第5話




 「立入禁止」の立て札が掛けてある鎖を乗り越えて、質素な造りの階段を二人で駆け上がる。そこはデジタル放送用の大きな鉄塔の下で、小さな公園ほどの広さの空き地だった。小高い丘の頂上で、さらに道から外れた奥まったところにあるために、普段はほとんど人が寄り付くことがなく、私たち二人だけの特別な場所だった。

 弾む息を抑えながらコンクリートの土台に二人で座る。ベンチよりも、ほんの少し近い距離。ここからは建造中の巨大なパラボラアンテナをすぐ真下に見ることが出来た。

そのアンテナは何年か前、人類が初めて外宇宙からある種の人工的な信号をキャッチしたときに建造が立案されたもので、地球以外にも知的生命がいる可能性がにわかに現実味を帯びたこの未知なる発信源へ向けて、人類の側からもメッセージを送ろうという、途方もない計画から生まれたものだった。そうして世界中で候補地が探された結果、片田舎の小さなこの町が選ばれた。どういう訳か、この土地は電磁的、電波的ノイズが奇跡的に小さいらしい。

「しかしでっかいよな。あれ」

 浩樹君が感慨深げに言った。アンテナはまだ三分の一ほどしか出来上がっていないとはいえ、辺りを囲う作業車や仮設のプレハブが、まるでおもちゃのようにしか見えないほどに小さく、アンテナがいかに巨大であるかを物語っていた。

「おっきいよね。今でさえこんなに大きいのに、完成したらどのくらいになるんだろう」

 今私は、浩樹君と同じ時間、同じ景色を見ている。その何でもない、当たり前のことこそが、私が何よりも強く求めていたものだった。繋がりを感じられる時間はわずかで、あまり見栄えのする景色でもないけれど、この場所と建造中のアンテナが、私と浩樹君を結びつけてくれているように思われて、このひとときが永遠になればいいのにと、私は何度も祈った。

 それでも──。と、私は考えずにはいられない。

 あのアンテナが完成するまで、私はここにいることが出来るだろうか。

「あとどのくらいで完成するのかな」

 出来るだけさりげなく、明日の天気でも窺うように呟いてみる。僅かな希望を乗せてみてはいるものの、浩樹君に正面から聞いてみないのは、答えを聞きたくないという思いが同時にあったのかもしれない。

「親父たちの話じゃ、あと二年くらいはかかるって言ってた」

 浩樹君が残酷に言った。二年……。その頃には、私はきっとここにはいない。全く見知らぬ土地の、浩樹君からは遠く隔たった高校に通っていることだろう。私は──。

「藤咲は、もう進路とか決めたの?」

「えっ……いや、まだだけど……」

 浩樹君の唐突な質問に、つい焦って答えてしまう。浩樹君は少し俯き加減に、照れたような、決心したような顔つきで、何かを言葉にしようとしている。──やめて。その続きを言わないで。

「浩樹君は、もう将来のこととか決めてるの?」

先手を取って、浩樹君の言葉を言わせないようにする。彼は一瞬虚を突かれたような顔になったけれど、すぐに何でもない風を装って、

「うーん……、まあ高校に行って、その後は親父の工場に就職かな」

「すっごい。もうちゃんと先のことまで考えてるんだね」

 浩樹君は「そんなんじゃないよ」と照れ笑いした後、何故かふと表情を暗くした。

「俺、ほんとは嫌なんだ。家族とか土地とかに縛られるの。俺はもっと自分自身を試してみたい。ここじゃない場所で、誰にも、何にも縛られず、自分だけの力で生きてみたいんだ。何が出来るのか、何が出来ないのか。挑戦さえしないままずっとこの場所に留まり続けるなんて、俺は絶対にしたくない。俺は、いつかきっと──」 

 ──そんなあなただから私は惹かれたの。声には出さず呟いてみる。浩樹君は私が望んでも手に入らなかったものを全て持っていて、しかもそれらを呆気なく捨てる覚悟で常に前だけを見ている。それは人とのつながりが欲しくて、共有できる過去ばかりを求めている私には到底持ち得ない希望で、迷いのないその一途な瞳が、私には妬ましくもあり、羨ましくもあった。

 優しい風が吹いて、浩樹君の少し長めの前髪を揺らした。遠くよりもずっと先を見つめている彼の横顔は、ずっと大人びて見えた。

 私が転校したら、この人は私のことを覚えていてくれるだろうか。多分。きっと──。

「何だか、浩樹君を遠くに感じちゃうな……」

浩樹君が少しびっくりした顔を向けた。

「私、みんなに自分のことを忘れられるのが嫌で、ずっと閉じこもって生きてきた。そのくせ内心では人との繋がりが欲しくて、いつも独りでいることが寂しかった。

 そんな後ろ向きなことばかり考えていたから、進路とか、将来のこととか、まるで想像もつかなくて、だから、浩樹君って偉いなあって」

「そんなことないよ、俺も藤咲と一緒さ。迷ってばかりで……。何かを変えたくて、でもどうしていいのか分からなくて。無闇に走ってみたりするけれど、結局何も変わらないことに気が付いて落ち込んだり。ほんと、何やってんだろうな、俺」

 浩樹君の自嘲気味な笑顔に、私はいつかの体育の授業を思い出した。

「でもな、そういう、どうしようもなくやるせない気持ちになったとき、俺はいつもこれを読んでるんだ」

 そう言って浩樹君は鞄から一冊の文庫本を取り出した。黒っぽい地味な表紙にかすれた白い字でタイトルが書かれている。

「前に一度授業でやったとき、すっげぇ印象深くて、何か忘れられなくてさ。

 詩集なんて買うような柄じゃないんだけど、それは、特別」

 浩樹君は一度文庫本に目をやった後、私に本を手渡した。よく見れば黒い色は微妙に藍色で、その中には小さな白いつぶつぶや、それよりもほんの少しだけ大きな赤い丸、黄色い丸などがあって、この表紙が宇宙を表していることに気が付いた。

「二十億光年の孤独……」

 口にした途端、まるで定められた位置があったかのように、その言葉は素直に私の心の底へ降りて行った。

 授業で読んだときには何も感じなかったのに、浩樹君を介して伝えられたとき、そこには夜空にきらめく一等星のような、不思議な懐かしさと力強さを感じさせる響きがあった。

「俺にとってその言葉はお守りみたいなものさ。かなしい時や苦しい時、いつも俺に勇気を与えてくれる」

 浩樹君がアンテナの方を見やりながら呟いた。勇気……。私にも勇気があれば、いつか来る別れの辛さを耐えられるのだろうか。

「ねえ、浩樹君、この本借りていい?」

 私は思い切って聞いてみた。そんなに大切にしているものを簡単に貸してくれるとは思わなかったけれど、浩樹君が大切にしているものなら、私にもきっと勇気を分けてくれると思った。いつか彼に、「さようなら」を告げるための。

「ああ、いいよ」

 夕暮れが近づいてきた空に、浩樹君は微笑みを重ねながら言った。

 それが、私の最後の記憶だった。






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