第3話 二人は廃クラさん

「奥原君! 起きて!」

「ふにゃっ!」


 不意の呼びかけにドキッとして周りを見渡す。

 女の人の声って、それほど大きくも高くもない声でも何でこう心臓をえぐってくるんだ。

 俺はスカイであって、え~と奥原は、……俺だ。

 整然と机が並べられた教室。一学期中は毎日通っていたから見間違うことはない。

 ここは俺の通っている埼ヶ谷さきがや高校一年五組の教室だ。

 蝉の声が大きく聞こえる。

 この教室のすぐ脇に大きな木が立っているからか。

 目の前には俺と正対して座る一人の女性。

 眼鏡の奥には少し怒気を含んだ瞳が見える。


「寝ぼけているの? なにか夢でも見ていたの? こんな時に」


 正面の女性は腕を組み片肘を机につけて少し斜めからのぞき込む。


「いえ、寝てないですし、夢を見るなんてあり得ないです」


 いや、寝てた。けれど嘘をついた。

 夢は見ていない。たぶん。


「はぁ…そうですか。とりあえず、そのよだれを拭きなさい」


 諦めたようにため息をつき、組んだ腕の片手首を返し小さく俺の口元を指さす。

 俺は慌てて手の甲でよだれをぬぐい、その手の甲をシャツでぬぐった。

 机と椅子が縦横に整然と並べられている教室の中。

 居るのは正面にいる女性と俺の二人きり。

 その女性は俺の所属する一年五組の担任、数学を担当している百川ももかわ千代ちよ先生。

 体に似合わぬ大層なスーツを小綺麗いっぱしに着ているが、童顔で背も低いからぱっと見なら俺たち高校生なんかよりも若くは見えるけど実際の年齢としは、……いくつなんだろう?

 この状況でわかるだろうが、補習はたった一人、俺だけだ。

 昨晩は最後までPBCを見ていて、その後しばらくPBCの話などでジルと盛り上がり、床に就いたのはかなり夜も更けきった頃だった。


「全然進んでないじゃない」


 机の教材プリントをのぞき込んで指を差す。


「はあ……、私がどういう思いでこの教材プリントを作ったのかあなたにはわかる? たった一人、あなたたった一人のためにこれをわざわざ作ったのよ?」

「うう、ごめんなさい」


 俺はその言葉に「しゅん」と小さくなる。


「ねえ、知ってる? 教師も夏休みはおおやけな仕事はないけれど、部活とかの顧問こもんは学校に来ないといけないし、私みたいにあなたの補習を見るために学校に来なければいけない先生もいる。でも学校に来ても来なくてもお給料はかわらないのよ? もちろん何らかの査定には影響が出るかもしれない。だとしてもあなたたった一人の補習をするために貴重な一日をつぶすなんて、全く割に合わないわ」

「先生?」


 いきなり蕩々とうとうと語り始める百川先生に驚いてまじまじと見つめると、やや下を向いている目はどこに焦点を向けているのかも不明で、わりきっている。


「ああ、暑いわね。この教室本当に暑いわ。今時教室に冷房がないなんて、公立高校だからしょうがないとか言い訳にならないわよね? ああ、私立高校に就職すれば良かった。そうよ、私立高校ならあなたたった一人のための補習なんてきっとあり得ないわ」

「先生、集中出来ないからやめて…」


 百川先生の愚痴に耐え切れず制止させようとしたが、百川先生は前を向き、俺の目を正面から見返して続ける。


「集中? あなたがちゃんと集中してやっていればこれだけ白紙なはずはないわよね? そもそもあなたは普段から私の授業に集中していたのかしら? 集中していたら今日ここで補習を受けるなんてないはずよね?」


 と、机の上の教材プリントを何度も指さす。

 普段はドジっアピールで可愛らしい印象イメージのあった百川先生だが、実際はこんな性格キャラだったとは……。

 彼氏がいるとかそういう話を聞いたことはなかったけど、なるほど、これが本性なら納得だ。


「あなたの相手していたら余計暑くなってきたわ。こんな暑い日は海で泳ぎたいわね。埼谷さきがやから一番近いのは千葉? 茨城? どちらかの海かしら。車で2時間? 3時間はかからないわよね? でもあのあたりの海はドス黒いのよね。もっと青くて透明で綺麗な海で泳ぎたいわ。沖縄、いいえバリ島あたりなら最高ね。あ、勘違いしないでね。別にあなたを誘っているわけじゃないから」


 どうでもいい。激しくどうでもいいから、いつ息継ぎをしているかも不明なわからない、その延々といつまでも続く愚痴ひとりごとを本当にやめて……。


「何で私はここにいるのかしら? 本当なら私はこんな蝉の鳴き声がひっきりなしに聞こえる教室内じゃなくて、青い空と白い砂浜、果てしなくどこまでも広がる澄み切った紺碧のあおい海のあるどこか知らない静かな海辺ビーチにいるはずなのに」


 ついに幻視トリップし始めた。やばい、やばすぎるぞ。だれかこの狂師せんせいを止めてくれ……。


「ヴーーーン…… ヴーーーン……」


 教卓においてある携帯スマホうなる。

 先生は、はっと我に返り席を立ち教卓の携帯スマホを取り上げチェックする。

 一瞬口元が緩むが、ため息をつき、教卓の椅子においてあるバッグを取り上げる。


「ごめんね、奥原君。ちょっと用事を頼まれたからしばらく一人でお願いね」


 そう言い残し、足早に教室から出て行った。

 助かった……のか?

