第5話 一条戻橋(案内係)「京都の恋」

 主題歌 渚ゆう子 「 京都の恋 」


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 南座の正面玄関を上がり、右側に行くと右手に人が二人も入れば満員の小さな案内所がある。いわゆる総合案内所である。

 開場時、幕間(まくあい)(休憩時間)ここでは公演のパンフレット、歌舞伎公演の時は、番附(東京では筋書)、南座特製オリジナル便せん、絵葉書等を販売している。

 今は開演中なので、ひっそりと静まり返っている。


 案内チーフの藤森理香が一人留守番をしていた。

 カウンターには、一冊の文庫本が置いてあった。お客様の忘れ物である。

 届けてくれたのは、案内係である。

「チーフお忘れ物です」

「何ですか」

「本です、文庫本です」

 その「文庫本」の言葉に理香はぴくっと反応した。

「どこで見つけたの」

「一階東側ロビーです」

「じゃあここに、日付と場所とあなたの名前書いといてね」

 文庫本の上に小さなメモ用紙が挟まれた。

 理香はその一冊の文庫本を手に取り、二十年前の事を思い出していた。

 理香は二十七歳。二十歳で京都女学院短大を卒業して、南座の案内係として就職して七年目だった。

 平成三年、南座は約一年半の改装工事を終えて新装オープンした。

 改装前は、案内所は、「萬(よろず)承(うけたまわ)り所」の看板が出てて、そう呼ばれていた。

 今でも時折、ご年配のお客様から、

「よろずどこですか」

 と聞かれる。

 理香を除く全ての案内係が、この「よろず」の意味がわからない。

 歳月の経過は、案内係の顔ぶれと、理解出来る言葉をも変えて行く。


 二十年前のあの時、理香が文庫本を拾った。

 持ち主は、すぐに現れた。

 坂下浩司、当時三十五歳。顔見世を一人で見に来て、文庫本を忘れた。

 幕間、取りに来た。

「どうも有難う」

 受け取りをして終わる。ここまでならよくある話だ。

 数日後、理香は休みの日を利用して、晴明神社を一人で訪れていた。

 理香の趣味は、寺社を訪れる事だった。

 平安時代の陰陽師で有名な、安倍晴明を祀る神社である。

 堀川通沿いにある。

 今では、近くには、「西陣織会館」があり、館内では、着物ショーが無料で開催されているので、大勢の訪日観光客、とりわけ、中国人観光客に人気のスポットだった。

 着物ショーが始まると、色艶やかな着物女性をカメラ、ビデオに収めようとステージの前に殺到していた。

 そのうちの何人かが、ついでに、晴明神社を訪れていた。

 二十年前は、そんな観光客もいなく、まだひっそりと、「静」の衣をまとい、佇んでいた。

 日頃、人が大勢集まる「動」の象徴でもある劇場で働いているので、休みの日ぐらいは、正反対の「静」の寺社に行っていた。

 寺社でも、清水寺や金閣寺などの、メジャーな所は観光客が多いので、意識的に避けていた。

 たまたま、その日選んだのが、晴明神社だった。と云えば、嘘になる。

 実はあの日、坂下が落とした文庫本の題名が「京都の晴明神社」だったからだ。

 文庫本には、大垣書店のカバーがしてあった。何気なく表紙をめくってみた。

 理香は、部類の読書好きで、他人がどんな本を読んでいるのかが興味があった。

 中身までは読まなかった。

 境内にある、樹齢三百年とも云われる御神木の「楠」の太い幹に理香は手を当てて、大自然の鼓動をこころの中で感じていた。

 手のひらを通じて、その波動が伝わる。

 日頃のストレスが、すーっと引いていくのが分かる。

 どんな神社を訪れても、理香は御神木に手を当てて命の鼓動を感じ取っていた。

「神様、有難うございます」

 何度もこころの中でつぶやく。

 傍から見ると、目をつぶり一心不乱に口元でつぶやく姿は、他の者を排除、寄せ付けないオーラがあった。

 しかし、そのオーラの殻をぶち破って中にその声が飛び込んで来た。

「あのう、南座の案内さんですよね」

 背後からその声は、少し遠慮気味に理香の耳に、ゆっくりと軟着陸した。

「えっ」

 慌てて、現実世界に戻った理香は振り返る。

 坂下の笑顔が飛び込んで来た。

 結果的には、陰陽師の安倍晴明のお導きで、二人は再会した。

「この前、南座で、文庫本落とした者です」

 坂下は、片手に南座で落とした文庫本を理香の前に差し出した。

「ああ、あの時の」

 理香は真っすぐに坂下を見て答えた。

「清明神社へは、よく来られるんですか」

 坂下が聞いた。

「ええ、何度か」

 坂下の誘いで、近くの喫茶店に入った。

 二人はとりとめのない話をした。

「そうですか、若いのに神社仏閣巡りが趣味なんて、珍しいですね。実は僕もそうです。趣味が一緒ですね」

 これが始まりだった。

 ちょっとした出会いの縁は、安倍晴明の気まぐれなんだろうか。

 その後、確か一条戻橋へ行ったはずだ。

 何故わざわざそこへ行ったのだろうか。今となっては思い出せない。

「ここは、お嫁に行くとき、渡ったら駄目ですよ」

「どうしてですか」

「その名の通り、離婚して実家に戻る云い伝えがありますからね」

「そうなんですか」

 付き合いは二年程続いた。そして自然と別れた。

 理香は交際に対して、積極的に行くほうではない。どちらかと云うと待つタイプだ。

 坂下から連絡が来なくなった。

 でもこちらから連絡はしない。

