12.

 かつて私が住んでいた家、今も伯母が住む家の近くには、“パサート”たちが住む地域がある。自らのことを貿易風を意味する単語で呼ぶ彼らは、ある種の思想を持った人々の集まりだ。

 彼らは企業へのロックインやトラッキングの類をなによりも嫌っている。

 たとえば、彼らは居住区ごとにArielのアカウントをひとつだけ持っていて、あのサイトで買い物をする時は、その共用アカウント経由でなければ絶対に注文しようとしない。曰く、ネット通販で何を買ったかの履歴は、そのアカウントの生活を丸裸にできるだけの情報を企業に提供している。

 率直に言ってしまえば、パラノイアックとしかいいようがない。ただでさえ不便な郊外での生活なのに、さらに自分で自分を縄でしばりつけているようなものだ。少なくない時間を彼らの近くで過ごしてきた私でさえそう思うのだから、この街の住人にとってはなおさらだろう。

 彼らを見分けるのは簡単だ。彼らはスマートフォンを持たない。とはいえ、彼らは自然回帰主義者じゃない。むしろテクノロジーの使いこなしに長けた集団だ。

  ファームウェアや設計の情報が流出したことで徹底的に解析し尽くされた、いまでも大陸のどこかで作られ続けている単機能携帯電話dumb phoneを持ち――中にはそれを持つことでさえ避ける人もいる――Web上で提供されるサービスの利用を極力排し、慎重に設計された自由なソフトウェアを使う。

 要するに自由とプライバシーを尊重する人々なのだ。


「パサートはね、ライフスタイルであり、信念なんだ。宗教とは違うけど、ちょっと似てるところはある」

 穏やかな口調で語る“兄さん”の言葉を思い出す。兄さんは、インフラ系という仕事の都合上不在にすることの多かった伯母の代わりに、よく私の面倒を見てくれた人々のひとりだ。とはいえ、半分くらいは私から押しかけていたようなものだったけれど。広域列車の駅近くならともかく、商業施設の周囲に群がっている程度の住宅地に、遊び相手になるような児童はそんなに多くなかったのだ。

 当時、兄さんは地域の中でも、パサートの集団の中でも、かなり若い方だった。それでも私より十は離れていたけど。せっかく入った大学を卒業せず彼らに加わったのだという。 地域の活動にもよく参加していたし、なにより街の出ということから、一番話の通じる相手としてなかば彼らとの窓口役として働いていたフシがある。もとよりそんなに心象の悪い集団というわけではなかったけれど。

「街の連中は口を揃えてこう言うんだ。受けたものの対価は支払わなければならないだとか、そのことについては規約のこれこれこういう部分に書いてあるだとか、ちゃんと法律に則って適切に運営されている健全なサービスですとか。そんなのはクソッタレだ! って、誰かが言わなきゃいけない。言わなきゃ、誰もそれがおかしいことだって、気づかない」

 あの時、フードコートでストローをくわえた私の向かいで、兄さんは紙のノートとラップトップPCを広げていた。自前のハードで動作するアプリを書くことが仕事なのだ。

「まあここにいるのはマイルドな方だよ。多少の細工はするけどネットのサービスだって使うし、周りから見れば自分たちが偏屈に思われるってわかってる。だから瑞月ちゃんたちともうまくやれてる。極まった奴らはもっと前世紀みたいな生き方してるか、監視カメラを嫌って仙人やってるか、知り合いの家を転々としてるかのどれかだよ」

「そうやって生きるの楽しい? つらくない?」

「面倒、というか、こだわりを捨てればもっと楽に暮らせるんだろうなって思うことは多々ある。少なくとも俺はね。このあたりはいいとこだけどね。メジャーじゃない電子マネーも、場所によっては現金もまだ通用するし」

「それなら――」

「でもね、なんか違うって思ったんだよ。うまく説明できないけどね」

 私はふーん、と答えることしかできなかった。正直言って、よくわからなかった。多分いまもまだ。


「もしできれば、だけどさ」

 しばしの沈黙の後、タイピングを続けながら兄さんは口を開いた。

「瑞月ちゃんも一度街へ出た方がいいと思う」

 びっくりした私は、ストローを取り落としてしまった。

 そんなことを思っていただなんて素振りを兄さんはこれまで一度も見せなかった。


「どうして?」

「どういう生き方をするにしても、相手の考え方を知ることはいいことだよ。俺も一度街へ出たからこそ、なんか違うなって思えたんだ。それに――」

 そう言って兄さんは画面から顔を上げた。

「なんとなく、瑞月ちゃんはそういう生き方が向いてるかもしれないって思ったから」


 その頃の私の描く将来像なんて、伯母さんの勤めている事務所に入れたらいいななんて、ぼんやり考えていた程度のものだった。だからきっと、あのまま中学の授業を受け、近くの高校を受験し、たぶん大学へ入って、そしてまたあの町に戻って来るんだろうなんて、そんな未来を夢見ていた。

 そんな未来しかないと思っていた。


「まああんまり深刻に考えないでよ。もしチャンスがあったら飛び込んでみればってだけだし、都会から戻ってくることはいつだってできるんだ。実際問題、俺が今から都会へ戻るのは色々と厳しいからね」

 そういう兄さんの顔は、どことなく寂しげに見えた。

「だから一度試してみて、ここに居たいって思えたらそれで良し。俺からしたらちょっとさみしいけどね。で、もし彼らの言うことを受け入れられないと思ったら――」

 兄さんはテーブルに身を乗り出して、私の頭の上に手のひらを乗せる。

「そしたらその時に帰って来ればいい。大々々歓迎するよ」

 

 都会に出る、ということをはっきりと意識したのは、明らかにあの時がきっかけだった。 

 だから伯母さんに中学受験に挑戦したいと打ち明けたときにはたいそう驚かれた。

 私の意志がかたいのをみるや、受けるのは本命一校だけ、という条件で、受験を許してくれたことには、いくら感謝してもし足りない。もしかしたら、半分くらいは記念受験と思われていたかもしれないけど。

 結果的に特待合格してしまって、想像より何倍も早く街へ出ることになってしまったのは、なんというかすごく運が良かったとしか言いようがない。


 兄さんのあの言葉がなければ、私がこの街に来ることはなかった。仁望に出会うこともなかった。

 これから先の私はどうなるんだろうか。今私の横でハンドルを握る彼女は、兄さんや仁望のように、私の人生を変えてしまう人物なのだろうか。

 今の私にはまだわからない。



 さて、なんでこんなことを思い出していたかというと、パサートたちの生業の一つは「追跡番号のない」運び屋で、そうでなくてもタクシーの類なんて一番嫌いな人々なわけで、つまり今乗ってるような改造車を乗り回す人々の典型的な例で、そして幼い頃の私をひどい目にあわせたのが彼らの仕業だったからだ。


 南北方面の高速道路と交差するジャンクションを経由しつつ故郷を通り過ぎ、オートクルーズの車をスラローム代わりに、数十分もの間猛スピードで走り続けた車は、あるインターチェンジに近づいてようやく減速を始めた。

「やー、やっぱ街の外を飛ばすほうが楽しいわ。街ん中は狭っ苦しくてねえ。環状線もC1みたくコーナーがたくさんあるとかじゃないし。ねえねえ、どうだった?」

 呆れ果てる、とはこのことか、なんてことを、思った。


「……どうかしてる。正気じゃない」

「率直な感想ありがと。でもそれ褒め言葉を通り越して耳タコなんだわ」

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