 しかし一人でお願いとか言われたけど、はじめから特に百川先生から指導は受けていない。

 愚痴は延々聞かされたけど……。

 しょうがない、やるか。

 さっきのでだいぶ目も覚めた。

 ……と思ったところで風が教室内を吹き抜ける。

 教卓の上に置いてあった紙がひらりと舞い上がり、ゆっくりと床に落ちた。

 今までも風はそこそこ吹いてはいたが、飛ばされなかったのはそこに携帯スマホがあったからか。

 俺は立ち上がり、その紙を拾い上げる。

 なんだ?


 『来たれ! 執行者』?


 そこにはアニメだか漫画マンガだかのキャラが指を突きつけているイラストが描かれていた。

 何か元ネタがあるのか、俺はあまりこういったものに詳しくないからわからない。

 そのイラストの下にはさらにこんな一文が添えられていた。


『第59代 埼ヶ谷高等学校生徒会執行役員選挙 立候補締め切り9月1X日』


 生徒会選挙……なんだ、俺には全く関係のないことじゃないか。

 しかし、なんだ?

 自衛隊の募集にこういったアニメ調のポスターは見たことあるけど、あれは自衛隊をこころざす若者が少ないからあんな絵で釣ってたりするんだよな?

 この学校もこんなイラストで釣らないと生徒会に立候補する生徒がいないんだろうか?

 大丈夫か?

 埼ヶ谷さきがや高校。

 俺は自分の席に戻ってそれを前の席に置く。

 一応飛ばされないように俺の筆入れをその上に置いた。

 さて、今度こそ、この課題を終わらせないと。


 ガラガラガラ!


 突然教室の前側の戸が開く。

 ん? 先生戻ってきた?

 ……いや、違うようだ。

 茶髪に赤いメッシュを入れていて、顔には薄いながらも化粧メイクをしている。

 ブラウスはきわどいところまでボタンを開けていて、赤黒チェック模様のスカートもかなりきわどい。

 見るからにいかにもギャルっていうギャル。

 いや、ややヤンキーに近いか?


「あれ? 奥原じゃん。 何やってんの?」

「補習だよ。見てわからない?」

「ふ~ん……」


 うん、俺はこの女生徒ギャルをよく知っている。

 一年五組出席番号14番、長田おさだ佳奈子かなこ

 出席番号が一つ手前の13番、奥原おくはら蒼空そら、つまり俺だ――とは集会の時などは前後に並ぶことになり、無駄話おしゃべりをしてはよく怒られたりしている。


「長田さんは何しに来たの?」

「あたしは今日、講習あったから、それで。ここ寄ったのは夏休み前忘れ物してたの気づいたから」


 講習? ああ、補習じゃない勉強会を夏休みこの学校でやってるんだった。

 長田さんは、失礼ながらこの見た目からは想像が付かないが成績は常に上位トップクラスを維持している。

 人懐ひとなつっこく誰とでも分け隔てなく接し面倒見も良い。

 俺みたいな駄目ダメ人間にも普通に話しかけたりしてくれる。

 女性に使う言葉ではないかもしれないが、とても『男前オットコまえ』だ。

 しかし、それでいて内面はかなりの乙女おとめだということも俺は知っている。

 あらためて言うがこの見た目にもかかわらず……。

 まさに『人を見た目で判断してはいけない』を体現している女子高生JKだ。

 前列窓際の自分の机まで歩いて行く長田さん。

 鞄に無数取り付けられた銀色の小物シルバーアクセサリがジャラジャラと音を立てる。

 重くないのかな? アレ。

 腰を曲げ、屈んで机の中を確認する。

 おい! ちょっとその体勢かっこう

 パンツ見えちゃうから。


「ああ、あった」


 ノートを取り出し、それを持ったままジャラジャラと俺の前の席まで来て座り、こちらを向く。

 シャンプーの香りなのか、いい匂いがして少しドキッとする。


「え? なに?」

「なに? って、それ見てあげようかな、って」

「え? いいよ」


 正面から見つめられさらに心臓が高鳴り、思わず目をそらす。

 長田さんとはよく話をしたりはしてるけど、こんなにも真正面から見つめられたのは初めてかもしれない。


「いいよ って、いつからやってるか知らないけど、全然埋まってないじゃん、それ」

「え~と、それは……」


 俺が寝ていたり、百川先生の妨害を受けていたからです。とは言えない。


「それに、先生いないでそれ、一人でやってんの?」

「百川先生がさっきまで付いてくれてたけど、用事で呼び出されて行っちゃったんだよ」

「あ~、そういえばさっき、ももちー急いでたとこすれ違ったわ」


 長田さんは百川先生のことを「ももちー」と呼んでいる。先生に対する敬意はないのだろうか?

 まあ、誰にも分け隔てなく接する長田さんにとっては先生もきっと俺たちと同じ一人の人間として特に意識しているわけでもないのかもしれない。

 長田さんは持ってたノートを前の席の机に置き、俺の机の上の教材プリントを確認する。


「え~と、まあ基礎の基礎だよね。難しいとこ一つもないじゃん」

「え? まじで?」


 俺のその一言に長田さんはしまったという表情をする。


「ああ~、だよね。ごめん、だから補習やってんだよね」


 謝らないで!

