23.

 指示? 指示って何だ!?

 あのゆかいなこととやらが茶番じゃなければ、このケータイはちゃんと外部と通信をしていたはずだ。そして私が助けを求めていたことも認識していたはずだ。それなら、ちゃんと警察へ通報してくれているはずだ。

 でももし、あの人の言ったことが全部嘘だったら? たかが高校生に企業秘密へのアクセス手段を渡すわけなんてない。あれはちょっとふざけた連絡手段なだけで、私のこの状況は誰にも伝わっていなかったら?


「……おい、あいつの荷物はどうした」

「持たせたままっすよ」

「身体検査は?」

「何っすかそれ」

「お前なあ……ったくイマドキの若え連中はよぉ、荒事のひとつまともにできやしねえ」

「大丈夫っすよ、ここ入る前にジャマー入れたし、あの部屋は元から電波ないっすから」

「……まったく、情けないったらねぇ。もう余計なことすんじゃねえぞ」


 混乱する私をよそに、二つの足音が近づいてくる。

 さっきはナイフだった。でも今度は何が出てくるかもわからない。二人がかりで、乱暴されるかもしれない。

 怖い。怖くて身体が震える。それでも私は、とにかくできることをするしかなかった。祈るようにして最後のメッセージに従う。

 ケータイを右ポケットにしまう。簡単には落ちないように深く。バックパックもしっかりとストラップを締めておく。



 足音が止まり、鍵の開く音がした。



 扉の前には二人の男。

 ひとりは当然、私をここまで連れてきた男。

 もうひとりは、スーツ姿の中年男性だった。中肉中背、グレーのパンツに白ワイシャツ、ノーネクタイ。平日の街中であれば、いくらでも見かけるような、どこか特徴のない男。


 若い方の男に促されて、閉じ込められていた物置から出る。

 細長い部屋はどこか学校の教室にも似ている。私が閉じ込められていたのと反対側の壁には大きなディスプレイがあり、すこしスペースをおいて、長机が左右に二つずつ並ぶのが数列続いている。

 机の上には液晶モニタとキーボードが並ぶ。これが学校や街で見るのより何世代も古くて、むしろ故郷で見るようなものに近い。どのモニタも電源が切れているので、暖色の小さな電灯がいくつか吊るされているだけの部屋は薄暗い。

 一番後ろの列の右側の壁には、私が連れてこられたときに通ったドアがある。そこから後ろは倉庫として使っているらしく、スチールラックと雑然と置かれた段ボール箱がスペースの多くを占めている。

 私達はその中を歩いていく。前には中年男、後ろに若い男。


 一番手前の机まで歩いたところで、通路左側の椅子にスーツ姿の男が座る。

 後ろを振り返ると、ジェスチャーで座ることを促された。

 従うほか無いだろう。

 私は、恐る恐る、質素なスツールに腰を下ろす。


 真ん中の通路を挟んで、中年男性と向き合って椅子に座っている格好だ。すぐ横にはまだ男がいて、逃げ出そうとすればすぐ捕まってしまう。

「いや、すまないなあ」

 開口一番、男の口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。座ったままとはいえ、平身低頭といった具合に頭を下げられるのは、この状況に似つかわしくなくて、戸惑う。

「何を言い出すんだと思うかもしれんけどな、俺はほんとうにすまないと思ってる。実際俺も困ってるんよ。これだから平和ボケした若え連中はあかんって話よな」

 中年太り、といった見た目の男は、荒事に長けているようには見えない。

「まず最初にはっきりさせておくが、嬢ちゃんの身体をどうこうするつもりはない。俺はもうそんな歳じゃないし、こいつは別だろうが――」

 一度言葉を切り、私の横で直立不動の男を一瞥する。

「そんときゃ俺が殺してでも止める。いっときの欲望に身を任せて生体情報流出させるとんでもないヘマなんかされたら、全部ご破産だかんな」

「――本当ですか?」

「おー、肝すわってんな嬢ちゃん。感心感心。ま、ゆったって信じてもらえんわな。べつにそれでいい。ただ、こっちから手を出す気はない、ということだけは予め伝えておく」

 あー、もうほんとやってられんわ。煙草ほしい。

 男は頭を抱える。少なくとも、真剣に悩んでいる、という点に関しては、ほんとうのことなんだろう。


 まあ、と頭を掻きむしるのをやめた男が、下を向いたままつぶやく。

「世が世なら、ガキのひとりやふたり、バラしてそこらへんの山埋めておしまいなんだけどな」

 私は、油断していたのだろう。その気持ちに一気に冷水を被せられる。

 男が顔を上げる。

 その顔には、何の表情もなかった。

 自分が今口にしていることなど、全く大したことではないと、心の底からそう認識しているかのような。


「ガキどもはバカだから、わけわからん理由で突然ふらっと家出したりするもんだ。少なくとも警察の側はそう考えてたとしか思えねえな。でなきゃあんなに警備が緩かったはずがねえ。それが二十年前の世界だ。だからガキを攫うのなんて簡単だったし、防犯ブザーなんて何の障害にもならなかった」

 知ってるか? 防犯ブザー。

 両手の親指人差し指で小さい長方形を作りながら男が私に尋ねる。私は首を横に振る。

「こんくらいの大きさの、嬢ちゃんみたいなのがみーんな持ってる通報装置のご先祖様だ。これがとんでもなく馬鹿げた代物でな、よくてGPSがついてて親へ通知されるだけ、悪けりゃただ大きな音を出すだけなんだぜ?」

 笑っちまうだろ?

