第8話

 カチャカチャ

 トントントン

 栗栖はキッチンのいすに座り、エプロン姿で夜食を作る了の後ろ姿を、じっと見つめていた。

 了は手際よく千切りにした野菜をナベに入れ、だしに下味をつけた。

 小皿に少しすくい取り、味を見る。

 うむ、よいではないか。

 鼻歌まじりにジャーからご飯を取り、水で洗うと、ナベに落とし込んだ。

 たまらなくいい匂いが、キッチンに弾けて漂った。

 了はつくづく、俺ってこういうの好きだなぁ、と感じいった。

 おたまを両手に握って、料理を作ってやれる人間がいるって、やっぱ幸せなことかもしれない。とも感じていた。

「料理するヴァンパイアって、かっこ悪ィのな」

 栗栖の一言に、了はくるりと振り返った。

「おまえにヴァンパイアは似合わない」

 なんの恨みか、もう一言付け加えた。

 了は何と言っていいか分からず、どんぶりを棚から取った。

「雑炊、食うよな?」

 さりげなく言ったつもりだったが、声は緊張していた。

 栗栖は答えなかったが、了はどんぶり一杯に雑炊をつぎ、栗栖の目の前にドンと置いた。

「熱いからさ、気をつけて食えよ」

「……」

 栗栖はなにか言いたそうな目付きで、了を見上げた。

 しばらく見つめていたが、

「おまえは食べないの?」

と、言った。

「え? あー、腹減ってないから」

 了は苦笑って答えた。

 栗栖はいぶかしげに顔をしかめた。

 栗栖は栗栖なりに慎重に言葉を選んでいるのだろう。少し的のはずれた質問をし始めた。

「おまえのママ、いつもこんなに遅いのか?」

 了は栗栖の隣のいすに座り、

「うん、まぁな。あの人、看護婦だから」

「毎日、夜勤なのか?」

「さあね」

 こんな会話をかわす栗栖に了は、「おまえのほうが、あの人のことは詳しいんじゃないのか?」と言い返してやりたかった。

「僕のママはさ、夜寝るとき、自分の部屋のドアの鍵を締めて寝てたんだ」

「……」

 珍しく自分のことを語り始めた栗栖を、了は不思議そうに見つめた。

「ママは、僕が怖かったんだよ」

 栗栖は何がおかしいのか、クスリと含み笑った。

「ママは、僕のことをひとりの男として見てたんだ」

「……」

「だから、ママは、僕を抱き締めたことなんかないんだ」

「で、俺の母さんなの?」

 栗栖はふいに顔を背け、雑炊を食べ始めた。

 なにが言いたいんだろうか。

 了には理解しかねた。

「弁当……」

 栗栖が突然口を開いた。

「え?」

「弁当、だれが作ってたと思う?」

 了は本当に鈍チンだった。まじめに、

「おまえのママだろ?」

 栗栖はその聡明そうな顔を嘲笑に歪め、

「ホントにそう信じてたのか? なぁ、一回だって疑ったこと、なかったのか? 僕は、おまえに一度だって弁当食べさせたこと、あったか?」

「……ない……」

「食べさせられるわけないじゃないか。食べさせたら、ばれるじゃないか」

「……」

 了は怒りを感じるよりも、悲しみを感じている自分に気付いた。

 栗栖の手から食べたアン食パンのときめきを、まだ覚えている。

 多分、あの弁当を栗栖の手から食べても、了には分からなかっただろう。

 当然巻き起こっていたはずの、クラスの栗栖に対するうわさまで遮断してしまう能力の持ち主なのだから。

「ねぇ、セックスしてたって、思ってる?」

 栗栖はズバリとたずねてきた。

 了には答えられなかった。

 お母さんの女の部分を信じられなかったというのに、そんな考えに行き着くはずがない。

「おまえのママは、いい人だよ。少女っぽくて、ロマンチストでさ」

「……」

「あんな夢見がちな人は、娘を持てばよかったのさ」

 栗栖はとんでもなく勝手なことを言っていた。

 了は止める気力もなく、栗栖の言うことを聞いていた。

 栗栖はじっと了の瞳に見入った。

 そして、意外にもにっこりと微笑んで、

「僕はさ、おまえのママに、ママの代わりになってもらってたんだ。世話を焼いてくれるママ、ほめてくれるママ、守ってくれるママ、愛してくれるママ、朝、弁当を作ってくれるママ……小鷺田が心配するような、怪しいことは何ひとつしてないよ」