 謝られると、俺、泣きそうになる。


「とりあえず、まだやってないとこ……ここからやってみよか?」


 と、指を差した問題は、……そうだよ、俺、この問題がわからなくて眠くなって寝ちゃったんだよ。


「ん? どしたん?」


 固まっている俺に問いかける。


「この問題で詰まっちゃったんだよ。わからなくて」

「あ~、なるほど。じゃあこれはこの公式を使ってこの解法やりかたで……」


 そこで俺はさらに固まる。


「ごめん、その公式もわからない……」

「え~と、たしか高校で最初に習った公式のはずだけど、教科書はある?」

「ちょっと待って、たぶん鞄の中に……」


 俺は鞄をまさぐる。


「でも、ももちー、ちゃんと基本抑えたいい問題選んでるよ。あんなんでも一応教師なんだね」

「あんなんでも……」


 たぶん長田さんと俺の想像している「あんなん」は違うものだろう。

 俺の脳裏には先ほどの少し病んだ百川先生の姿が浮かんだ。

 俺が教科書を探していると、長田さんは自分が座っている席の机の上のチラシを拾い上げそれを見つめる。


「この生徒会選挙のチラシって奥原の?」

「いや、ちがうよ。たぶん百川先生のだろうけど、先生が出てったとき風に飛ばされたから俺が拾っといたんだよ」

「ふ~ん……」


 俺はさらに鞄をまさぐる。


「しかしこの部屋っち~よね。講習やってた視聴覚室はクーラー効いてたのに」


 そう言うとブラウスの前を摘まみぱたぱたさせる。

 その様子を横目で見ると、花網レース模様の下着ブラジャーがちらりと見えた。

 ていうか、よく見ると白いブラウスの下にうっすらと透けて見えてる。


「ん?」


 俺が見ていることに気づいてこちらを見る長田さん。

 俺は長田さんから視線をそらし、鞄をのぞき込むように教科書を探して誤魔化ごまかす。


「ああ、これかわいいっしょ?」


 ブラウスを引っ張ると下地はピンクで花網レース部分が鮮やかな赤の下着ブラジャーがちらりと見えた。


「ちょっと、やめてよ! 長田さん!」


 俺は鞄を持つ手をまっすぐ突き出し、顔を背け下着の部分を見ないようにする。


「あははは! 奥原マジウケる! そんな気にしないでこれ見せブラだから! つかそんな恥ずかしがんないでよ。こっちが恥ずくなるわ」

「いや、実際恥ずかしいことしてるから!」


 俺の反応になおもケタケタと笑う長田さん。

 俺は反対側を向き、動揺を押さえつつさらに教科書を探す…が。


「ない」

「ん?」

「ごめん、教科書持ってきてないや」

「あ~、じゃあやり方カタチだけ覚えよっか」


 長田さんはチラシを元の位置に戻し、再び俺の方を向く。


 ガラガラガラ!


 と、今度は後ろの戸が開く。

 今度こそ先生が戻ってきた……わけではないようだ。

 きれいで艶やかな長い黒髪。

 真夏なのに長袖のブラウス。

 灰色のスカートもやや長い。

 その下は黒いタイツを履いている。

 夏なのにちょっと暑そうな服装かっこうだ。

 切れ長の鋭い目をこちらに向ける。


「おや? 補習は一人だと聞いていたのだが」


 睨み付けるというわけではないが、その鋭い目を向けられると一瞬金縛りにあったかのように心が奪われそうになる。

 この女生徒も俺は知っている、いや、知ってはいるが、……えーと、このは同じ一年五組クラスの生徒で名前は……。


「あれ? 灰倉はいくらさんじゃん? 何しに来たの?」


 そう、灰倉はいくらさん。

 ……いや、名前まで覚えてはいなかったけど、同級生クラスメイトだってのは知ってた。


「百川教諭から用事に時間がかかりそうだから、一人で補習を受けている生徒を見てやってほしいと頼まれてな。しかし、数学担当なのに数も数えられない教師だったとはよもや思わなかった」


 ややもすると弱々しくも聞こえる声だが、張りのあるしっかりとした口調でさらりと毒を吐く。


「いや、あたしは違うし。つかあたしさっきあんたと一緒に講習受けてたっしょ」

「そうだったか? すまない、私は他人には関心がないから気がつかなかった。それに講習を受けていたからと行って補習を受けていないという道理もないんじゃないか?」


 千人生徒がいても絶対浮き上がって見えるだろう長田さんに気づかないとか、冗談で言ってるんだよね?


「ん~、まあそうだけど。…つか他人に関心がないって、胸張って堂々と言うことじゃないっしょ。高校生として、いや人間としてどうなん? それ。将来絶対困ることになるから」


 ちょっと語気が強まる。いつも温厚おんこうで怒ったところを見せたことがない長田さんがちょっといらついてる?


「必要になったら関心を持つ。今は必要がないと言うだけだ」


 苛つくその声に対し、特に感情の起伏もない様子で淡々と答える。


「必要とか必要じゃないとか、そういう問題じゃないっしょ……」


 うーん、灰倉さんちょっとずれてる? なんだろう、この異文化 交 流 コミュニケーションな感じ。

 そしてつかつかと俺の席の隣まで来て、そこの椅子を俺の席のところにずらして座る。

 灰倉さんの長い髪からは、長田さんとはまた違った柑橘系のいい香りが漂う。


「さあ、始めようか?」

「え~と……」


 今、長田さんが補習見てくれてるんだけど、俺、何か言った方がいいの?


「あ~、いいよ。灰倉さん。奥原のことはあたしが見てやってるから」

「む? そうなのか? 先ほど笑い声が聞こえたから二人で無駄話をしているだけかと思ったんだが」


 ああ、あの時のことか。

 激しく目に焼き付いた…アレだ。


「うん、わざわざありがとう灰倉さん。せっかく来てもらったけど大丈夫だよ」


 その言葉に顔をそむけちょっとうつむく灰倉さん。顔は髪で隠れて見えない。


「ん?」


 なんだろう、俺、なんかまずいこと言った?

 灰倉さんをがっかりさせないように精一杯の慣れない笑顔で答えたんだけど、その笑顔がやっぱり気色悪キモかった?


