第21話

 喪の間中、モアズールは貝のように口を閉ざしていた。口を開けば、とたんにとんでもないことを叫び出しそうだったので。

 葬列は静かに、黒いベルベットに包んだ老父の骸を戸板に乗せて、城からだいぶ離れた湖の近くへ連れて行く。

 だれも近寄ることのない聖域。白い石が祭壇を模して円陣を組んで敷き詰められている。何者かを導くように、白い道が湖へと伸びている。

 遺体は円の中央に置かれ、白い衣服を簡単に着せ、皆は立ち去った。

 モアズールは振り向く。

 遠くで泣きむせぶ鳥の声が、父の怨恨の叫びに聞こえた。空に黒々と鳥が群れて飛んでいく。牙の並ぶあぎとに似た翼を広げ、モアズールをにらみつけている。彼はゾッとして駆け足で皆の後を追った。

 先王の葬儀は、まともな形で行うことができなかった。父の魂は今頃、死霊に取り付かれるか、鳥たちについばまれ、引き裂かれ、新しい命として生まれ変わる前に、傷ついて落下していくのだろう。

 皆はシャマンがいないせいだと抜かした。シャマンが父の魂に憩いを与え、迷いを諭し、行く道を教える。だれもそのようなことはできなかった。父は異界の狭間に取り残され、永遠にさまよい続けるのだ。

 行きはわざわざ遠回りをした。今、我々は普段の道筋を通っている。父は遠回りした道を、のそりのそりと戻っているかもしれない。我々を、父を殺した自分を探して。


 ダールは目を開けた。内臓が火にくべられている。吐き気さえする。苦痛で体がねじられていく。

 小屋の戸口から、太陽の光が差し込んでくる。壁の透き間から、白い光の帯が入り込んでくる。ダールは右手を動かそうと、振り上げた。首筋を強くねじられるような痛みが走り、叫んだ。だが声が出ない。口に何か押し込められている。左手にはしっかりと何かをつかんでいた。ダールは鉄棒を手離し、さるぐつわをもぎ取った。

 思考が、火花のように四方へ散り、昨夜のことを思い出せない。息をすると、肺に茨が刺さるようだ。全身の筋が断ち切られたみたいに、力が入らない。胃が絞られる。込み上げてきて、彼は吐いた。鼻をつく異臭に触発され、また吐く。ヘドが器官や鼻につまり、彼は咳き込んだ。体全体が岩に押しつぶされたかのような激痛と圧迫感を感じた。息が止まり、彼は痙攣して、のたうちまわった。

 その様子を戸口から人が覗いているのにダールは気づいた。

 水鳥の精霊か? 違う。

 民家の若夫婦が、恐ろしげに覗いているのだ。ダールは必死になって助けを求めて手を伸ばした。

 だが二人は去ってしまった。ダールは絶望し、虚しく戸口を見つめた。

 しかし、しばらくして彼らは戻ってきた。やぼったく髪を結い上げた小太りの女が、水桶を持って入ってきた。男は何の葉か知らないが、何やら青いものを手にしたいた。二人は無言でダールの手当をしてくれた。

 冷たい水が、頭の芯まで冷やしてくれ、ダールはうっとりと目を閉じる。無骨な指がひんやりとする脂をやけどでただれた彼の体に塗り付けた。股間の異常に気付いたが、太い眉をしかめただけで、黙っていた。軟膏を塗り付けた後、揉んだ青い葉を張り付け、二人は彼を藁のうえに寝かしつけた。

 女房は熱いスープを持ってきて勧めたが、ダールは水をくれるよう頼んだ。

 まるであの痛みが嘘みたいに引いている。冷たい沼の底に沈んだように、心地よく胸がひんやりとする。息がしやすい。下腹部を石の像で圧し潰されるような激痛は消え去った。内臓のひりつく疼きも、もうしない。久しぶりの快適な気分をダールは味わっていた。

 そうだ……自分はちゃんと確認したのだ。赤く熱く燃えた鉄を、ぐるぐると胸から腹まで押し下げたのだ。絶叫しながら、確かにこの目で見たのだ。肉は焼けただれ、黒い入れ墨は鉄棒に巻き付いて、はがれていったのだ。あの三筋の傷だけを残して。

 ダールは深く安堵のため息をついた。女房が冷たい水を彼の口にあてがい、飲ませてくれる。胃の腑の底からすっきりと浄化されていく。いくら飲んでも飲み足りない。彼は何度もおかわりをした。