 了には、嘘だと分かっていた。

 栗栖の横顔を眺めた。

 スプーンを含み、唇が慎み深く動き、喉仏が上下する。

 栗栖の食べる動作をつぶさに見つめ、了はこめかみがボウとしてくるのを感じた。

 つぎの瞬間にも、栗栖の顔を捕らえている自分がいることを、知った。

 了はこめかみを押さえて、その妄想を止めようとした。

 止められない。

 この妄想は、始まったばかりなのだ。

 味わいたくて、ウズウズしている自分の存在を、了は知っていた。

 了は、できるだけ冷静になろうと努めた。

 栗栖はふと食べるのをやめて、了を見た。

 ふたりの間に積もり重なったものがあるのを、栗栖は一瞬理解できなかったようだ。

 それは、具体的に、濃密に、確実に、育っていた。

 栗栖は立ち上がった。

 了も立ち上がった。

 栗栖の顔は赤くしかめられていたが、怒りからではないようだった。

 栗栖の恐怖が、危機感が、了の鼻孔をくすぐった。

 生々しい生への渇望を嗅ぎ取った。

 栗栖の本音が、ここにあった。

 栗栖が本当に危惧しているのは、自分を殺すかもしれない、もしくは仲間にしてしまうかもしれない、血の因縁なのだ。

 了は、そのことを、栗栖の毛穴から染み出してくるホルモンの匂いで知ることができた。

 了は狂喜した。

 了には栗栖を殺すいわれはない。

 そして、すでにこの血を不都合だとも思っていないのだ。

 この血は、栗栖を愛すのに都合のいい、血なのだ。

 栗栖のたたきつけてきたいすをよけ、栗栖が玄関から外へ出てしまうまえに、彼の動きを封じた。

 手足が絡み合い、ふたりは床にもんどりうった。

「ああ……あああ!」

 栗栖は引き裂かれるような悲鳴を上げた。

 了は切なかった。

 そんな悲鳴を上げないでよ。と、優しく言い聞かせてやりたかった。

 生にしがみつく栗栖は、とても素敵だった。

 生きていたいと足掻く栗栖は、その容姿からは想像できないほどたくましかった。

 栗栖には悲壮感は似合わない。

 他人を犠牲にしても自分の欲に素直な栗栖こそが、了の身体に流れる血の最も好むタイプの人間なのだと確信していた。だからこそ、一度は憎んでもこうして惹きつけられてしまうのだ。了はもう普通の人間の感性で、物事を考えられなくなっていた。

 了は栗栖を羽交い締めにして、ゆっくりと唇を合わせた。

 たかが人間のバカ力など、ヴァンパイアになってしまった了には通用しない。

 あの、意識がぶっとんだ現実とも思えない、ヴァンパイアの指先を思い起こした。

 栗栖に抵抗する意志を無くさせてしまうのは、残念だし、惜しかった。

 生き生きとした栗栖が好きなのだから。

 しかし、しようがない。

 了は栗栖の首筋に手を当てた。

 栗栖の悲鳴が止まった。

 悲鳴はまだ上げているのか、口を大きく開けたままでいた。

 栗栖にはまだ分からないのだ。

 了は栗栖を愛したいだけなのだ。

 了は、栗栖のコーデュロイのズボンのチャックに手をかけた。

 指先がスルリと狭い空間に分け入り、栗栖の暖かな内部を探った。

 栗栖が何度も唇を動かしている。

 苦痛に歪んだその顔も素敵だった。

「なに? 聞こえないよ」

 了は優しくたずねた。

 栗栖の唇が、くっきりと一語一語うごめいた。

 ヤ・メ・テ・ク・レ……

「イヤだね」

 了は意地悪くささやいた。

 コ・ワ・イ……イ・ヤ・ダ……

「俺も怖かったよ。でも、ホントはそうでもないんだ」

 栗栖のまなじりに涙があふれた。

「泣くなよ、悲しくなるじゃないか」

 了はそう言いつつ、栗栖の萎えたものを優しく包んだ。

 栗栖の脱力した体が、わずかにこわばる。

「怖くないよ」

 了は栗栖の耳元でささやいた。

 指は深々と入っていく。

 栗栖の生気を吸い取りつつ。

 吸わずに触ることなどできないのだ。それを極力押さえることができたとしても。

 栗栖の眉がしかめられた。

 了も味わった脱力感をともなう心地よさが、栗栖にも訪れていることが分かった。

 栗栖の熱い息が、了の耳元にかかった。

 栗栖の体は、生気を発して、燃えるように熱くなっていた。

 了の体が氷のように冷え切っていくのに対し。

「栗栖、栗栖……」

 了はたまらずつぶやいた。

 栗栖の体に、冷たい自分がゆっくりと解け合っていく。

 栗栖の四肢が、了が動くたびにビクビクとけいれんを起こす。

 ふたりは、激しく息を漏らしていた。

 栗栖の炎のような生気に、了は燃やされてしまいそうだった。

 栗栖の胸のなかに沈み込み、起き上がれない気がした。

 栗栖のなかに侵入する自分自身に、拷問をかけられたような苦痛を感じた。

 栗栖の生気は、あまりに激しすぎて、毒のようだった。

 了は短く叫んで、ぐったりと栗栖の胸に顔をうずめた。

 栗栖は深く息をついた。

 了はしばらくして、やっと顔を上げた。

 栗栖はぼうぜんと空中を凝視していた。

「栗栖?」

 栗栖のオレンジ色の瞳が、了を捕らえた。

 口はまだ利けないのだろうか。

「大丈夫?」

 栗栖は険しく眉をしかめた。

 了は栗栖の体から身を起こし、栗栖をかついで自分の部屋へ連れていった。

 了はベッドに栗栖を寝かせると、

「明日になったら、起こしてやるから……心配せずに、安心して寝ろよ」

と言って、部屋の明かりを消した。

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