「いや、これは私が受けた任務ミッションだから。途中で投げ出すわけにはいかない」


 そう言って顔を上げこちらを向く。


「いや、任務ミッションとかそんな大げさな……」

「それにここで投げ出したら、百川教諭の心証も悪くなるだろうから、私が見させてもらう」

「あ~、それは大丈夫っしょ。あんたが他人に関心がないのと同じように、ももちーもきっとあんたに関心なんかないだろうし」

「!?」


 俺と灰倉さんの視線は同時に長田さんに向けられる。

 長田さんの表情にはほのかにざらりとした敵意が感じられた。

 ふざけあって茶化ちゃかしたりとかはあったが、こんなにも真正面から毒を吐く長田さんは初めてな気がする。


「あんたもこいつの補習見るってんなら、そこでじっくりいてくださいな。けど、あたしらの邪魔はしないでくださいね~」


 その敵意を持ったまま、なにやらにっこりと不穏なただならぬ表情をする長田さん。


「ほう?」


 灰倉さんもまたその鋭い目を細める。

 なんだ、この雰囲気? 二人の間の空間がゆがんで見える……?

 俺の正面に座っていた長田さんは立ち上がり、椅子を俺の隣まで持ってきて座る。

 右に灰倉さん、左に長田さん。

 俺は二人に挟まれる形になる。

 なんだこの状況は?

 二人の香りに包まれて頭が混乱くらくらする。


「ん♪」


 隣に座った長田さんはにっこりと俺に極上とびきりの笑顔を向ける。


「え~と……?」


 その笑顔に俺はドキッと戸惑う。


「なぜ場所を移動する?」

「なぜって、ただ単に反対からだと問題が見づらいからなんですけど?」


 俺に見せる笑顔とは逆に冷淡な表情で答える。


「それじゃ再開しよっか。この問題からだったよね?」


 俺に対しては笑顔を見せる長田さん。

 左手で問題を指さすと、右腕を俺の左腕の下から回し、そのまま机の上に置いた俺の左手の上に右手を添える。


「!?」


 柔らかい感触に俺は絶句する。

 胸が! 胸が当たっているんですけど?


「困っているように見えるんだが?」

「邪魔しないでって言ったっしょ? 奥原? 困ってる?」


 そう言って俺の方に向けられた笑顔の奥には少なからずとげが込められている。


「いえ……困って……ないです」


 言い切る前に目を反らしてしまった。

 迫力に押されて無理矢理言わされた気がする……。


「だってさ、困ってないんだからべつにいいんじゃない?」


 勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる長田さん。


「ほう?」


 それに対し、灰倉さんのより殺意の籠もった視線が俺に突き刺さる。


「でもちょっとだけ離れてほしいかなぁ……って。ほら、今日暑いし……」


 迫力の属性は違えど破壊力こうか同等ばつぐんだ。


 これってなんて言うんだっけ?

 え~と、……そう「針のむしろ」


 そこに座った上で、片方からは巨大な16トンハンマーで殴打さぶんなぐられ、もう片方からは鋭利な日本刀で一刀両断にばっさりと斬られている気分だ。


「あ~、ごめんね。あんまくっつくとあっちいよね」


 長田さんは手を離しあっさりと引き下がる。

 ちょっと安心ホッとしたが、それはそれで少し悲しい。


「ふん…」


 灰倉さんは溜飲が下がったのか目尻が少し下がる。


「ほんとっつ~」


 そういうとブラウスのボタンを二つほど外し、胸元を広げ、襟元を少したくし上げると鎖骨が露出する。

胸元から見える肌の面積が増え、下着ブラジャーの赤い花網レース部分どころか面積の広い淡いピンクの生地があらわになる。


「なっ……!」


 俺と灰倉さんは同時に驚く。


「気にしないでってさっき言ったじゃん。奥原。これ見せブラだからって」

「まったくこのクソ…ッチが……」


 灰倉さんの呟きの後半部分は小声ちいさすぎて聞き取れなかった。


「それじゃ、やろっか?」


 俺は極力なるべく長田さんの方を見ないようにする。

 胸元に目が行かない自信がないから。


「これは、この公式を使ってこれが、こうなって、こうなって、こうすれば、ね? 簡単でしょ?」

「……え~と……?」


 長田さんがあまりにも手際よく問題を解いてしまったので、理解が追いつかなかった。

 灰倉さんはゆっくりとため息をつく。


「お前は人にものを教えることも満足に出来ないのか。こいつは全く理解していないようだぞ」


 二人が睨み合い、小さくなった俺の頭の上で再び火花が散る。


「あん? あんたならもっとうまく出来るっつーんですか?」

「無論だ」


 と胸を張る灰倉さん。

 ……あまり豊かではないその張った胸の下が汗で透け、白いからかあまり目立たないが下着ブラジャーがうっすらと見えた。


「赤点をとって補習を受けると言うことは、まず基礎そのものが出来ていないとみるのが妥当であろう。ならば、まずは基礎の基礎、中学で覚えるレベルの公式から立ち返るのが賢明だと言うことだ」

「何言ってんの? やり方カタチだけ覚えればいいんだって。中学の復習そんなことしてたらいつになっても終わらないっつの」


 灰倉さんの提案に呆れる長田さん。


「彼はまずこの公式を理解していない。この公式は、中学で習ったこの公式と、この公式の応用だ。言い換えれば中学の時に習った方法でも十分解けるのだ」


 灰倉さんも冷静を装いゆっくりとした口調で言ってはいるが、明らかに語気が強まってきている。


「いやいやいや、たとえ解けるにしても、そんなん手間がかかりまくりで効率悪いっしょ」

「お前はは相手の目線に立って物事を考えるという思慮に欠けている。自分が出来るからといって、それを相手も出来るとは限らない。馬鹿バカに物事を教えるなら、そこまで自分の水準レベル下げシンクしなければいけないということなのだ!」


 何かすごくいいことを言っていたと思ったのに、結局は俺を馬鹿呼ばわり?