 双子の妹の香奈からは、

「お姉ちゃん、もっとガンガンいかんと」

 と尻を叩かれたが、結局しなかった。

 何故連絡がなくなったかわからないままだった。

 妹の香奈は、理香とは正反対の性格だった。

 理香は四七歳になったが、未だに独身だ。

 一方香奈は、二回結婚して二回とも別れている。子供はいない。

 一回目は日本料理の板前で、香奈が二三歳で結婚。しかし二年で離婚。相手の浮気が原因だった。

 二回目は三十歳の時。相手は公務員。しかし五年で離婚。

 離婚原因は、真面目過ぎるからと、わけのわからない理由を付けて実家に戻って来た。

 実家は、京阪電車「墨染」である。

「お姉ちゃん、結婚してないからその分、二回結婚したの」

 平然と香奈が云った。

 香奈と二人で清明神社を訪れた時があった。

 坂下と別れて、香奈が二回目の結婚をする直前だった。

「香奈ちゃん、一条戻り橋渡ったらあかんよ」

「離婚するって言い伝え。京都都市伝説」

「何云うてるの。千年以上前からの言い伝え」

「ハイハイ、わかりました」

 渡らなかったけど、香奈は二回目とも離婚して実家に戻った。

 もしあの時、香奈の云う通り、ガンガン押していたら坂下と結婚出来たのだろうかと、ふと思う。

 人生は、「ああすればよかった」と「何であんな事したんやろう」の繰り返しとはよく云ったものである。


 南座での仕事を終えて、帰宅すると香奈が、

「お姉ちゃん、話があるの」

 と話しかけた。

「何?」

「私、三度目の正直です」

「何それ、どう云う事」

「お姉ちゃん、相変わらず勘が鈍いなあ」

 くすっと笑いながら香奈が云った。

「何よそれ、失礼な話やこと」

「ごめん、怒らんといて」

「で、何やの」

「しやから、三度目の正直やと云うてるでしょう」

「あんた、まさかまた結婚かあ」

「はい、正解です!」

「もうやめて、やめてよ。二回も失敗してまた結婚するてどう云う神経してるの」

 理香には珍しく、取り乱して絶叫した。

 その叫び声を聞きつけて、母親の有子がやって来た。

「何、大きな声出して」

「お母ちゃん、聞いて、この子、また結婚するて」

「お姉ちゃん、三回目やから、(また)じゃなくて(またまた)です」

「そんな事、どうでもよろし」

 きっとなって理香は香奈を睨み付けた。

「知ってます。何を大騒ぎどすか」

「お母ちゃん、その結婚許すの」

「許すも許さんも、うちが反対しても香奈は、出て行くええ」

「もう知らん」

 理香はリビングから、和室の居間へ行く。

 そこには、亡き父の仏壇があった。神妙に手を合わせる。

 いつも何か嫌な事があったり、こころがざわつく時、必ずこうして手を合わせる。父は、十年ほど前に、肺がんでなくなった。亡くなる時、

「理香の花嫁姿、見たかったなあ」

 と盛んに云っていた。

 父としても、理香の行く末が心配だったのだろう。

 手を合わせて、ぶつぶつ云って振り返ると、香奈も母親の有子も神妙に手を合わせていた。

「ああ、びっくりした」

「そないびっくりせんでもよろしい」

 有子が笑った。

「どないしたん、香奈」

「三度目ともなると、ここは神さんも大事やけど、お父さんに頑張って貰おうと思うてね」

「天国へ行ったお父さんにどう頑張って貰うの」

「別れんように、今度はお父さんの力で頑張って貰おうと」

「それはお門違いです」

 きっぱりと理香は云い切った。

「お門違い?」

「頑張る、別れない心掛けは、お父さんやのうて、あんた、香奈次第でしょう」

「そらあ、まあそうやけど」

 ここで香奈は言葉を濁した。

「で、香奈、三度目はどんな人なん」

「来週、お姉ちゃんの休みの日に連れて来る。どうせお姉ちゃん、男がいてひんし、暇やろう」

「まあ失礼な!」

「そしたら、男とデートか。それやったら日にち変えよか」

「変えんでもよろし」

「やっぱり、いてひんのやろう」

「はい、男はいてません!」

 部屋に響き渡る大きな声で理香は叫んだ。後ろで有子は小さく笑った。


 理香の休みの日に、香奈の三回目の結婚相手がやって来た。

 玄関で対面。

「お姉ちゃん、この人」

「あっ、坂下さん!」

 思わず理香は叫んだ。

「香奈、これどういう事!」

 応接間で三人と有子を入れて四人で会う。

 二十年前、理香が坂下と付き合っていた時、一度も坂下を家に呼んでいない。

 だから妹の存在は知っていても、顔を会わしていない。

 二十年の歳月を経て、坂下は自分の目の前に現れた。

 今度は妹の婚約者として。

 手短に坂下は、過去の理香との交際を話した。

 そばで聞いていた理香は、気恥ずかしくもあり、懐かしくもあり、奇妙な心模様が交差した。

 坂下の匂いと声、顔、喋りを見て、聞いているうちに二十年のぽっかりと大きい穴が空いたような歳月の空洞が、急速に埋まる感じもした。

「いやあ、こんなドラマみたいな事、現実に起こるんやねえ」

 どこか呑気に構える母親の有子だった。

「坂下さん、説明して」

「だから、今説明しましたけど」

「いいえ、まだ説明の続きあるでしょう。どうして妹の香奈と付き合い出したんですか。その切っ掛けは何だったんですか。坂下さんと香奈との接点はなかったはずです」

「それやったら、うちから説明する」

 香奈が説明し始めた。

 一か月前、家に坂下から電話があった。電話に出たのが香奈だった。

