第11話

 それから数刻もせぬうちに、モアズールは事情を知らされた父に呼び出された。

「なぜ、シアンを打ったのだ。なぜ、威厳を保たず、どなり散らし、ものを壊したのだ。お前は悪霊に惑わされているのか? それとも腹の中に悪精を宿らせているのか?」

 モアズールは黙りこくり、老父をじっと見つめる。彼には王位から降りた父親が、いつの間にか妻と同じように、しなびた小さないびつな生き物にしか見えなかった。怒鳴り散らし、ものを壊すことが、なぜ自分の心を落ち着かせるのか、説明しようもなく、彼は沈黙を守っていた。

「水鳥を見よ、妻を邪険に扱う連れ合いはおらぬ。仲むつまじく、助け合い、支え合い、互いを慈しんでいる……」

 口では説明できない劇的な怒りが心中を占めるが、モアズールはぐっと押さえ、ひざまずき、お座なりに謝罪する。そうするほうが、面倒にならずにすむと考えついたからだ。

老父は衰えぬ鋭い眼光でもって、息子の下げる頭を見つめていた。ギュウと眉間に深いしわを寄せたが、

「あい、わかった……モアズール……つつがなくことを処理致せ。これから先何十年も連れ添う妻に、決して邪険に振る舞うのではないぞ」

 老父は、部屋を出て行く息子の傲慢な背を、案じるように見つめた。

 モアズール王は自分のことを憎んでいるのかもしれない。ダールは最近そういうふうに思えてきた。

 王は神殿にやって来るたびに、目元の薄い皮膚を引き攣らせ、狂人じみた目で自分を睨みつけてくる。一瞬息が止まるほどに、それは凄烈な激情に駆られた目付きだ。威力を持った空気の振動が、まるで蜘蛛の糸となって、王の瞳から無数に自分に飛び掛かり、ヒルのようにぶら下がっていく。目をつぶっても、背を向けても、強烈な力が突き刺さってくるのだ。絡み付くとりもちのようなねばねばとした感情が込められており、憎しみなのか、何に対する執着なのか、もはや純粋とは言えない、嫌らしい視線を放ってくるのだ。

 気が狂っているんじゃないのか……? あの方は?

 ダールは王が去る度に安堵しつつ、ひとりごちた。いつか、王子であったころのモアズールに初めてまみえたとき、あの男はもっと純粋で無知な青年であったように思う。神について何も知らぬ。シャマンについて何も知らぬ。そういうタイプの世間知らずの子供じゃなかったろうか。

 今の彼は気の毒なほどに、先細った羽根ペンのような、ピリピリといらだった、神経質で稲妻めいた男となってしまった。近寄り、触れることすら、下手に傷つけられそうで、恐ろしくてできない。

 ダールは軽蔑するように鼻で笑う。今頃、城ではあの男のことを腫れ物に触るがごとく、臣下たちは扱っているのだろう。国王としては敬うが、あの男自身のことを尊敬し、敬愛することは、どうやっても不可能なことに思える。ダールにとって、自分のうえに立ち、自分を支配するものは、神霊のみであった。 しかし、そういう不敬な感情を、モアズー

ルが悟っているとは思われない。

 もしかして……まさか……と、ダールは邪推する。そうであれば、何と愚かな王であろうか。幻に近いその姿に魅惑されるなど。これさえも、王の資質の試練であるというのに。耐えてこそ、名君と呼ばれる王なのだ。モアズールの父王がそうであったように。

 自分もまた、なるべく王とは私情を交わさぬようにせねば……

 ダールにとって、今や王モアズールこそが、悪霊、そうでなかったら醜い腫瘍と同じものになりつつあった。放っておいて、悪性の腫れの引くのを待とうではないか……なぜなら、シャマンごときが、私的に諌言を王にたれることなどできない。返事の代わりに鞭打たれるのが落ちだ。

 シャマンなど、彼らにとって体のいい奴隷に過ぎないのだ。神を降ろして、言葉を聞くためのお人形でしかないのだ。

 悪災があれば、王の代わりに災いを背負い、シャマンは追放され、または殺されてしまう。外との交渉をまったく絶たれ、女子供の遊ぶ人形の家のような所に一生押し込められて生きていくのだ。しかし、それは代々の国王が、シャマンの神秘の魔力を恐れてしてきたことだった。その力が他に利用されることを恐れ、いつしか飼い殺しにするようになったのだ。

 若いダールは、そのことを嗅ぎ取っていた。モアズールがいくら自分を嫌っていても、恐れて近づけない。シャマンの解放された力の恐ろしさは、何よりダール自身がよく知っているのだから。

 迎えにきた夫の知らせを受けて、シアンは思う。何かがおかしい……何か不自然だ……こんなことはあってはならない……

 シアンはどれほどのことを知っているというのか。しかし、その鋭く敏感な鼻でもって、もう少しで探り当てることができそうであった。彼女にとって、そこまでいくにはかなりの時間がかかるだろう。なぜなら、彼女の心にはモアズールの優しさが幻影のようにこびりつき、それを離しがたく思っているのだ。あれを偽りだとは思えないのだ。彼はまだ落ち着かないだけなのだ……と。

 しかし、気の毒なほどにその鋭敏な神経は、モアズールの虚偽に今にも気付きそうであった。彼を前にして、うまくかみ合わないパズルのような自分の心を不安げに眺めているしかなかった。

 素直に自分から出向き、自らの非を認めた夫を、許さない訳にはいかなかった。シアンはこの国のだれもがそうするように、夫を許し、その袂に戻った。

 もはや充足感は得られず、シアンの心には何とも説明のしようのない不安感がくすぶり始めていた。支点がひとつしかない平たい円盤に乗っているような、ふらふらとした心持ちがする。暗闇に一人いて、手にはロウソクと火の粉を持っているが、どうしてもそれに火を点けて辺りを照らすことができないような、恐怖心が沸いてくるのだ。訳もなく涙が溢れてきそうな、心もとない気持ちになる。支えてくれているはずの夫の手が頼りなく、いやもしかすると、手を離してしまうかもしれないという不信感が生まれようとしている。

 なぜ、そう感じるのか、シアンには解せなかった。多分、その本質を嗅ぎ取っていたとしても、彼女には恐ろしすぎて、理解できないふりをしているしかないだろう。ただとめどなく流れてくる涙だけが、その訳を知っているのだろう。

 夫は以前のとおりになり、甘い睦言をささやいてくれる。二度と怒鳴らない。手も振り上げない。しかし、その瞳が、黄色がかった眼光が、冷たく自分のうえに注がれているのに気付き、ゾッとする。まるで、たわいもない生き物を見るような、冷酷な目。以前はもっと慈悲深くはなかったか。もっと慈愛に満ちていなかったか。夫の遠い目が自分以外の何かに向けられているような。夫が今まで自分に求めてきたものの中に危機を感じる。夫が自分に嘘をついているのだろうと、シアンには伺えたが、その問題から目をそらした。

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