「馬鹿だからこそ、手っ取り早く武器が必要なんじゃないですか~? このやり方カタチさえ覚えておけば、あとは全部これでできるんだから!」


 大きくなる火花の間で俺はさらに小さくなる。

 馬鹿、馬鹿って、そうですか二人の中では俺は馬鹿って認識なんですね?

 一ミリりとて否定出来ないけど……。

 ん? ていうかなんだろう。

 何かこの二人のやりとり、最近自分が体験したことで似たようなことがあった気がする。


「その武器の効果もわからずぶちかましてたら、後で必ず自分に返ってくる。いつか必ず行き詰まることになるっていうことがお前にはわからないのか!?」

「大丈夫だっつの! いくら馬鹿でも使ってるうちにちゃんとその効果を覚えるから。とりあえず必要なのは武器をそろえること。武器なしで戦うなんて手ぶらで戦争に行くようなもんだっつ~の!」


 あ~、そうだよ、あの出来事だ。


「…はは、あははは……」


 しまった、思わず笑い出してしまった。


「何が可笑しい?」

「何笑ってんの?」


 両隣の二人から憤怒の表情でにらまれる。当然そりゃ怒られるよね。


「ほう、こんな時に笑っているお前はやっぱり馬鹿なのか」

「こんな状況で笑えるとかあんた本当にいい度胸してるわ」


 両側から二人の視線が突き刺さる。


「いや、ほんとにごめん。昨日TFLOってオンラインゲームやってたんだけど、そこで親切な人がいて、糸買いに行ったのに売り切れてたって言ったら、その糸くれた上に製作の指導をしてくれたんだよ」


 その瞬間、両脇の二人の怒り顔がそのまま固まる。


「で、そのことをギルドの仲間に話すと、あ、ギルドってのは仲のいい人たちの集まりって思ってくれたらいいかな。その仲間の人が、「武器がそろわないうちに戦うなんて丸腰で戦場に行くに等しい」って今みたいなことを言って、ああ、この状況って昨日あったあの出来事に似てるなあって……」


 そこで俺は異変に気づく。

 ん? なんだ? 両隣の様子がおかしい。

 長田さんは口をぱくぱくさせ、灰倉さんは鋭いその目を大きく見開いている。


「お……お……お……」

「あ……あ……あ……」


 なんだ?

 こんな時にゲームの話をしたのがまずかった?

 俺、怒られる?


「お前は昨日の!?」

「あんたスカイ!?」


 二人が同時に立ち上がり、俺を指さし絶叫する。

 長田さんに至っては立ち上がった後にさらにもう一度驚いた様子で、椅子を倒すほどだった。


「え、なに……? え?」


 突然の二人の絶叫に思考が停止する。


「私が昨日裁縫ギルドで会ったあのPCの名前はこれが言った通り、たしかスカイだった。お前はあの冒険者なのか?」


 目配せとあごで長田さんを〝これ〟呼ばわりをする灰倉さん。


 え~と、う~ん。

 す~は~、と深呼吸を一つ入れるとようやく俺も理解が追いついてきた。


「うん、俺はTFLOでスカイって名前でやってるけど。……てことは灰倉さん、ミレニアムさんなの?」


 灰倉さんはうなずく。


「そうだ、私はミレニアムという名前でTFLOをプレイしている」


「ああ! そうなんだ! 昨日は本当にありがとう!」


 俺は立ち上がり、灰倉さんの手を取ってお礼を言うと灰倉さんはまた先ほどのように顔をそらしうつむく。


 あ、手が汗でべちょべちょなの忘れてた。

 最悪だな、俺。


「で、こいつもお前の名前を知っていたということは知り合いなのか?」


 灰倉さんは長田さんの方に目を向ける。

 長田さんの方を見ると、先ほどまでとは一転、子犬のように怯えた表情をしている。


「え~と……」


 俺、ゲーム内でフレンドとか少ないし、ギルドACのメンバーくらいしか一緒にプレイしてないし……。

 それに昨日のあの出来事を知ってるっていったらやっぱりそのギルドのメンバーしか考えられない。

 だとしたら目の前の長田さんはやっぱりACギルドのあのメンバーしかいない!


