見えぬ聞こえぬ

柊 撫子

雨音

 暗い空と冷たい雨粒が町を包む。

まだ夕暮れ前なのに重たい雰囲気で、薄墨の雲は無慈悲にも大粒の雨を落とし続ける。

人々は浮かない顔を傘で隠すように俯いて歩く。

 そんな中、傘も差さずに楽しそうな歌を口遊くちずさみながら歩く男性がいた。

片手に黒い大きなカバンを握り、ヘラヘラと締りの無い笑みを浮かべている。

焦点の合わない目は濁り、雨に身を濡らす事を気にも留めないようだ。

 そして彼が口遊んでいる歌は、一般的な生活を営む人間であれば1節さえ知るはずのないものだ。

その歌には名状し難い存在を讃え、この世に破滅を呼び起こさんとする節がある。

正常な思考ならばこの様な悪魔的な歌を歌おうとも思わないだろう。

しかし、彼の頭の中には”正常”という言葉も意味を無くし、人間として生きているとは思えない程に歪んでいる。この状態ではこれから呼び出すであろう”彼の者”に言葉をかける事すら難しいだろう。

 彼の者の存在を知る者も僅かで、彼の者との交流を心得ている者は更に限られる。この男性はその一握りの存在に成り得る聡明な人間だとは到底思えない。

 なので彼は幸運にも存在を知り、不幸にも名状し難い存在に魅入られた憐れな人間。と、いう事になる。


 そんな憐れな人間が引き起こす事件は、人間が引き起こした所業とは思えないものだった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 「あぁ、これでボクは……しあわせになれる……」

蝋燭の微かな明かりだけが灯った暗い部屋の中で男が呟く。

”男”と言っても、黒っぽいローブを羽織りフードを被っている為か、正しい性別は判断出来ない。ただ、声の低さや話し方から”彼”と呼ぶのに相応しいだろう。

揺らぐ炎に照らされた男の顔は痩せこけており、青白い肌と相対的な黒い髪と髭。身嗜みを整える事もせず、ただ部屋の真ん中へずるずると何かを引きずり、べちゃりと乱雑に何かを置く。

 男が運ぶ何かの数が増える毎に床に不思議な文字が浮かび上がる。

それはアルファベットのようなキリル文字のような。若しくは全く別の言語なのかも知れない。しかし、この文字が意味のある言葉として書かれている事は確かだ。

円の様な形で書かれた言葉たちは、徐々に怪しい光を放つようになり、男が運んでいた何かが見えてきた。

 市販の物にしては少し大きい肉塊。そして何より血の量があまりにも多い。

そしてその肉塊からは小さく白い物が見え、見覚えのある部分が自分の肉体にもあると考えれば、この部屋で行われている惨状の悍ましさが伝わるだろう。

「父さん……母さん……今出してあげるよ」

文字に手をかざしながら呟いた。

その表情は歪んだ笑顔でしかなく、両親を思う時の顔ではなかった。

男はこの世の言語とは思えない言葉を呟き始めた。それに答える様に、文字は光を放ち始める。

そして文字は青でもあり紫でもある様な、不思議な色の光を強め部屋を怪しげに染める。あまりの眩しさに男はフードで顔を塞いだ。

しばらくの間、部屋が光に包まれた。が、程なくして元の暗い部屋へと戻っていった。

先程と違う事と言えば、血生臭さというよりも海特有の磯臭さが漂っている。暗い中でも分かるその存在感。それの二つのぎょろりとした目がすぐ目の前にいるのだ。男はあまりにも現実離れした異形の姿に恐怖した。

「……ぅああああああ!!」

勢い良く異形の者から後ずさった。勢い余って男の後ろにある机に頭を打ち付けそうだった。

あちらからしてみれば、自分から呼び出していながら酷い仕打ちだと思うだろう。しかし、今まで映画やゲームの中でしか見たことが無い空想の存在が、目の前に現れたのだ。言葉が出なくなっても致し方無いのかも知れない。

 言葉を失っている男から少しずつ笑顔が戻ってきた。それから次第に明るい表情に変わっていった。

「と、うさん……?」

恐怖で失いかけた言葉を絞り出し、自分に言い聞かせる様に呟いた。もしかしたら実際に言い聞かせていたのかも知れない。

次第に子供が親を見る表情へと変化した。言うまでも無いが、異形の者はこの男の父親では無い。

「……父さん、父さんだね!やった、成功だ!」

そして完全にその異形の者を父と認識し始めた。人が完全に狂う瞬間とはこういう光景なのだろうか。

”父さん”と呼ばれた異形の者は言葉が通じていないのか、ただ大きな目玉を瞬きさせるだけである。呼び出されたままの状態で棒立ちで、この部屋で動き回っているのは男だけだ。