 坂下は、その時二十年前理香と付き合っていた事を話して、理香に会いたいと云った。

 香奈は、理香に話す前に、坂下と会おうと思った。

「ちょっと待って。何であんたが会うのよ」

「まあお姉ちゃん続き聞いて」

 香奈は坂下と一目会って、気に入った。その場で、

「お姉ちゃんには、彼氏がいます。もしよかったら、うちと付き合って下さいと云うたんよ」

「もう何でそんな嘘ついたん!」

 理香は完全に怒っていた。香奈のした事が許せなかった。

「最初は、僕も断ったんだよ」

「そんなん、当たり前やわあ」

 顔を真っ赤にして理香は抗議した。

「姉妹どんぶりやねえ」

 有子がにやついて云った。

「どんぶり?坂下さんどんぶり、好きなん?」

「はあ、どんぶりは好きですけど」

 少し困惑気味の坂下だった。

「でも結局は、香奈と付き合い出したんでしょう」

「はあまあ、結果的にはそうなりました」

「坂下さん、最低!見損なった!」

 理香はばんとテーブルを叩いて、語気を強めて云った。

「うちの婚約者にそんな失礼な事云わんといて」

 負けじと香奈もテーブルを二回叩いて応戦した。

「お母ちゃん、何とか云うてえ」

 理香は有子に助けを求めた。

「戦後、婚約者が戦死して、その弟はんと結婚した話ありましたなあ。その(女版)どすか」

「お母ちゃん、それいつの話なん」

 さらに語気を強め、眉毛を逆立てる理香だった。

 いつもは、温和な理香がここまで、怒髪天の形相をさらけ出すのは、珍しい事である。

「ほんの七十年程前の話どすがな」

「七十年!古すぎるでしょう」

「何云うてるんや、理香。京の街は千年の都どす。七十年なんて、ほんの昨日の話どすがな」

「それに、私、戦死してないし。ケース、全然違います」

 理香の抗議は続いた。

 京都人の歳月の捉え方は、東京、大阪と根本的に違う。

 京都では、昨日の戦争は、幕末の蛤御門の変であり、この前の戦は、応仁の乱なのである。

 店舗でも江戸時代創業四百年は、新参者として扱われるのである。

 京都で、「老舗」の看板を掲げるのであれば、江戸時代前の創業でないといけない。

 もし江戸時代創業の店も「老舗」と名乗らせると、京都は老舗だらけになり、老舗の価値がなくなるからである。

 市井(しせい)にある、八百屋、文具屋が創業三百年とか三百五十年とかのケースがざらである。

「で、話を元に戻します」

 ここで理香は姿勢を正す。

「坂下さんは、香奈と結婚したいんですか」

「はい、そのつもりです」

「私は反対です」

「何でなん」

「当たり前でしょう、姉とつきあってた男が、それが駄目になって、次はその妹に手を出すなんて、男として、最低、クズです」

「あのう、ちょっといいですか」

 坂下が国会の証人喚問のように、右手を低く上げた。

「坂下君」

 有子がおどけて云った。すぐに理香の鋭い視線が突き刺さる。

「僕は理香さんとの付き合いの中で、一度も付き合いをやめるとも、やめますとも云ってませんけど」

「はあ?」

 全く意表を突く坂下の言葉に、理香の思考回路が停止した。

「えっそうやったん」

 言葉と態度が尻すぼみになる理香だった。

「お姉ちゃん、坂下さんに未練があるん」

 香奈が下から、笑みを顔に幾つも作り見上げる。

「そ、そんなわけないでしょう、二十年も前の話」

「それ聞いてほっとしたわあ」

「とにかく駄目です」

「参考意見として聞いときます」

「坂下さん」

 今度は有子が優しく言葉を投げかけた。

「はい何でしょうか」

「姉妹どんぶりは、お味は一緒どしたか」

「いや、まだ食べ比べまでいってません」

「そうどしたか」

 この二人の会話のやり取りが解らず、すぐに理香も香奈もスマホで検索していた。

 姉妹どんぶりとは、男が姉、妹両方で肉体関係を持つ事であると知った。

 理香は、顔から火が出た。

 母親が、初対面でストレートに聞いた事にショックを理香は覚えた。

「やらしい」

 まず理香が大きな声を上げる。

 続いて香奈は、大きな笑い声を上げた。

「親子丼ぶりもあるんやてえ、坂下さんやってみる?」

 香奈が有子を見ながら微笑んだ。

 親子丼とは、男が母親とその娘、二人と肉体関係を結ぶ事である。

「これ、親をからかうのは、やめよし」

 と有子は云いながらも、坂下に色目を使った。

「もう皆、やめてえ」

 さらに絶叫する理香だった。

 こうして理香と坂下は奇妙な縁で二十年ぶりに再会した。

 帰り際、坂下は、

「二十年経っても、理香さんは全然変わりませんねえ」

 と云った。

「お姉ちゃん、二十年髪型変わらんし、うちらはサイボーグと呼んでます」

「うちらとは、他には」

「はーい」

 にこやかに、有子が手を上げた。

 坂下が帰った。

 すぐに理香は、有子に云った。

「母親として、どうするつもりなんですか」

「そらあ、香奈と同じ心境やわあ」

「同じ心境?」

「三度目の正直、今度こそうまい事行っていって欲しい」

「呆れた。あなた達恥ずかしくないの」

「別に」

「ああ、わかった!やっぱりお姉ちゃん今でも坂下さんの事、好きなんや」

「ああそう云う事、何やもっと早よ云いよし」

 香奈と有子が勝手に決めつけた。

「誰があんな破廉恥な男を好きになるもんですか」

 胸を張って理香は答えた。


      ( 2 )


