第二話 水の低きに就くが如し

「……なあ、圭。ここがいったい何なのか、という疑問を解決するのは後回しにして──とりあえず、ここから脱出しないか? とにもかくにも外に出られれば、ここの正体も判明するだろうし」

「……そうね」

 占尊たちがこの迷宮に来た経路は、例の穴だ。だが、あそこからは水が勢いよく吐き出されていて、とても逆走できそうにない。あの穴からの脱出案は却下だ。

「なら……他に出口があるんだろうか? おそらくは、ズボンのポケットに入っていた、鍵が必要になるような出口が……」

 絨毯の通路にはなかった。ということは、やはり、迷路の中か。

 占尊は唸った。迷路が、ちょっとやそっとでは解けないくらい広大だということは、数分前体験したばかりだった。

「それでも、挑戦するしかないんじゃない?」

「うーん……」占尊は腕を組み、歩き回ろうとした。

 がく、と上げた右足が途中で止まった。そのままバランスを崩し、倒れそうになる。

「ちょっ、何してんのよ」

 圭が受け止めてくれたおかげで、何とか倒れずに済んだ。「ありがとう」と礼を言い、足下を見る。

 いつの間にか解けていた、右のスニーカーの靴紐を、左足で踏んでいた。占尊は溜め息を吐くと、直そうとして、屈んだ。

 全身が硬直した。

 占尊が最初の部屋にいた時と比べて、明らかに水位が上昇していた。具体的に言うと、あの時は数ミリもなかったのに対し、今は、十センチ強はある。

(もしかして……溜まっているのか?)

 そうとしか考えられない。例の穴から注がれた水は、迷宮中に行き渡ると、外部へと流れ出さずに、溜まるのだ。

(……待てよ)

 このまま水位が上昇し続けると、いつかは天井に達して──つまり、迷宮が水で満たされて──溺れ死んでしまうのではないだろうか?

(何てこった)

 ここは遊園地のアトラクションなんかじゃない、水牢だ。あの穴の正体は、処刑のための注水口だ。

 目を、ぐっ、と瞑り、歯を食い縛った。そうでもしないと、パニックに陥ってしまいそうだったからだ。

 占尊は床に手と膝をついて、顔を水に浸した。数秒後に、上げる。水は生温く、さほど頭がすっきりしたわけではなかった。けれども、浸す前よりはましに思えた。

 大きく、二、三回、深呼吸をする。パニックの波は、ひとまずは去っていったようだ。

「……何してんのよ?」圭が怪訝そうな顔で訊いてきた。

 占尊は床を指差した。「水が溜まっている。早く脱出しないと、このままじゃじきに水位が天井に達し、俺たちは溺れ死ぬ」

 圭は目を瞠り、視線を足下に落とした。数秒後に上げ、「まずいじゃない」と震える声で言った。「早く脱出しないと」顔面蒼白になっている。

「ああ。何とかして出口を探し出さねえと……まあ、何とかしてと言っても、地道に迷路を探索するしかねえんだが」

「探索といっても……ちゃんと、隈なく調べられるかしら?」

「それは問題ない。迷路で片方の壁に手をついて歩き続ければ、至る所をサーチすることができ、いつかは出口を見つけられる、という話を聞いたことがある。これを応用しようと思う」

「なるほどね」

「ところがこの方法には、問題が二つある。一つ目、『周囲の壁から孤立した壁』に触れられねえ、ということ」

「どういうことよ?」

「この方法で、くまなく探索できるのは、すべての迷路の壁が一つに繋がっている場合に限る。繋がっていない、『周囲の壁から孤立した壁』により構成された道があると、そこを調べることはできない」

「たしかに……でも、その問題に関しては、どうしようもないでしょう? 『周囲の壁から孤立した壁』があるかどうかなんて、調べている側にしてみれば、非常にわかりづらいに違いないわ。そんな壁がないことを祈るしかないわね」

「そうだな。で、二つ目の問題は、時間がかかる、ということだ」

「時間……そうね、そのとおりだわ。もしかするとこの迷宮は、上から見ると正方形で、それを絨毯の敷かれた十文字の通路で四区画に区切っているのかもしれないわね。仮にそうだとすると、通路は一本が約五十メートルだから、単純計算で一区画につきおよそ二千五百平米、四つ合計すると一万平米にもなるわ。迷路が区画全体に隈なく張り巡らされているとすると、道の幅は一メートルばかりしかねえから、一区画における迷路の全長は、十キロメートル……」

「それを打開する策は、一つしかねえ──素早く調べるこった。早足では遅い、小走りでないと。……けれども、水位が上がってくると、当然ながら水の抵抗が邪魔になる。水深が俺の身長に近づくと、泳ぐことになるのは必至だ。それでもなお、小走りのような速度で移動することができるだろうか……」

