌うはず。下手に拗れて労働組合に訴えたり、退職強要だってイチャモンをつけられて本当に訴えられたりしたら面倒なことになるわけだし。そう考えると、課長は逸材か……。――って、なにをバカなこと考えてるんだろう。そんなこと、どうでもいいわ)

 麗子は自分に呆れて、つい鼻で笑ってしまった。すぐに、しまったと思い、課長をうかがうも、彼はネクタイでメガネを拭いていて気づいてない。

(あーもう、ちゃんとしたメガネ拭きを使いなさいよ、レンズが痛むじゃん。しかもなに、あの目の下のクマ。ひどいなぁ、寝てないのかねぇ……。うーん、なんだかなぁ。いまにも自分が辞めるって言い出しそうな顔をしてる。下手したら、鬱で自殺しそう)

 麗子は同情心を強めた。

(どうしようかなぁ。同情で辞めるつもりなんてさらさら無いけど、こういうのって確か、断わると後が面倒なんだよねぇ。目をつけられる。だったらいっそ、いまのうちに辞めちゃって、退職金を多めにもらったほうが得かもなぁ。……あれ? 本当に多めにもらえるのかな? 普通はもらえるよね……?)

「あの、質問してもよろしいですか?」

「え? あ、はい、どうぞ!」

 課長は、すぐにメガネをかけ直した。

「いま退職に応じた場合、退職金を割り増しでいただけたりするんですか?」

「はい、もちろんです」

 麗子が質問したところ、課長はパッと笑顔を浮かべ、大きく頷いた。

「あー、そうですか……」

(笑顔で答えちゃってるし……)

 退職金のことを聞いてくるからには、退職について考え始めているのかもしれない。

 その笑顔から、課長が内心そんなことを考えて、淡い期待を抱いているに違いないと勘ぐり、麗子は呆れた。そして、失望した。

 会社や課長のことを見限るには、それでもう充分だった。

(もういい。もう、めんどくさい。この会社にとって、この人にとって、私はいらない存在だったってことだ)

 麗子は決意を固めた。開き直ったとも言える。

「ハァー………………わかりました。退職に応じます」

 麗子は、あてつけのように大きな溜め息をつき、素っ気なく言った。

「え……ほっ、本当かい!? あっ、いや、ごめんなさい……」

 課長は笑顔を強めるも、喜んでしまった自分に気づいてすぐに顔をしかめた。

 麗子は、またあてつけのように鼻で笑った。

「いいえ、構いませんよ。また、ひどい役回りを押しつけられましたね。――書類とか、記入しなければいけないものって、あるんですかね?」

 字を書く仕草をした。

「あっ、うん。あっ、いえ、ございます! ――こちらで用意した退職願いにお名前をご記入いただけますでしょうか。――こちらでございます」

 課長は、例の茶封筒から数枚の書類を取り出し、背広の胸ポケットから取り出したボールペンと一緒にテーブルに置いて、麗子の手元まで滑らせた。そして、名前を書いてほしい空欄を指差し、丸で囲った。

「拝見してもよろしいでしょうか?」

 麗子は、ボールペンを横に除けて、書類を手にした。

「もちろんです」

 課長はメリハリのある声で返事をし、大きく頷いたが、麗子は見向きもせず、書類を見ることに集中している。確認は一応で、ダメと言われるはずがないとわかっていたし、そもそも言えるはずがないと思っていたので、相手にしていない。

 じっくり、時間をかけてすべてに目を通す。

「………………へぇ、これが退職願いなんですね。初めて見ましたよ」

 苦笑いを浮かべた麗子だが、その目は笑ってない。それを察した課長も、苦笑い。

「まぁ、当たり前ですけどね」

 麗子は書類をテーブルに戻すと、自分のボールペンを取り出し、前かがみになった。ペン先を出して紙面に近づける。先端を押しつけようとするが、そのペンを持つ右手が急に震えて書けなくなった。

(身体が拒んでるって、ことかな)

 動揺していることを自覚した。無理もない。

 心を落ち着かせようと、三回、ゆっくりと深呼吸する。そうすれば落ち着けると、以前、何かで知ったのだ。確か映画で、それも洋画。スナイパーが標的に狙いを定め、引き金を引こうとする直前、三回、ゆっくり深呼吸し、身体の震えを抑える――というシーンだ。

 すると、不思議と手の震えがマシになったので、勢いで書いてしまった。

 自分の名前ほど書き慣れたものは無いのに、《立花 麗子》の四文字を書き終えただけで、ひどく疲れてしまった。

 ボールペンをしまうとき、麗子はふと思った。

 いまの気分はまるで、自らの死刑執行の書類に自らサインしたみたいだ、と。

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