 二七年前、理香も香奈も二十歳の時、二人は今より数倍そっくりだった。

 唯一髪型が違っていた。

 理香は今と同じ、セミロングの巻き毛、香奈はショートヘアである。

 顔立ちは、そっくりそのまま、体形も身長も体重も声も全く同じだった。

 作りが同じなのを利用して、ちょっとした二人でいたずらをした事がある。

 いわゆる、入れ替わりである。

 当時理香は、京都女学院大学、香奈は同志社大学に通っていた。

 どちらの大学も、地下鉄丸太町、今出川から、歩いて数分の距離にあった。

 お互いそれぞれの大学を入れ替えて行った。

 髪型が違っていたので、それぞれの友達に、その指摘を受けたが、入れ替わってるなんて誰も気づかなかった。

 またある時は、急病で香奈が試験を受けられなくなった。

「お姉ちゃん、代わりに出席して」

「でも私、全然わからないよ」

「出席して、答案用紙に名前書いたら、その授業通るから」

 香奈に云われて、学生証を預かり代わりに出席した。この時も誰も気づかなかった。

 理香が坂下と付き合いだした時だった。今度は理香がデート前日に熱を出した。

 理香はデートを断るつもりだった。それを察知した香奈は、

「お姉ちゃん、代わりに出てもいいよ」

 と云ってきた。

 もちろん、自分とそっくりの双子の妹がいるなんて、一言も云ってなかった。

 あの頃、香奈は一回目の結婚に失敗して、まだ二回目をしてなかった。

 いわゆる空き家状態だった。この入れ替わりもうまくいったと思った。

 帰宅してから、香奈に聞いた。

「どうやった」

「髪型聞かれた。今後のために云うとくね。これはウイッグ、かつらとごまかしておいたから」

「それから」

 それからデート先についてもうまくやったと香奈は云った。

 ひょっとしたら、香奈はあの頃から坂下に興味があったのだろうか。

 いや違う。それから数年後香奈は二回目の結婚をしたのだから。

 何で急に坂下が現れたのか。根本的な事を聞いていない。

 今から考えたら、段々と疎遠になったのは、あの香奈の代打デートからだ。

(本当は、何があったのか)