「ジル! ジルでしょ?」

「え? ああ、う~ん……え~と……」


 問い詰められた長田さんは俺から目を反らす。


「そうだよジルだよ! オーストラリアに住んでるとかいうのはあれ嘘だったんだね?」

「あ~……、うん……」


 顔を反らしうつむく長田さん。

 肯定したのかもよくわからない返事はとてもか弱い。


「やっぱりそうだ! ジル、昨日自分でJKだって、女子高生だって言ったもん」

「え、あいつスカイにもJKだって言ったの?」


 長田さんは突然真顔になりこちらを向き俺に問いただす。


「え?」

「あ!」


 やらかしたという表情をする長田さん。そのまま、また俺からゆっくり視線をそらす。

 そして立ち上がったときに倒れた椅子を元に戻し、ゆっくりと座る。

 ブラウスが片方の肩からずり落ち、前傾姿勢で両腕を垂らし、それを膝に挟んで座るその様子はとても弱々しく映る。


「え? じゃあ、カテドラさん? あの後仕事だとか言ってたけど……」


 その問いかけに、長田さんは答えず、さらにうつむいてしまう。


「あの後って、お前、そういう仕事とかしているのか。やっぱり見た目通りの糞ビッ…」

「そんなわけないっしょ! 人を見た目で判断すんな! それにその話してた時カテドラいなかったっしょ」


 首だけ上げて俺たち二人に向かってそれぞれ叫ぶ。

 ん? てことは、残っているACメンバーは、あと一人しかいない。

 目の前の長田さんギャルとは最も遠い、いや、頼れるという意味ではもしかしたら最も近いかもしれないあのPCキャラだ。


「もしかして……」

「ああ~! もう!」


 長田さんはおもむろに立ち上がる。


「そうだよ。セルフィッシュだよ、あたしは。そしてあんたの商売敵ライバルでもあるセルフィッシュだよ!」


 そう言い放ち灰倉さんを指さす。その表情はなにかが吹っ切れたのか、きりりと引き締まっている。


「そうなんだ! セルフィッシュさんだったんだ!」


 今まで長田さんと過ごした学校生活と、ゲーム内でセルフィッシュさんと一緒に冒険した思い出が目の前で交錯する。


「すごいよ! いままでゲームで一緒に冒険してた仲間が実は同級生クラスメイトだったとか!」


 あるんだなぁ、こんなこと。まるで漫画マンガ娯楽小説ライトノベルの世界だよ。


「ちょっといいか? 二人で盛り上がってるところ非常にすまない」


 あ、そうだ。灰倉さんのことちょっと置いてけぼりにしてた。


「セルフィッシュって誰だ? 勝手にライバルにされても困るのだが……」

「……え?」


 灰倉さんに突き出したままだった長田さんの指が震えながら下ろされる。

 これは先ほどまで舌戦バトルをしていた長田さんに打撃を与えいじわるをするために放った発言ではない。

 眉山が下がり、唇がわずかにつり上がり本気マジ困惑しこまっ表情かおをしている。

 それを長田さんも感じ取り、へなへなと力なく崩れ落ちる。


「あ…あ…あんた、競売マーケットで同じ製作品アイテムを出品してる相手のことも知らないとか……。製作品アイテムに制作者のめいが入ってるっしょ?」


 TFLOで製作クラフトされた製作品アイテムは自動的に制作者の銘が入る仕様システムになっている。


「そんなものいちいち見るか。私にとって私以外は全てOne of themワンオブゼム凡百ぼんぴゃく凡千ぼんせん制作者クラフターなど、私が気にしてなんかいると思うのか?」


 灰倉さんはいかにも面倒くさいといった感じにさらりと言いのける。


「いやいやいや、少なくとも同じもの売ってる商売敵っしょ……、その相手のことが気にならないとかあんた本気マジで言ってるん?」

「だからそんなものを一々気にしていたらこんな商売クラフターなんて長く続けられるような稼業ではない。私も昔は気にしたこともあったが、気にするだけ無駄だと気づいて、そんなものを気にしなくなったら非常に楽になった。いちいち銘の確認に時間を費やすことなんて時間の無駄だし、ほかの出品者はNPCと同様だと思えば全く腹も立たない」


 涼しい表情でそう平然と言ってのける灰倉さん。


「他人に関心がないって……」

本当マジ本気マジだったん……」


 俺たちは先ほど灰倉さんが言っていた「他人に関心が無い」という一言を思い出す。

 その意識がTFLOのなかでまれたということなのか?

 俺たち二人は一般人いっぱんピーポーの常識の範囲外にいる目の前の存在に戦慄せんりつを覚える。

 特に長田さんは深刻で、目の焦点が定まらず昇天寸前だ。

 好敵手ライバルだと思っていた、しかも昨日、自分より劣っているとか思いっきり言いきっちゃってた相手が、全く自分のことを意識しておらず、名前すら知らなかったとか言い出すもんだから。

 それに対し、なおも頭の上に「クエスチョンマーク」が付いているかのような困り顔をしたままの灰倉さん。


「お前たちはいったい何に驚いているのだ? 特にそこ。私のせいで腰を抜かしているのなら謝らせて貰う。え~……」


 灰倉さんは目を泳がせると、俺の前の机に置いてあるプリントシールなどで装飾さデコられたノートを見つける。

 そこには「長田's Note」と書かれていた。


「ナガタ…さん?」


 ぴしぃっ……っと音を立て空気が引き締まる感覚があった。

 それと同時に、止むことのなかったせみの鳴き声が止まる。


「風が…とまった…」


 俺もせみ同様、異様な雰囲気を感じ取る。


「いま、あんた、なんつった?」


 長田さんはゆっくりと立ち上がる。


「謝ると言ったんだ。それとも憐れみをかけて欲しくなかったか?」


 長田さんは体を揺らし、ゆらり、と立ち尽くす。


「そのあとだっつーの」


 少し考える灰倉さん。


「その後はただ名前を言っただけだろう、ナガタ、と」


「あたしは おさだ だああああああ!!!!!」


 両のこぶしを握り腰に肘を当て絶叫する長田さん、心なしか髪の毛が逆立っている気がする。

 髪の色は……よかった、変わってない。

 そんなに。

 窓側に立つ長田さんは俺の位置からだとシルエットだけが浮かび上がって見える。

 陰になって暗くなっているはずなのに目だけが異様に光っているように思えた。


「あんた! 一万歩譲って名前知らなかったのは許すとしても、あたしをナガタっていうのだけは絶対に許さない!」


 え? 怒るとこ、そこ?

 長田おさださんの 逆 鱗 ふれたらだめなとこって、そこ?


