第19話

 ババエルは、またしても突然消えた。

 何ということだ、何ということだ……

 ダールの脳裏を、うんかとなって駆け巡る言葉。どこもかしこもきしんで痛い。

 こんなことになるなんて……

 悔しさと怒りが、ダールの瞳から滴り落ちた。

 なぜ、回避できなかった。なぜ、精霊はやって来なかった。ダールは両目をこぶしで押さえ付ける。

 自分の力は、発揮できぬまま、無意味に道端に転がり落ちた石ころ同然だった。

 己の無力さが、無能さが、悪夢そのもの、生暖かい風となって押し寄せて来る。

 衣服は引き裂かれ、辺りに散らばっている。ダールははいながら、それらをかき集め、そして地面にこびりつく、無数の汚物を見つける。

 「くそっ!」

 腹の底から絞り出すように叫ぶ。

 「くそっ!!」

 激しく手で払いのける。堅く固まった汚物は、遠くへ飛んでいく。結界は破れ、間を置かずに紅い女はやって来て、

ダールを見つめた。哀れむ瞳。

 「なぜ……来てくれなかったんだ!? なぜ……助けてはくれなかった!!」

 ダールは叫ぶ。胸にえぐられた穴が空いているようだ。そこがただれるように苦しいのだ。

 「なぜ……!?」

 水鳥の女は謝るように身を屈め、ダールの身体中の傷に触れる。絹のように柔らかな指が、痛ましい彼の体を優しくなでつけていく。汚れた部分を清めていく。

 「私は……」ダールは女を見つめる。女は、けぶる霞の中の水鳥そのものだった。輪郭はぼやけ、羽毛みたいに柔らかく、辺りに浮いている。瞳は泣きはらしたように赤い。

「私は……」

 ダールは思いを言葉にできぬまま、黙した。精霊は慈しみ深く彼を抱き締める。生身の女の暖かさではなく、それはまるで春の木漏れ日の中の暖かさ。染みとおってくる精霊の愛。女はすぐに離れ、夢心地のダールに、次の行動を起こすように施す。そして、彼は自分がすでにモアズールの罠の真っ只中にあることを知った。急いで神殿に入り、衣服を身につける。

 水鳥の女は言う。もうすぐ、こなたは捕らえられるであろうと。

 一体、何をされるのか、予想もつかない。しかし、ババエルと密通しているとか、何とか言い掛かりをつけられ、それを理由に捕らえられるのだろう。何と運の強い男だ、モアズールというやつは。ダールは歯噛みする。香を焚き、戸外を浄化すると、内にこもり、戸口をぴっちりと閉める。水鳥の女は心配なのか、側につき添ったまま離れない。まるで、これから二人が引き裂かれてしまうとでも言うように。 

 間もなく、戸口が激しくたたかれた。

 何と信仰深い者たちよ、敬虔な者たちよ。神殿の正面から回らず、水鳥の水下の足掻きを覗き見るなど。

 戸口を開けずとも、やがてはこじ開けられる。ダールは見苦しい姿を見せたくはないと思い、素直に赴き、戸を開いた。

 口にすることさえも嘆かわしい。皆、引き攣った顔をして、首に護符をかけている。何から身を守るためにか。ダールの姿を目にしたとたん、皆飛びずさり、慎重に言葉を重ねる。

「シャマン殿……訳は申し上げませんが、なぜかは分かっておりますな?」

 ダールはしゃくに触る。自分は何もしていない。しかし、それは無駄な訴えに過ぎないのだ。彼らの前では。ダールは彼らを呆れかえって眺めた。あの王にして、この家臣。彼は肩をすくめた。

 しかし、間もなく意を決した者たちによって、彼に縄がかけられ、さるぐつわと目隠しがされた。その忌まわしい舌をふさぎ、邪眼を遮るために。

 紅鳥の女が葬列に加わるように、彼らの後をついてくる。だれも、彼女に気付かなかった。

 ダールは地下へ連れていかれている。暗くて、ひんやりとしていてかび臭い。木の根や土に埋まった岩などが、処理もされずに向かい合う壁から飛び出している。赤土の湿った臭いがする。錆びた鉄の臭いが鼻をつく。足の下のじゃりじゃりと粗い小石を踏む音がする。どこからか、水脈から漏れ出る水の流れが聞こえる。