 段々と香奈も坂下も疑わしくなった。

(これは追及すべきだ)との結論に至った。

 香奈と坂下がデートすると聞き、理香も参加する事にした。

「別に来てもええけど、何で急にお姉ちゃん来るの」

「姉として、大事な妹が粗悪に扱われないか、見守る必要があります」

「わかりました。じゃあおいでよ」

「どこでデートするの」

「どこでしょう」

 香奈は笑った。

 三人デートは、南座からほど近い、祇園建仁寺の塔頭寺院、両足院(りょうそくいん)で行われた。

 ここは毎年五月中旬から六月下旬にかけて、半夏生(はんげしょう)と云われる、葉っぱが白くなる植物が見頃を迎える。

 理香らが行った六月下旬は、丁度最盛期を迎えていた。

 建仁寺は、行った事があったが、この両足院は初めてだった。

「坂下さんは、今でも京大で教えてはるんですか」

 理香が聞いた。確か二十年前は、京大で講師をしていたはずだ。

「いえ、今はあなたの母校、京都女学院大学で、京都学の教授として働いています」

「坂下さん出世しはったんよ、京都学の権威。お姉ちゃん、逃した魚は大きかったと云うわけやね」

 香奈が二人の会話に入って来た。

「うるさい!」

 そんな姉妹喧嘩を、優しく見つめる坂下だった。

 三人は拝観料とは別料金(一人五百円)を払ってお茶席に向かう。

 庭の真ん中に、瓢箪型の心字池(しんじいけ)があり、池の畔には、半夏生が白く咲いていた。お茶席の部屋から眺めると、白い葉が、花のように見えた。

 茶室は二方向が、全て戸が取り払われて、見渡せる。

 春の心地よい風が、茶室を隈なく散歩して通り過ぎて行く。

 途中、参会者の髪の毛、頬を撫でていた。

「ようこそおいで下さいました。ここの茶室は「水月亭」と云いまして、名古屋の犬山城の近くの、織田有楽斎の国宝の茶室、「如庵」の写しです」

 女亭主が説明してくれた。

 ここが、祇園の繁華街の真ん中にあるとは信じられないくらい、静寂さと静謐さの二つの趣きが醸し出していた。

 ここをデートに選んだのは、坂下だった。

「僕は毎年ここへ半夏生を見に来ます」

「まあ毎年連れて来る女性が違っていたりして」

 香奈がストレートに云った。

「とんでもない。一人ですよ」

「お兄さん、綺麗な女性二人に囲まれてよろしおすなあ」

 女亭主が、菓子とおうすを置いて、香奈と理香を交互に見ながら云った。

「双子はんどすか」

「はい」

 理香と香奈が同時に答えた。

「さすがは双子はん。息もぴったり。それにまあ、声もよう似ておいやす事」

 女亭主は、もう一度理香と香奈の顔を交互に見比べながら云った。

「何や自分が、もし双子の立場やったら四六時中目の前に鏡があって写し出されるみたいで、気ぃ落ち着きまへんなあ。そないな事ないですか」

 理香は、香奈を見ながら

「生まれてからずっとこないな環境やから、慣れました」

「そんなもんですかあ。お兄さん、どっちが彼女どすか」

「いやその」

「はい私です」

 香奈が勢いよく手を上げた。

「ほんに瓜二つ。これぐらい似てたら間違いますなあ」

「はあ、まあ」

 坂下がはにかむように、答えた。

「入れ替わっても、わからしまへんなあ」

 女亭主の「入れ替わり」の言葉に、敏感に反応したのは理香だけではなかった。

 三人はそれぞれの顔を見つめ直した。

 妙な空気を察知した、女亭主は、

「えらい、変な事云うてごめんやっしゃ」

 一礼して、立ち上がり去った。

「坂下さん、さっき女亭主が説明してはったけど、茶室如庵の写して何ですか」

 香奈が聞いた。

「写しとは、本家の茶室、本物そっくりにそのまま真似て、茶室を作る事なんだ。ただ真似るだけじゃなくて、そこには、本家の茶室に対して尊敬の念がないと駄目なんです」

「写し・・・。私とお姉ちゃん、どっちが本家で、写しなんやろう」

 香奈が理香の顔をじっくりと見ながらつぶやいた。

「そんなもん迷う事あらしまへん。そりゃあ、姉の私が本家で、あんたは写し」

 凛とした態度で、理香は姿勢を正して云った。

「写して、何やコピーみたいでいややわあ」

 今度は香奈は、坂下の方に視線を移した。

「そんな事ないです。香奈さんも理香さんも二人とも本家です」

 坂下が喧嘩両成敗の形を取った発言をした。それが、理香にとって気に入らない事だった。

 お茶席の後、三人で池の周りを歩く。

 遠目に見て、白い花が咲き乱れていると思ったが、近づくと白いのは、細長い葉っぱの表の部分であった。

「この半夏生は、夏至の時分だけ白くなるんだよ」

「へえ、そうなんや」

「変わってるねえ」

「半化粧、つまり半分化粧とも呼ばれていてね」

「この白い葉っぱは、白いままですか」

 理香が聞いた。

「それが不思議でねえ。しばらくすると、また緑色に戻るそうだ。緑から白へ。そしてまた緑に戻る。自然とは不思議なものだ」

「ほんまにねえ」

「香奈さんはどう思う」

「ユニークな花、いや葉っぱやと思います」

 理香は屈んで、白い部分を手で持ち上げた。裏を見ると、確かに緑色だった。

「片側だけ白いんや、ほんまやあ」

 子供のように、理香ははしゃいだ。

 三人は本堂に行った。香奈がトイレに行った。

「理香さん、今度は二人だけで会ってくれますか」

 と云って坂下は名刺をくれた。

「電話か、メール下さい」

「こんな事、妹に見つかったら怒られます」

「構やしないよ。あなたにどうしても話したい事があるんです」

「どんな事ですか」

「そうだなあ」

 坂下は、本堂の縁側の目の前に広がる半夏生を見ていた。

「この半夏生にも関係あるなあ」

「いややわあ、謎めいていて。そない云うたら、物凄い気になります」

「それはよかった。じゃあ会ってくれますね」

 理香はこっくりとうなづいた。

「今ちょっと香奈が戻ってこんうちに、さわりだけでも云うて下さい」

「だから云いました。半夏生にも関係あるて」

「わからへん」

 香奈が戻って来た。

「坂下さん、また姉を口説いていたでしょう」

 勘の鋭い香奈が云った。

「ばれたか」

「もう浮気はあかんええ」

 三人は笑った。


      ( 3 )