「……あっ、だから手すりがあるのね。これは、水位が上がりまともに進めなくなった時、掴むことで、ただ泳ぐよりも簡単に移動できるように、という造り手の配慮なのよ」

 造り手、という単語を、占尊は反復する。猛烈な怒りが込み上げてきた。「畜生! どうして俺たちが、こんな拷問まがいの、いや拷問そのものに遭わなきゃならねえんだ! 何らかの罰なのか? 確かに、生まれてから今までずっと善いことしかしてきませんでした、とか言ったら嘘になるが、こんな拷問にかけられるほど罪深いことをした覚えはねえぞ! 畜生!」

「落ち着きなさいよ」圭は彼の両肩を掴み、前後に揺すった。「激昂したって出口はみつからないわよ」

 その言葉を聞いたところで、新たな不安が生じた。果たして本当に出口はあるのか? そんなものは最初から用意されておらず、造り手はただただ、自分が出口という希望を抱きながら無駄な努力をする様を嘲笑いたいだけじゃないのか?

 息を肺一杯に吸い込んだ後、絶叫した。そうでもしなければ、間違いなくパニックに陥っていた。圭が、「きゃっ、何よ!」と文句を言う。

 数秒間大声を出してから、大きく深呼吸した。冷静になれ、そうと決まったわけじゃねえだろう、と心の中で呟く。

 それに、もし出口がないとしても、そのことを、迷路を調べる前に知る術はない。けっきょく、出口があることを願いながら、探索するしかないのだ。

「とにかく、早く迷路を調べ始めないと……手分けしよう。お前はあっちと、あっち」占尊は、注水口のある部屋に続く絨毯の通路の途中にある入り口のうち、向かって左側のほうから入れる迷路と、その奥の迷路を指差した。「俺はこっちと、こっちな」今度は、右側の迷路と、その奥の迷路を指差した。

「命令されるのは癪だけど……わかったわ。二つとも調べ終えたら、またここ、十字路の中央で会いましょう」

 占尊たちは目的の迷路へ向かった。入り口で二手に別れ、中に入る。壁に手をつき、触り続けながら廊下を小走りに進み始めた。

 しばらくして、分かれ道に差し掛かかる。もちろん、壁を手で触りながら道を選んだ。すると、数メートル先で行き止まりになっているのが見えた。

 出口に通じていないと明らかに分かる道を、わざわざ進む必要はない。反対側の壁──もしこのまま前進すれば、突き当りで半回転し、分岐点に戻ってきて、その時手をついているであろう壁──に手をつくと、先程選ばなかったほうの道を行こうとした。

(……ちょっと待てよ)占尊は差し出した足を止めた。(もしかして出口は、それとはっきり分かるように作られておらず、上手く隠されているんじゃねえのか? 例えば、手で押すと開くとか……)

 ありえない、とは断言できない。むしろ、大いにありうることだ。造り手が、何らかの小細工を迷宮に施すことは。

(いや……そうだ)占尊は、ぽん、と手を叩いた。(鍵だ、俺には鍵が渡されているじゃねえか。ということは、それを差し込むための穴も出口には存在するはずだ。それを目印にすれば……)

 そこまで考えたところで、はっ、とした。

(鍵は──ホントに、必要なのだろうか?)

 そもそも、出口の扉をわざわざ施錠する必要なんて、ない。

(鍵は、造り手の仕掛けた、いわゆるミスリードなんじゃねえか? つまり、俺に、「出口の扉には鍵穴がある」と思わせるための……)

 その可能性は、大いにある。だが、「実際に出口の扉は施錠されていて、開けるには鍵が必要」という可能性もまた、高い。

(……まあ、どちらにせよ、鍵を捨てるわけにはいかねえな。あと、出口を探す時は、鍵穴の有無にとらわれねえようにしよう)

 占尊はその後も十数秒間、考え続けていたが、けっきょく、あえて行き止まりまで行ってみることにした。体を半回転させる。

(そうだ)占尊は、天井、次いで床を見た。(出口は壁に設置されているとは限らねえ。天井や床に付いている可能性もあるぞ)

 幸い、付近の様子に異常はなかった。けれども、これから迷路を調べるにあたって、十分に留意する必要はありそうだ。

 不意に、再び、強烈な不安に襲われた。たとえこの迷宮に出口があるとしても、果たしてそれを溺れ死ぬ前に見つけられるだろうか? もし先刻考えたとおり、巧妙に隠されているとしたら、それを発見できるくらい注意深く迷宮を探索できるだろうか?

 占尊は深呼吸した。(見つけられるだろうか、じゃない、見つけなきゃならねえんだ。じゃなきゃ死ぬんだから)

 それに、そんなことを考えていても時間を浪費するだけで、何の得にもならない。すでに水位は、脛の半分近くにまで迫ってきていた。

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