「待っていてね、父さん。すぐに母さんも呼ぶからね」

異形の背中を押すように文字の上から退け、また同じように何かを運び出した。

ずる、ずる、べちゃ。

たまに水滴が落ちる音も混じり、部屋の生臭い空気が更に濃くなる。

常人ならばこの部屋に充満する空気の重さに耐えきれず、這いずる様に飛び出していくだろう。

そんな部屋で何かをずるずると引きずり運ぶのは、正常な精神が完全に欠落したと言えるだろう。

先程と同じ様な光が部屋を包み、また元の暗闇へと戻っていく。

「ぎぃいいいえええええ!!」

呼び出された異形の者が大きな叫び声を上げたのだ。

「母さん……?どうしたの、どこか痛いの?」

男はまるで本物の母親を心配する子供の様な声色で近寄った。実際の母親とは似ても似つかぬだろうに。

暗い部屋でよく目を凝らして見ると、男は恐ろしい事に気づいてしまった。

「あぁ……そんな、母さん……!」

 大きな目玉は赤く染まり、白い筈の部分に深い傷が付けられていた為だ。人体でも同じ部分を深く、裂かれるように傷付けられれば誰もが叫ばずにはいられないだろう。それも両目である。

 男は異形の者が受けた強烈な痛みを思い、酷く悲しそうな顔で大粒の涙を流し始めた。

「目、痛いよね。すごく痛そう」

ボクに何か出来ないかな、と泣きながらそう呟く。

すると何かを思い出したように、突然部屋中を漁りだした。

「ない、ない……どこだ?」

ガラガラと物を落とし、積み上げられた本等も掻き分けながら探す。そして部屋が散らかった末に棚の上からようやく見つけた。救急箱だ。

「あった、あった……」

嬉しそうに救急箱を開け、ガーゼや包帯を取り出し、それらを痛がる”母さん”に巻き付けていく。

「どうかな、これで少しは痛く無くなった……?」

自信無さそうに尋ねるが、”母さん”はまだ痛みに苦しみながら答える。

「アァ……ギイイ……」

言葉として聞こえない音だが、男にとってはこれが「ありがとう」と言っていると思えるらしい。

「そっか、良かった」

それから”父さん”と”母さん”を交互に見て優しく微笑む。まるで本物の肉親に笑いかける様に。


「やったね、また三人で暮らしていけるよ!」


無邪気に笑う男と二匹の異形の者。

誰も彼らを親子とは認識出来ないだろう。



 そしてこの異形の者を二匹呼ぶために引きずられた何かによって、数日も絶たずに親子は引き裂かれる事になる。


”何か”にならず逃げ延びた者がいるからである。


 仮にその人物の事をnと表記するとしよう。

nはあの狂った男に連れて来られた子供だ。

友達数人でかくれんぼをしていた所、偶然通りかかった男が声を掛けたのだと言う。

近所でも優しい好青年だと評判だった為か、nは何の疑いも持たず家に行った。

家に着いてすぐに男はnを何らかの方法で眠らせ、埃っぽい物置部屋に入れた。

 それから数時間が経っただろうか、ふとnが目を覚ますと周りに自分と同じ背丈ぐらいの子供が数名眠っていた。

全員に声を掛けても起きる気配はないが、nも含め全員の手足は拘束されていなかった。

nが部屋の扉にそっと手をかけ薄く開けてみると、見える範囲には誰もいなかった。

扉の外には見覚えのある玄関で、あの男が連れて来た家だとわかった。

玄関まではそう遠くない距離なので、急いで行けば辿り着けるだろう。

 そう考えていると、廊下の向こうから不思議な足音が聞こえた。

ペタ、ペタ。とプールサイドを裸足で歩くような音だったらしいが、家の中で聞いた音の表現としては不自然な例えだ。

足を濡らしたまま家中を彷徨く訳もなく、ましてや家が水浸しになっている訳でもないだろうに。

 あと少し見て何も見えなかったら行こう。

と、考えているとnが盾のようにしていた扉が開けられた。

突然扉を開けられたnは驚き、開けた人物の方を見るとそこには自分を連れて来た男が立っていた。

「あれぇ、起きちゃったんだ」

少し意外そうな顔でnに話しかける。が、nはこれから何をされるか分からない恐怖に怯え、口を閉ざした。

そんなnを見て男はこう告げた。

「怖いならお家にお帰り、起きたままだと痛い思いしちゃうからね」

そう言ってnの頭を撫でた男の手は赤く染まっていた。

恐怖のあまり声が出ないnは、黙ってこくりと頷き玄関へと走り家を飛び出した。

帰り道の事は覚えていないという。

自分の家に帰りたい、家族に会いたい、その思いで頭の中は一杯だった。


 しばらくして、子供の行方不明者が多発しているというニュースを目にしたn。

行方が分からなくなった子供の写真の中に、あの時あの部屋で眠っていた子供が全員写っている事に気がつく。

自分だけが無事、他の子達は想像も出来ない程辛い目に合っているかもしれない。

nは両親に自分が見た事を全て打ち明け、両親はすぐに警察へと通報したのだった。


 これがこの物語のプロローグである。

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