 地下水牢へ連れていかれているのだ。ダールは、拷問されるのだろうか、と懸念する。いまさら、どのようなことが自分の身に起こるか分からぬが、それから免れることはできぬだろう。逃げ切れたとしても、きっと狂人のように、しつこく追って来るに違いない。特にモアズールは。あのことは、その秘密への報復なのだという気がした。それなのに、あの男は次々と畳み掛け、それほどに自分に復讐の念を燃やしているのか。何と執念深く、臆病な奴だ。

 鉄の扉の重くきしむ音がして、さるぐつわと目隠しが外された。

 目の前にモアズールが、慇懃な顔をして立っている。

「シャマン……自ら神に仕える身でありながら、欲望のままに悪霊を使役していたことを認めるか?」

 ダールは冷笑する。

「認めない」

「しかし……我々はお前の言い訳を聞くつもりは毛頭ないのだ。すまんな」

 取って付けた様に謝罪すると、モアズールは刑吏に合図する。覆面を被った男が二人やって来て、ダールを背後か

ら羽交い締めにする。

「王よ、モアズールよ。あなたは大きな間違いを犯そうとしているぞ」

 モアズールの瞳が、炯々と冷たく光を放つ。

「さるぐつわを咬ませろ」

 有無も言わさず、乱暴に布切れを口の中にねじ込められた。ダールは必死で抗議するために叫ぶ。しかし、言葉にならないうめき声が、布の間から漏れるだけであった。ダールは足を踏み鳴らし、太く絡み付く腕に抵抗する。しかし、

脆弱なダールの筋肉では、それに打ち勝つことができなかった。

 ダールの衣服が剥ぎ取られていく。あられもない姿を人前にさらされる。とうとう足かせをはめられ、唯一の意思表示も封じ込められてしまった。

 ジャラリと鋭い長刀が、刑吏の手に渡される。洗いざらした木綿の布を片手に持ち、ゆっくりと男は近づいて来て、布を持った手でダールの陽物を握り締める。彼は鋭くうめく。やめろと目が叫んでいる。

 モアズールの瞳がらんらんと輝き、それに見入る。

「切り落とせ」

 ごく簡単にその言葉はささやかれる。

 声ともつかぬ絶叫が、地下の水牢の中に空しく響き渡った。

 木綿の布は赤く染まり、紐で切り取られた部分に巻きつけられる。

 ダールの白目は充血し、のけ反る喉が激しく上下している。肺が引き攣っているのか、両肩がひくひくと痙攣している。ぐったりとダールは失神してしまう。さるぐつわが外され、呼吸をしていないダールの胸が、刑吏によって激しく殴られる。心臓は無理に目覚めさせられ、びくりと手足が動き、ひいひいと豚の悲鳴のような息をすると、ダールは息を吹き返した。

「悪……霊め……」

 ダールの唇が、かすかに震える。

「お、お前が……悪霊だったんだ……私は……何もしていない……何も」荒く息継ぎをし、「お……前が……この国をいつか滅ぼすんだ……」

 意識が遠のき、斜視になりつつある視線を、必死にモアズールに向ける。

 モアズールはダールを見下ろし、彼の言葉に反応する腹心がいないかと肝が縮まる。しかし、皆、酷薄な目をして、ダールを眺めているだけであった。モアズールはそっと安堵し、「封印の入れ墨をしろ」と命じた。

 生革でしっかりと手足を固定され、生白く死人のような肌のダールは、虚ろに自分を取り囲む人間たちを見つめる。皆、獣の顔をしている。それとも突き上げてくる痛みのせいで、幻覚を見ているのか。荒く息をし続けていなければ、死んでしまうじゃないかという気がした。彼の体中の血は、容赦なく流れ出ていく。だれかがそのことに気が付いた。鉄の火釜に突っ込んでおいた鉄の鏝を抜き取り、布を取ったダールの惨めな傷口にぎゅっとねじつけ押し付けた。

 突然のショックにダールは絶叫する。鼓膜が破けるような泣叫に、周囲の者は迷惑げに眉間を濁し、耳を押さえた。生肉の焦げる臭いが辺りに漂う。ダールは口を開けたまま、白目をむいて痙攣している。幾千匹のムカデが、蜿蜒と胸から腹にかけて、きちきちと肉を蝕んでいく。頭の中で無音の半鐘が鳴り響いている。すべての感覚に対して神経が鈍麻していく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る