 ダールが落ち着くと、彼らは使い古した服を持って来て、彼に着せた。

「喉がよほど渇いていなさったようだな」

 山羊飼いの男は、黒い眉を寄せてダールを見下ろし、つぶやいた。ダールは微笑み、しゃがれた声で礼を言った。

「あんたは……沼の人だろう?」

 ダールは意外そうに男を見つめた。

「そんな不気味な仕業をすんのは、沼の奴らだけだよ」

 ダールは男の視線を追い、何のことを言っているのか悟った。自嘲に口許を歪めた。

「犬を殺したのはあんたか?」

「すみません……」

「いいさ……その肩は犬がやったのか?」

 男は指さして言った。ダールは薄く苦笑い、見返した。

「そ……か」

 男はそれきり黙って出て行った。女房は、そそくさとその後をついて行った。とたんに女の責め立てる金切り声が響いてきた。男の怒鳴る声、山羊の騒々しい鳴き声、家鴨の悲鳴。

 現実は遠ざかり、ダールは取り残された。しかし、ここは完全に安全な場所だと思えた。彼は目をつぶり、静かな吐息を立てて、眠りに落ちた。

 何かを追い払う鋭い声に、ダールは目覚める。歯の透き間から鋭く息を吐き出す音だ。何か、起こったのか。

 藁の帽子を被った山羊飼いが、戸外を気にしながら入って来た。

「どうしたんですか?」

 男は、ふっとダールを見る。すぐに迷惑げな顔をして、親指で外を示し、「どうもこうも……なんか鳥の野郎が山羊を脅かすもんでよ」

 しかし、ダールの表情に気付くと、「何だ?」と、たずねた。ダールは信じられぬという顔をして、笑っていた。

「何だね、あんたの鳥なのか?」

「そうです……そうなんです……! ハハ……」

 ダールは首を伸ばして、少しでも戸外を覗こうとした。

「捕まえて来ようか?」

「その戸を……開け放っておいてください。きっと……来るはずですから……」

 ふたりは息をひそめて、じっと戸口に視線を集中させた。

 鈴を転がす声が近づいて来た。

 ダールは息を飲んだ。

 戸口には、紅衣をまとった赤毛の精霊がたたずんでいた。

 山羊飼いの目には、紅色の水鳥に見えている。どちらにしても同じことだ。

 精霊は軽やかにステップを踏んで、ゆっくりとダールに近づいて来る。口許に微笑みを浮かべ、ゆるやかに腕を羽ばたかせながら、細い身体を翻しつつ。風になびくように、紅衣や髪がはためく。陽炎になって霞みながら、粒子となって彼女の残像が空中に霧散していく。精霊はダールの傍らにひざまずいた。そっと、彼のあごに両手をよそい、柔らかい唇を口づけた。彼の口の中に甘露が広がる。奇跡を感じた。

 山羊飼いは目を丸くして、ダールと紅鳥を見つめていた。

 「なんてこった……」

 頭をかきむしると、呆れ気味にその様子に見入っている。

 「あんたは……どうやって、その鳥にそんなことを仕込んだんだ?」

 ダールはひとしきり、水鳥の女と口づけた後、おもむろに男に目をやった。薄く笑い、「さあ……?」と眉を上げた。

 精霊の女はさわさわとダールの身体に触れる。まるで、ただの人の女にでもなって、彼のことを求めているのか。胸や腹に触れていく。たとえ、葉や脂膏の上からでも、彼女の指の優しさはダールの皮膚に伝わってくる。彼の肌の下の引き千切られた間隙が暖かく繋ぎあわされて埋められていく。かすかに充足感を感じながら、彼は精霊を見つめた。

 彼女の心が、昨夜の炎のようにめらめらと燃え立っている。情熱的に、それは熱風となって、ダールに押し寄せてきた。彼女の瞳は、闇に浮かぶ惑乱の星、深紅に燃え上がる。激しく、狂った月光じみ、妖しい魅力を放ちながら。

 ダールは受け止める。むさぼるように、彼女の心とその瞳に食いついた。

 傷ついた男の代わりに、一人の赤毛の美しい女が、山羊飼いを見つめていた。幻の女は、男のわきを擦り抜けると、陽のまもなく沈みゆく戸外へと出て行った。

 山羊飼いはあわてて追いかけたが、赤焼けの戸外に女と傷ついた男の姿はどこにもなかった。

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