「そうか、それはすまなかった。だが、気にするな。私がお前の名前を呼ぶことなど、もうないのだろうから」


 腕を組んで下を向いて首を横に振り、やれやれという素振りの灰倉さん。


「あん?」

「今日限り、私とお前の接点はない、ということだ」


 あごをわずかに上げ首も少し曲げ、斜め下に見下ろすようにして長田さんに指を差す。


「あんた、現実世界リアルであたしと接点がなくても、TFLOの競売マケで毎日こぶしを付き合わせることになるんよ?」


「だったらなおさらお前の名前を呼ぶことなどないではないか。それに名前など、私が他人を識別出来ればそれで良いだけのこと。お前がオサダであってもナガタであってもセルなんたらであったとしても、私にとってそれは瑣末さまつなことでしかない」


 と、ため息をつく灰倉さん。


「何でもかんでも自分中心、他人がどう思おうがお構いなしとか……あ・ん・た! 本当マジいらつくわ……」


 やばい。

 そんなことはないだろうけど、長田さん、灰倉さんに殴りかかったりしないよね?


 ガラガラガラ!


 と、前方の戸が開く。


「何か怒鳴どなり声が聞こえると思ったら、ちょっとあなたたち何をやってるの?」


 百川先生が戻ってきた。助かった……のか?


「申し訳ない、百川教諭。私は任務を遂行しようとしたのだが、この女の妨害を受けてしまっていたのだ」


 灰倉さんは確かに間違ったことは言ってはいない。

 だけど、う~ん。


「ちょっと、あんた、妨害してたのは……いや、確かに……あたし……だったかも……」


 急速にしぼむ風船のように勢いをなくす灰倉さん。逆立っていた髪は勢いをなくし、色も鮮やかさを失う。

 親切心で最初に見てくれてた長田さんだったけど、何かおかしな方向に行っちゃったのはやっぱり長田さんのせいなのかもしれない。


「そうなの? 奥原君?」


 ここは俺が助けてあげないと。


「いえ、最初に勉強を見てくれたのは長田さんなんです。そこに灰倉さんが来てくれて一緒に見てもらいました。見てもらっているうちに指導方針の違いで衝突して、言い争いになってしまったんです」


 うん、俺、間違ったこと言ってないし、誰も傷つけてないよね?

 重要なのはその後の出来事なのかもしれないけど……。


「そうなの? 二人とも」


 と、二人を見上げる。


「……うん」

「……間違ってはいない」


 灰倉さんはちょっとまだ釈然しゃくぜんとしない表情だけど、長田さんは少し笑顔を見せてくれている。 


「そうだったのね。元々私が見なければいけなかったのに、こんなことになっちゃって、一番悪いのは私ね」


 良かった。これで一件落着だ。……よね?

 と、長田さんの方を見ると口元がわずかに「ありがとう」と動いた気がした。もしかしたら違うかもしれないけど、俺は勝手にそう解釈した。


「で、どこまで終わったの? ……って全然進んでないじゃない」

「いや、それは……」


 うん、長田さんが解いてくれた一問しか進まなかった。


「はあ…、これはあれね、もう最終手段ね」


 最終手段?

 ひとつため息をついた百川先生からなにやら不穏当やばそうな言葉が発せられる。


「あなた、それはもう帰ってから家でやりなさい」

「え? 帰っていいんですか?」


 これで終わり? 最終手段は?


「帰っていいけど条件があるわ」


 俺を見据える百川先生の目がきらりと光る。

 条件? ほら、やっぱり来た。

 百川先生は教卓まで歩いて行き、何かを探す。


「あら? ここにチラシなかったかしら?」

「あ~、それってコレ?」


 長田さんがノートの下からチラシを取り出す。


「そう、それ!」


 長田さんからそれを受け取り、表を向け俺に見せつけるように突き出す。

 突き出されたチラシに描かれているキャラクターと同じポーズだ。


「奥原君、あなた生徒会の会計として立候補しなさい」

「え?」

「へ~」

「ほう」


 時が止まり、先ほどんだかと思われていたせみの声だけがやけに大きく響き渡る。


「いま、なんと?」

「会計に立候補すれば、今回の赤点は免除してあげるわ」

「~~~~ッッ!!!!」


 俺は吃驚仰天しおどろいて声も出せず周りを見渡した。

 両側の二人はそれぞれにうすら笑みを浮かべている。

 いや、二人とも助けて! どっちかでいいから助けて!


「せ、せ、せ、先生? 正気しょうきですか?」

「あら~、会計なんて高校レベルの数学どころか、掛け算割り算の算数さえ出来れば出来るんだから楽なものよ? それにあなた、前に学校にパソコン持ってきてたことあったわよね? パソコンが得意なあなたならきっと簡単なお仕事だと思うわ」