 南座の案内係の公休シフトは、公演が始まり数日後、交代で休む事になっている。前もって希望公休があれば、受け付ける。

 理香は今まで一度も希望公休は云った事はなかった。

「チーフが希望公休を云うなんて、珍しいなあ」

 理香の休みの日に、チーフの役目をする、案内の中書島美智子が云った。

「ちょっと用事が出来たの」

「チーフ、用事が出来たんじゃなくて、彼氏が出来たんでしょう」

 さらっと美智子が云いのけた。

「ううん、そんなんじゃないの」

 ぽおっと頬を赤く染めてしまう理香だった。

「非常に分かりやすい、反応やわあ。しやからチーフ好き」

 美智子は、理香の希望公休の欄の用紙にボールペンで、赤丸のハートマークを囲んだ。

 ハートマークが切っ掛けで、その日のうちに、「チーフ、彼氏とデート日」が案内係の間に広まった。

「チーフおめでとう」

「おめでとう」

 案内係、数名から云われる。

「えっ、どうしたの」

「しやかて、チーフ婚約したんでしょう」

「結婚式はいつですか」

 噂話は、羽を幾つも持ち、大きく広げて羽ばたいていた。

「えらい勢いで広まっているんやねえ」

 すぐに否定しないところが、理香の性格を表していた。

「お相手は誰ですか」

「南座の人ですか」

「どんなきっかけですか」

「何年おつきあいしたんですか」

 ワイドショーレポーター顔負けの矢継ぎ早に質問が飛ぶ。それらを聞き届けてから、やんわりと、

「違うのよ、私やのうて、妹の方」

「えっ妹さん、また結婚するんですか」

 過去二回結婚に失敗しているのを知っている美智子は、思わず口を滑らせた。

「あっ、すみません」

「ええのよ」

「どんな人なんですか」

「それを見ようと思うて」

 すでに会った事を云うと、また色々な質問が飛ぶ。

 まして、過去自分と付き合っていたなんて云えば、たちまちハチの巣を突く結果になるのは、わかっていたので、それを避けるために嘘をついた。

 さらにそもそもの切っ掛けが、南座の観劇に来たお客さんなんて、とても口が裂けても云えない。

「ついでに、その人に紹介してもらったらいいのに」

 久し振りに聞く、自分自身に向けられた「恋バナ」だった。

 理香も今年四七歳。世間一般なら、大学生、社会人の息子、娘がいてもおかしくない年齢でもある。四捨五入すれば、五〇歳である。

 恋バナよりも、老後の話が前に出る年齢でもある。

 結婚式披露宴に呼ばれるよりも、葬式に出る回数の方が多くなる世代でもある。

 そんな、「老後」「年金」「病気」「老い」のあまり嬉しくない事が、目の前、足元、身の回りにまとわりつく中での、「恋バナ」は、一服の清涼剤とも云えた。

「そうやねえ」

 これもやんわりと云うだけで否定もしないし、肯定もしない。

 京都人は、ストレートに否定はしない。

 例えば、男が、お茶屋で舞妓をデートに誘う。

「うわあ、おもしろそう。へえ、おおきに」と云う。

 男はデートを承諾したと思い込み、勝手に舞い上がってしまう。

 しかし、舞妓は全くその気はない。

「だって、おおきにと云ったではないか」

 と追及するのは、野暮な男のする事である。

「おおきに」

 と云っただけで、行きますとは一言も云ってないのだ。

 京都は難しい所だ。

 香奈は、時々アルバイトをしていた。

 たまたま、理香が出かける時、先に家を出ていたのでほっとした。

「お母ちゃん、ちょっと出かけて来る」

 と理香が云っただけなのに、有子は、

「あまり、出しゃばった事したらあかんええ」

 やんわりと釘をさした。全てお見通しだった。

 あれから数日後、坂下から二人だけで会いたいとメールが届いた。

 両足院での話は、本物だった。

 ただの立ち話、冗談であれば、こうしてわざわざメールして来ないはずだ。

「二人だけで会う理由は何ですか」

 と理香は返信した。

「僕自身の中での決着をつけたいと思います」

「決着て何ですか」

 しつこく食い下がった。

「お会いした時に、お話しします」

 地下鉄烏丸線、今出川の駅の改札口で待ち合わせた。

 理香が姿を見せると、坂下が手を振った。

「理香さんですよね」

 坂下は確認するように、理香を見つめた。

「はい、ご心配なく。今日は入れ替わっておりませんから」

 二人は笑った。

「今日は何処へ行くんですか」

「京都御所です」

 地上に上がり、烏丸通を下がる。乾御門から中に入る。

 御所の清所門の入り口で簡単な荷物チェックを受けた。鞄を開けて、一目見て、

「はいどうぞ」

 と云われた。

 平日の昼間であるため、人影はまばらである。

 京都御所は、文化庁が京都移転に決まり、その波及効果として通年公開が決まった。予約なしで入れる。

 それまでは、春と秋、それぞれ一週間だけの限定公開だった。

 御所の奥、北側には、臨時の観光バス駐車場が作られ、数十台の観光バスが止まっていた。

 清所門、宜秋門前には、臨時の店が作られた。京都の和菓子の店が軒を連ねる。

 土日祝日ともなれば、荷物チェックにたどり着くまで、長蛇の列で一時間待ちはさらだった。

 隣接する「京都迎賓館」も通年公開にあり、予約すれば、中に入れた。

 それまでは、一年に一度、春公開だけで、しかも抽選で当選しないと入れなかった。その競争率は、百倍近かった。

「空いてますねえ」

 坂下がつぶやいた。

「理香さんは、御所へは」

「ええ、何度か来てます」

 あの大混雑ぶりを経験している二人にとって、拍子抜けするほど閑散していた。

