17.

「あっ、瑞月!」

 彼女の言葉通り、誰に咎められることもなく部屋へ戻ってきた私を出迎えたのは、不機嫌さを隠さない仁望の声だった。

「もう心配したんだから。夕食時間になっても戻ってこないし、メッセも返ってこないし」

 この時になってようやく、ケータイの通信を入れていなかったことを思い出した。

 やってしまった。私はあははと苦笑いをする。手にかけたブレザーとデイバッグを椅子にかけながら、言い訳の理由を考える。

「ごめんごめん、ケータイの電池途中で切れちゃってて。あの後私も歩いて帰ろうとしたんだけど、川渡ったあたりでへばっちゃって、結局ずっと喫茶店にいたの」

「こんな時間になるまで?」

「うん。せっかくだし小テストの予習しとこうと思ったら結構気合入っちゃって」

「ふーん」

 向けられた仁望の視線は、あからさまに私を疑っている。

「まあ、瑞月がふっといなくなっちゃうのも、夢中になったら周りが見えないのもいつものことだし? 無事だったならいいけどさ」

 拗ねたような口調から一転、はあ、とため息をついて。

「ほんと、やめてよね、こういうの」

 その声のか細さに、私の胸が痛んだ。

「ごめんなさい」

 まあいいんだけどさ、という小さくつぶやきながら、仁望は屈み込み、収納の戸を開ける。

「買い置きから何か食べる?」

 今日みたいに食堂の時間に間に合わなかったときや、部屋に何人か――大抵は私、仁望、悠乃、久子の四人――集まったときのために、共同で買い置きをしてある。

 本当のことを言えば、お腹が空いていた。けれども。

「ううん、いいや。あんまりおなか空いてないし。ていうか、汗かいちゃって気持ち悪いからシャワー浴びてくるね」

 私は早口でそう言って、シャワーセットのバッグをひっつかむと、半ば逃げるようにして部屋を出た。

 今は仁望と顔を合わせていたくなかった。


 シャワーを浴びた後、ジャージ姿でエレベータに乗り込んだ私は、十二階のボタンに手を伸ばしかけて、それが宙で止まった。

 まだ部屋には戻りたくない。でも今更建物の外へ出る気にはならない。普段は立ち入らない場所へ自然と足が向く。


 階数パネルに学生証をかざして、最上階のボタンを押す。

 高速エレベータの浮遊感が生まれて消えて、ドアが開くと目の前が暗い。夜景を楽しむため、ラウンジは照明が控えめになっている。乗り場の前に衝立があるのもそのためだ。

 すぐ横にある自販機の前に立つ。眠れなくなるかもと思ったけど、構わずにボタンを押す。氷とコーヒーが注がれるのを待つ。紙カップを手に持って、衝立の外へ出る。


 大きな窓の向こうには無数の灯りが瞬いている。

 週末にも関わらず、ソファーに腰掛ける生徒はいつもより少なかった。勉強目的なら自習室のほうがいい環境だし、多少のトラブルがあったとはいえ、まるまる一学年が、課外学習で遊んだ後に、わざわざこんな場所へ来る理由もない、というのもあるだろう。 

 生徒たちの服装は学校指定のジャージが多数派だ。動きやすいし、体育のときにも使えるし、なにより、男女である程度区分けがされているとはいえ、共用部も多いためそう滅多な格好はできないから、部屋着代わりにしている生徒は少なくないのだ。

 それにお互いの区画には学生証がないと出入りできないとはいえ、抜け穴はいくつもあるのだ。更衣室やシャワーブースならともかく、寮の部屋などではわざわざ咎める生徒も少ない。


 東の窓に向けて置かれたソファーへ身体を預ける。

 ようやく通信を戻したケータイを開くと、会員になっているサービスからの広告、都市内のアナウンス、ニュースのトピックス、そして仁望からのいくつかのメッセ。

 さっき。どこにいたのかを聞かれた時、仁望に今日あったことを素直に話してもよかったはずだ。それを話さなかったのはなぜだろうか。

 反対の手に持った紙コップを傾けると、氷のぶつかる音がする。自販機のコーヒーはあまり美味しくはないけれど、いまの気分で甘ったるいものを飲むよりは随分良かった。

 何も考えたくなくて、ぼんやりとニュースサイトを眺める。

 西区角でのひったくり、増加する住所不定者への支援、郊外での連続襲撃事件、弱体化したテロ組織残党の崩壊に関する憶測、新しい店、新しいサービス、新しい端末、新しい映画、新曲、新刊 。

 記事のリストを全部タップして、最後までたどり着いたら更新することを繰り返す。

 それからケータイのバッテリーが切れる直前まで、私はそこに留まり続けた。


 随分生徒の数が減ったラウンジから部屋へ戻ると、電気はすでに消えていた。

 速やかにドアを閉め、荷物を置いて、音をたてないように気をつけながらベッドへ入る。

 布団をかぶってケータイの明かりで、ブレザーのポケットから抜いたタグつきのビジネスカードを眺める。

 彼女からの招待状。 

 タグを読み込むつもりはなかった。話を受けるつもりもないのに、下手に意思表示として解釈されたら厄介だ。

 何より、不法行為をして平然としている彼女の姿を知ってしまった後では、なにをされるかわからないという怖さがあった。


 いらない可能性なんて捨ててしまえばいいのに。

 それでも私は、そのカードを手放せずにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る