 狼狽うろたえる俺に得意げに答える百川先生。


「いや、あれは……」


 確かに俺は、一度パソコンを学校に持ってきたことがあった。

 正確に言えば、アレは『MUSH』だ。

 舶来のコーヒーショップで、勘違いしたサラリーマンがドヤ顔でひけらかしているアレだ。

 俺は一度TFLOを学校でやろうとMUSHを学校に持ってきたことがあった。

 しかしMUSHそれを鞄から出したところ、電源を入れる前にクラスのみんなにはやしたてられ、計画は未遂に終わった。

 それ以来学校にMUSHを持っていったことはない。

 実はMUSHアレはTFLO専用機なんです。

 なんて言えない。

 他の用途はネット巡回ウェブブラウジングくらいです。

 なんてとても言えない。

 よーつべでかわいい子猫や子犬の動画を見るのが大好きなんです。

 なんてとてもとてもそんなこと言えない。


「無理。俺に会計なんて絶対に無理……」

「あら? 気が早いわね。もう会計に当選した気になっているの? あなたは『立候補』するだけでいいのよ? なにも当選しなさいと言っているわけじゃないんだから」


 片方の手を腰に当て、得意げに言うと眼鏡がきらりと光る。


「あっ、そうか…」


 そうだよ、他に立候補する人がいて、俺が落選すればいいだけじゃないか。

 他に候補者がいれば俺なんかが当選するわけがない。


「ねえ、ももちー?」


 長田さんが少し腰を屈めると、百川先生目線の高さで悪戯っぽい笑みを浮かべ、覗き込むようにして尋ねる。

 さっきまで怒ったり落ち込んだり忙しかったが、もうそんな様子はなく、普段の長田さんにすっかり戻った。


「先生に対してももちーはやめなさい。長田さん」

「ももちー先生。あたしも立候補してもいいのかな?」


 先生が注意したが、後ろに先生をつけただけで呼び方は変わっていない。


「え? あなたも会計に立候補するの?」

「え? まじで? 長田さんが会計に立候補して助けてくれるの?」

「じゃなくて、会長。生徒会長」

「は?」

「え?」

「ほう?」


 再び時が止まる。風が教室内を駆け抜けカーテンが揺れる。


「え、え~と、あ、あなた、会長に立候補したいの?」


 『あなた』のところで長田さんを上から下、下から上と見廻したのを俺は見逃さない。


「うん!」


 長田さんは満面の笑顔で頷く。

 百川先生は腕を組んで、少し考え込む。


「生徒会役員の任期は選挙のある二学期から翌年の選挙までの一年間で、三年生が立候補することができないから一年生の立候補は歓迎するところではあるけれど……。でもどうしてあなた会長に立候補しようと思ったの?」

「この学校に入ってから今までずっと疑問に思ってて、それを変えたいな、と思ったから」

「へぇ、で、どんなことなの?」

「あたし、制服を作りたい。学校指定の制服を作りたい」

「は?」

「え?」

「……なん……だと……!」


 三度みたび時が止まると、風が強まり、木の葉がこすれ合いざわざわと音を立てる。


「この学校って服装自由で制服なんて着なくてもいいんだよね? でもみんな制服着てる。それってなんかおかしくない? だったらみんな一緒の制服作って着たらいいんじゃないかなって思って」


 埼ヶ谷さきがや高校、通称埼高さきこうに学校指定の決められた制服はない。

 服装については自由で生徒の自主性に任されている。

 つまり私服で学校に来たとしても何ら問題はないのである。

 だが、それにもかかわらずほとんどの生徒は何らかの『制服』を着用している。

 それは、中学校時代のものであったり、なかには他校の制服を着ている生徒もいる。

 上がTシャツなどの生徒も多く見受けられるが、下は間違いなく制服のズボンやスカートである。


「制服? え~と、生徒会長に制服を作ってそれをみんなに着させるまでの権限はないと思うんだけど……」

「だから、もちろんそんなのあたしだけじゃ出来ないって」


 長田さんは崩れていた服装を正してから続ける。


「とりあえずあたしが会長になって学校指定の統一した制服について全校生徒に訴えかける。それで全校生徒に理解が深まれば制服を作ることが出来るんじゃないかなって思って」


 百川先生は腕を組み、少し考え込む。


「う~ん、生徒総会で議案を提出してそれが通れば、もしかしたらってこともあるかもしれないけど……。相当ハードル高いと思うわよ?」

「じゃあ、やろうと思えば出来んだよね?」

 

「だめだ!」


 今まで少し輪から外れていた灰倉さんが突然叫ぶ。


「自由と生徒の自主性を重んじる埼ヶ谷高校において、自由な服装はその象徴だ! 統一された制服なぞ作ったら、その自由が脅かされることになる」


 さっき言い合ってたときよりもさらに切迫した形相で長田さんに迫る。


「は? なにいってんの? 自由ったってあんた含めてみんな制服着てるっしょ? それをただみんなが一緒の制服着るってことの何がいけないっつうの?」

「なぜお前は簡単にそんなことが言えるのだ? あり一穴いっけつという言葉があるだろう? お前のその軽率な行動が、九十年を誇るこの埼ヶ谷高校の長き伝統を崩すきっかけになるやもしれんのだぞ?」


 再び繰り広げられるバトルに百川先生は右往左往はらはらしながら成り行きを見守っている。


「逆になんであんたはそんな深刻に考えるかなぁ。あんたも着たくない? そんなんじゃなくもっと可愛いカワイイ制服とか」

「き、きさま、私の制服をそんなん呼ばわりだと?」


 ……一瞬想像してしまった。灰倉さんが長田さんみたいな制服を着ている姿を。

 ……なかなかイイかもしれないと思ってしまった。

 しかし、派手で自由すぎる制服を着つつ、統一された制服を訴える長田さんに対して、地味でお堅い制服を着つつ自由な服装を訴える灰倉さん。

 う~ん、なんか逆なんじゃない? という気がしないでもない。


「よし、わかった。お前がそうしたければそうするがいい」


 これ以上ないくらい怒髪天を衝いおこっていたと思われた灰倉さんがあっさりと引き下がる。


「だが、私も会長に立候補させてもらう」

「は?」

「え?」

「へ~」


 もう止まることのない時は音を立てて動き出す。風がいっそう強まりカーテンがばたばたと音を立てる。


「お前が制服を作るというのならば、私は伝統と自由を守り抜く! 必ずや私が会長に当選して、お前の野望を打ち砕いてみせる!」


 腕を組み、仁王立ちをし、その鋭い眼光がんこうで長田さんを睨みつけると、灰倉さんの長い髪が風で激しくなびく。


「やれるもんなら、どうぞやってみてくださいな」


 同じく腕を組み、笑みを浮かべつつ睨み返す長田さん。

 長田さんのノートが風でパラパラとめくられるとそこには「あたしのかんがえたさいきょうのせいふく」の文字とともに可愛らしい制服を着た女の子のイラストが描かれていた。

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