 目の前に、外国人観光客が数人いるだけだった。

 あの清涼殿の前では、写真を撮る人が殺到していたのに、ここも人影はまばらだった。

「何や人が少なすぎても、拍子抜けで面白くないですね」

「はい」

 坂下は、中々本題に入ろうとしなかった。

 京都御所を出て、再び今出川方面へ歩く。

「今度は何処へ行くんですか」

「同志社大学です」

「何かあるんですか」

「今は、丁度昼休みです。教会が開いていると思います」

 腕時計に視線を走らせてから坂下が云った。理香は黙って後ろをついて行く。

 同志社大学今出川キャンパスは、五つの重要文化財に指定された校舎がある。

 烏丸通りの西門から、順番に彰栄館、同志社礼拝堂(チャペル)、ハリス理化学館、クラーク記念館、そして今出川通り、冷泉家の隣りにある有終館である。

 また隣りにある、同志社女子大学にあるアーモスト館とヴォーリズ設計の啓明館は、南座と同じく登録有形文化財である。

 日本には、沢山の大学があるが、一つのキャンパスに五つもの重要文化財の校舎があるのは、同志社大学だけである。

 昔は、付属中学が隣接にあったが、移転して、その分、大学用地が増えた。

 良心館、寧静館、博遠館の三つの校舎が広がっていた。

 随分と様変わりしていた。

 香奈が通っていたので、入れ替わり、学園祭などで、数回訪れた事があった。

 礼拝堂(チャペル)の中に入る。両側の窓のステンドグラスが昔も今も美しい。

「二十年前、僕らが付き合っていた時、一度だけあなた以外の女性とデートしました」

 教会の中に入ると、おもむろに坂下は話し出した。

「私以外って」

「もちろん、それは後でわかった事です。その時は、あなた自身と疑う余地もありません」

 理香はすぐにピンと来た。

 一度だけ、香奈にデートのピンチヒッターを頼んだ事があった。

「当時、あなたに妹さんがいる事は知ってましたが、双子とは知らされていなかった」

 確かにそうだ。坂下には双子の存在は云わなかったはずだ。

 どうして云わなかったのか。今となっては謎である。

「ええ、わかります」

 理香の声は、掠れ震えていた。

「あの時、僕は香奈さんとは思わなかった。あなたの代わりにやって来た香奈さんも最後まであなたを演じ続けた」

「はい」

 二人は前の日に打ち合わせをした。

 坂下の好物、好きな食べ物、好きな言葉、匂い、略歴、つきあいの切っ掛け、今までのデートの行き先、喋った事などを教えた。

 しかし、それが本当の怖さを生む。

「あの時、香奈さんは、私に抱いて欲しいと云ったんです」

 喉の奥から、血しぶきの悔恨の吐しゃ物の言葉を、坂下は絞り出した。

 理香のこころに芽生えたのは、

「何であんなことを、香奈に頼んだのだろうか」

 と云う悔やみきれない、こころの凝り固まったどす黒い、汚れた見るのもはばかれる、一生悔やむ事を背負ったものだった。

 今、坂下の言葉を耳にした瞬間、倒れそうになる自分に𠮟咤激励して、辛うじて礼拝堂に立っていた。

 坂下が、この礼拝堂で懺悔の形で告白していたが、自分の方が陳謝、深淵の池に飛び込まなければと立ち尽くしていたのだ。

 ここで坂下は立ち止った。祭壇の前だ。坂下は、祭壇に両手をついて頭を下げ、うつむいて話を続けた。

「色々迷った結果、抱いた。でも僕はこの時も理香さんだと固く思ったんだ。それは信じて欲しい」

「はい」

 理香はぐっと喉の奥からこみ上げるものを耐えた。

(悪いのは、坂下さんじゃなく、全て自分なのだ)

 自分の浅はかな行為で、坂下をある意味、悔恨の池へと追い込んでしまった。

 二十年もの歳月を経て、初めて知る自分に改めて、愚かで、こんな蹉跌で坂下を追い込んだ自分、そして香奈に憎悪の念がいきなり、こころの中にすくっと巨大化した。

 一方、もう一つのこころは、それを封じようと踏ん張っている。

 香奈は、この事を一切云わなかった。

「でも最後にわかったんだ。抱いた人があなたでないと」

「どうしてわかったんですか」

「これです」

 ポケットから一冊の文庫本を取り出した。

「僕とあなたとの付き合いを始める切っ掛けともなった記念すべき文庫本です」

 その文庫本は、夏目漱石「坊ちゃん」だった。

「ベッドの中で、僕はこう聞いたんだ。本の中で誰が一番好きかって聞いたんだ。すると理香さんになりすました香奈さんは、一瞬黙ってそれから苦し紛れに、全部好きと答えたんだ」

 デート前日のレクチャーで、文庫本の名前は教えたけど、好きな登場人物までは言及していない。

 香奈は一冊も本を読まない。一方理香は大の本好きである。

「そうでしたか」

 理香の額からうっすらと汗が滲み出し、動悸が収まらない。

 心臓の鼓動の太鼓は、どんどん叩く回数が増えて、その間合いを縮めていた。

 このまま倒れるかもしれない。

 いや、倒れて死んでもいいと理香は、こころの奥底にどんどん広がる沈殿物を手ですくい、全身に塗りたくっていた。

 汚れた身体、こころに坂下の悔恨の情の叫び声が突き刺さり、さらにその泥は、厚みを増していた。

「それで僕は確信したんだ。今、目の前にいるのは理香じゃない。でもその場で僕はそれが云えなかった。もし云うと、それは理香さんを否定する気がしたんだ。怖かった。意気地なしだったんだ」

 坂下は嗚咽した。

 それに呼応するかのように、理香の目にも懺悔の涙が、勢いよく増した。

(何故気づかなかった。何故坂下に謝らなかった。何故、何故、何故)

