第7話タイム・ディスタンス─1




 こんなことしてる場合じゃない、という焦燥感が、いつも胸の内でくすぶっている。

 それは例えば友達とバカ話をしているときだったり、家でゲームをしているときだったり、暇つぶしに携帯をいじっているときだったりといった、日常の何気ない時間に生まれたほんのわずかな瞬間を見逃さないように、不意に訪れる。何か目的や理由がある訳でもなく、その胸の疼きは具体的な形をともなわず、ただ、じっとしていられない気持ちだけが、無闇に俺を焦らせる。


 夕暮れ時、傾いた日差しがリノリウムの廊下を鮮やかな紅に染め上げていた。

 県内で一番大きい総合病院はいつ来ても人で溢れていて、それは入院病棟専用の出入口でも変わらない。老若男女、様々な人たちが行き交い、活気とは違う独特な気配を漂わせた空気が、人々の間から立ち上ってくるようだった。

 見舞いの花を片手にいつもの病室を目指して歩いていると、顔見知りの看護士とすれ違った。

「こんにちは。いつも偉いわねぇ」

「藤咲はどうしていますか?」

「変わらないわ。眠ったまま」

 ほとんどお決まりになったやりとりを交わし、どうも、と軽く会釈を返してエレベーターに乗ると、エレベーターは目眩に似た浮遊感を与えながら、すぐに俺を目的の階へと運ぶ。チンと音がして扉が開くと、俺はナースステーションを過ぎて、廊下の一番奥の部屋まで歩いて行った。

 三階の三〇八号室。そこが、藤咲燈子の病室だった。

 いつものように一度深呼吸をして引戸を横に動かすと、かすかなエタノールのにおいと清潔さで封印されたかのような白一色の小さな世界の中心で、彼女は今日も眠っていた。

「よ。調子はどう?」

 声をかけても返事はない。それを分かっていても、黙ったままなのは忍びなくて、俺はいつも何気ない調子で声をかける。彼女が起き上がって「久しぶり」と返してくれる姿をわずかに期待しながら。

「今日は少し遅くなったかな」

 そう言って、俺は持ってきたくちなしの花を花瓶に生けた。甘酸っぱい薫りに誘われるように病室を眺めると、何もないからっぽな部屋の静謐さに、俺はいつも穏やかな安堵を感じていた。この場所だけは、俺を焦らせるものは何もない。

「藤咲……」

 俺はベッドで眠ったままの藤咲の手を右手で包み込み、祈るような仕草で自分の頬に当てた。彼女の手は細く、脆そうで、しかし確かな生命のぬくもりが、俺の胸を温かくさせる。

 三年前、藤咲は父親の運転する車で事故に遭い、ずっと意識不明の状態が続いていた。彼女の両親は事故の際に亡くなり、親族もまた藤咲を病院に預けたあとでどこかへ消えてしまっていた。親しい友人も、恋人もいない。教師ですら、もう彼女の存在を忘れてしまっているのかもしれない。


 この病室へ訪れる者は、俺ひとりだった。


「お前は今、どんな夢を見ているんだ──?」

 日の名残を薄く灯した夕空を眺めながら、閉じ込められた時間の中で穏やかに眠る彼女へ向けて、ひとり言のような問いかけを、俺は口に出した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る