 そう言うと男は本当に笑いだした。私は思わず身震いをする。

「だがな、そんなので犯罪に巻き込まれても安心ですなんてのが、当時の水準だったわけだ。万事がそんな調子だから、ちょっといい制服着てる子供がいたら、おい金蔓がいらっしゃったぞ、なんて軽口叩くのが身内で流行ってたくらいだ。実行するやつが出るまでそう時間はかからなかったけどな」


 男はため息をつく。

「なにせみんな金がなかった。ろくでなしどもに金がねえのは今も昔も変わりゃしねえが、ちょうど大大大不況の時期だ。嬢ちゃんは知らないだろうが、今みたいに生活を保障してくれるようなありがたい仕組みもなかった。他人に死ぬまでこきつかわれて本当におっ死ぬか、道端で寒さとみじめさに凍えながら植えて死ぬかくらいしか、俺達には道がなかったんだぜ」

 信じられるか? と尋ねた男は返事を期待しておらず、私が口を挟む間もなく言葉を続ける。

「どいつもこいつも揃ってろくでなしばかりだったから、ボンボンのドラ息子どもを攫うことに大した罪悪感はなかった。誰からも顧みられずに死ぬよりは何倍もマシだ。そしていつの間にか、これは予め奪われていたものを請求しているだけだと、誰もが信じていた。やることも過激になった。――俺はうまいことやった方だし、派手な騒ぎには手を出さなかった。裏で地道にこつこつと、ってやつだ。だから警察のリストにも載ってねえ。この街ん中でも、白昼堂々、平気な顔して歩いていられる。だが、つるんでた連中の大半は、今は塀の中だ」

 さっきまでの私の目はまるで節穴だった。目の前の丸腰の男は、ひどく恐ろしい存在だった。

 目の前の人物がどれだけ戦いに強いのか、それは判断できない。でも、人を傷つけるのに一切ためらうことがない人間だ。

「俺達はみんな、金持ちが憎かった。俺達が手にしていたはずのものを掠め取って、何の罪もないような顔をして、優雅にお上品に暮らしてた連中のことがな――嬢ちゃんの親は何やってるんだ?」

 本当のことを言うか一瞬だけ迷い、下手に嘘をついてあとで疑われるほうが怖いと思った。

「……二人とも死にました。十一月テロで」

 男の顔が奇妙に歪む。

「……そりゃすまないことを聞いたな。てか、随分長々と余計なこと話しちまった」

 おい聞いてたなら止めてくれよなと、私の左後ろの方へと話しかける。

 余計な口出すすんなって言ったのそっちじゃないっスかと反論されるが、男はそれを無視した。

「あーやだやだ。歳を取ると思い出話ばかりしちまう。俺が嬢ちゃんくらいの頃には、そういう大人は全員ウゼーくらいのこと思ってたはずなのにな。話を戻すとだな、今どき同じことをやろうとしても、そう簡単には行かないってこった。おはようからおやすみまで追跡されっぱなし、生活全部さらけ出してる露出狂どもが、突然フッといなくなるなんて、そりゃおめえ、尋常なことじゃないってはっきりわかるわな。しかもこの街のシステムにべったりな学生なんて、本人の方から是非にとご協力いただいたところで、全く感づかれずに街の外へ出すのはひでえ苦労だ」

 男が膝を打つ。

「と、言うわけで、基本的には解放してやるつもりでいる。別にこれは嬢ちゃんに情けをかけてるってわけじゃねえ。嬢ちゃんを殺して誰にも感づかれないような形で処理するコストより安くつく方法があるってだけの話だ。とはいえ、これは俺にとっても都合がいい。殺すのも痛めつけるのもあまり気分がいいもんじゃないからな。が、残念なことに俺は単なる下っ端に過ぎない。だからその決定をする権限が俺にはねえ。上に判断を仰ぐ必要がある。故に嬢ちゃんはここでもう少し足止めだ。そして――」

 にやりと笑みを浮かべて。

「もう一度あの部屋に入ってもらう前に身体検査と身元確認だ。大丈夫、俺が学生だったころの生活指導よりかはぬるいはずだからよ」

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