 理香は悔いた。二十年の歳月を。

 そして二十年もの間、とんと気づかなかった馬鹿な自分を。

 次に芽生えたのは、二十年もの間、自分をだまし続けた香奈への憎しみだった。

 憎悪の芽生えの海面から、潮吹いて、遥かな高さにそそり立つ、憎悪の塔へと進化するのは、瞬く間であった。

 これが他人なら、殺意へとさらに変化を遂げていたはずだ。

 辛うじて、その行為を押し留めたのは、香奈が血を分けた妹だったからだ。

 しかし、妹でも許せない。

 でも全ての原因を作ったのは、自分なのだ。

 理香は、逡巡の池の周りを何度も、逍遥していた。

 理香は、坂下を長椅子に座らせた。

「私が悪い。入れ替わりなんてしなければよかった。妹を責めないで下さい」

「きみは妹さんを責めないのか」

 坂下は意外な理香の言葉に、判断を迷っていた。

「すべて私の責任です。妹も坂下さんも悪くないです」

「香奈さんは、この前皆で見に行った、両足院の半夏生だったんだ」

「半夏生?」

「そう半夏生。白だと思っていたが、実は緑の葉っぱだった」

「あっ半夏生」

 理香はあの時を思い出していた。

 白いのは、花ではなくて、白色に染まった葉っぱだった。

 白く花に見せかけていたのが、香奈。裏の色の変わらない緑色の葉っぱは理香だった。

 何故あそこへ理香と香奈を連れて行ったのか。やっとわかった。

 香奈の「理香」への変身。それに騙された坂下。

 しかし、その白さは、一時的でまた緑に戻った。

「白」の香奈は再び双子として、理香と同じ「緑」に戻ったのだ。

「あれ以来、僕は段々きみと遠ざかって行った。きみと会うのが怖くてね。その事実確認が怖かったんだ」

「よくわかりました」

「これが二十年めの決着なんだよ」

「確かめるのに、二十年もかかるやなんて、なんぼ京都が千二百年の歴史があるから時間の流れが、悠長や云うてもかかりすぎです」

「本当にすまない」

「けど一番悪いのは、坂下さんやないです。二十年もの間、苦しみ続けさせてごめんなさい」

 理香は、そっと坂下の手を取り自分の手を上から押しつけた。

「ほんまに、ごめんなさい」

「いえ、そんな・・・」

 坂下は、言葉に詰まった。

「でもそれはそれとして、今度は何で香奈と婚約なんですか」

「あれっ聞いてなかったの」

「何をですか」

 理香は尋ねた。

 さらに話を聞き、すぐに理香は坂下を連れて、同志社大学前からタクシーに乗った。

「安井の金毘羅さんまで」

 車中からスマホで、香奈に連絡した。すぐに今から安井の金毘羅さんまで来るようにと。

「どうしたん、お姉ちゃん急に」

「何でもええから来て」

 いつも温和な理香が珍しく怒気を含んだ声で云ったので、

「うん、わかった」

 それ以上香奈は追及せずに、率直に返事した。

 南座から歩いて数分の所にある、安井の金毘羅さんは、別名、縁切寺とも呼ばれていた。境内に表面を白い形代(かたしろ)と呼ばれる、小さな紙で覆われた小山が鎮座する。

 その真ん中に、一人の人間がやっと通れる小さなトンネルがある。

 社務所で、形代に「断ち切りたい縁」と「良縁」を書く。それを持ってトンネルを往復するのである。

 行きは悪い縁を断ち切るのを祈願して、帰りは良い縁を願って通るのである。

 二人が行くとすでに香奈が待ち構えていた。

 理香は香奈に近づき、一発平手打ちをかました。ぱんと乾いた音が響いた。

 境内にいた数人の観光客が一斉に振り向いた。

「それで気が済んだ」

 負けじと香奈は理香を睨んだ。

「しょうもない小芝居二人でして」

「こうでもせんと、お姉ちゃん、坂下さんに会ってくれないでしょう」

 確かにそうだったかもしれない。

 もし仮に、坂下が再び会いたいと云って来ても、恐らく再び会う事への怖さから何やら理由をつけて、断っていただろう。

 坂下は、そこまで見通して香奈に相談したのだ。

 元々、香奈と坂下との婚約話はなかった話だ。理香のこころを坂下に向ける芝居だった。

 これに、母親の有子も参加した。三人の小芝居だったのだ。

 だから、あんなに鷹揚に構えていたのだ。

 しかし、坂下の二十年めの告白は、香奈も知らされていなかった。

「皆、形代に悪い縁と良い縁を書いて」

 理香が云った。

「悪い縁は、あっても、良い縁は思い浮かべへん」

 思案顔を香奈は理香に向けた。

 理香はすぐに二つとも書けた。坂下もすぐに書いた。

 香奈がまだ書けないでいるので、先に二人はトンネルの往復をやった。

「それで、この形代はここに貼っておくの」

 小山の表面の形代は、風で何枚か揺れていた。

「理香さんは、何の縁を切って、何の良縁を願ったんですか」

 坂下は、素朴な疑問を口にした。

「じゃあ、一、二、の三で見せ合いっこしましょう」

 と理香は、提案した。

「わかりました」

 二人は同時に見せた。

 理香は、悪い縁 二十年前の坂下、香奈 良い縁 今の坂下さん

 坂下は、悪い縁 二十年前の自分    良い縁 今の理香

「結局、ほぼ同じやねえ」

「そうですねえ」

「お姉ちゃん、書けた」

 香奈が走って来た。

「早よ、トンネル往復しといで」

「最近太り気味やから、お尻入るかなあ」

「入らんかったら、後ろからお姉ちゃんと坂下さんがお尻押してあげる」

「坂下さんはええけど、お姉ちゃん怖い」

「何で怖いの」

「後ろから、指浣腸しそうで」

「怨念たまってるからか」

「そう。もう指浣腸、百発しそうで怖い」

「何、てんご云わんと、早よ行きなさい」

 香奈がトンネルの入り口で屈む。

 理香が両手を広げて、お尻を押す。

「や、やめて、ちょっと」

「早よ、進みなさい」

「わ、わかってるって」

「早よ、早よ、ほんまに指浣腸するでえ」

「キャー!やめて!」

 トンネルの中で香奈が絶叫した。その光景を見て、坂下は笑った。

 出て来て、形代を貼ろうとした。

「それで、あんた何書いたん」

「見せなあかんか」

「今日は見せなさい」

「気が進まんけど」

 香奈は渋々、手に握っていた形代を、ゆっくり指を広げて二人に見せた。

 香奈の形代には、

 悪い縁 二十年前の自分

 良い縁 理香お姉ちゃんと坂下さん

 それを見て、理香は不覚にも涙が出た。

「お姉ちゃん、泣いているの」

「泣いてないよ」

「いや泣いてる。それ涙やろう」

「汗よ、こころの汗よ」

「こころの汗」

 そう繰り返す香奈にも、こころの汗が噴き出していた。

「理香さん、香奈さん、渚ゆう子のヒット曲(京都の恋)の歌、知ってますか」

「知りません」

 二人が同時に答えた。

「その歌の歌詞にこんなフレーズありました。(思い出を捨てるの)と。だから、ここで同時に嫌な思い出は捨てましょう」

 坂下は笑顔で宣言した。そして、じっと二人を見守った。

 理香と香奈は、同時に黙って大きく、こっくりとうなづいた。


       ( 終わり )






 


 



 





 

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