第3話




 十四歳になってから二ヶ月経った七月、私は恋をしていた。

 彼のことを初めて意識したのは、体育の授業のときだった。その日の授業は基本的な身体能力の測定をするという目的で、五〇メートル走、砲丸投げ、高跳び、走り幅跳びなどの種目を回って、記録を測り、余った時間は自分がもう一度測りたいと思う種目へ行くという内容だった。

 体力のない私は一通り種目を終えると、ぐったりした気持ちで木陰に入り、新しい記録に挑戦しようとする五〇メートル走のランナーたちをぼんやりと眺めていた。

「やっぱり男の子は速いな」

 誰に言うともなく呟いた視線の先で、ふと、ひとりだけ違う行動をしている男の子が目に付いた。ランナーたちが走り終えて、みんな競うように記録を聞きに行っている中、彼だけはまるでタイムには興味がないかのように、そのままUターンしてすぐさまスタートラインに戻り、再び走り出すのだった。それでいて走っているときの顔はいつも真剣で、そこには何かを求めているような、焦がれているような、ある種の切実ささえ感じた。

 どうしてあんな顔で。何を想って走っているんだろう。

 それが、彼に対する私の最初の印象だった。



 彼は名前を宗澤浩樹むねさわひろき君といった。いつの間にか覚えてしまった名前を、時々そらんじてみては、あの日彼が走っていたときの気持ちを想像することが私の癖になっていた。

学校の帰り道、傾きかけた日差しが、道沿いに茂っている梢の影を柔らかく描き出す中を歩きながら、私はその日も浩樹君のことを考えていた。

「どうして彼はあんな風に走っていたんだろう……」


 真っ直ぐに前だけを見て。

 もがくように手を振って。

 力強く脚を突き出し。

 少しも減速することなく加速してゆき。

 しかしゴールへ着いても求めるものは手に入らなかった。

 その悔しそうな顔。


 私はそこで、ふと気が付いた。いったい自分はいつから一度も話したこともない相手のことを、ここまで気にかけるようになったのだろうと。

 父親の仕事の都合で、幼い頃から転校を繰り返してきた私は、誰かと親しくなることを積極的に避けていた。それはせっかく仲良くなった友人と半年も経たずに別れてしまうのが悲しいからというよりも、親しくなった友人から、しだいに便りがなくなってゆくことが、何よりも辛いという理由からだった。

 徐々に減ってゆく手紙、そしてだんだんなおざりになってゆく文面を読みながら、私は優しく身を切り裂かれるような想いを何度も感じていた。友人たちの間で私は過去の人間として置かれ、やがて忘れ去られ、誰の心の中にも留まることも出来ないまま、私は自分が独りであるということを何度も何度も認識させられるのだった。

 誰かと同じ時間を共有しても、いずれまた別れのときがやってくる。私の時間は再びゼロにリセットされ、しかし友人は私といた時間の分だけ前に進む。私を過去形にして。

 だから私は、自らを閉じて自分だけの時間を生きることにしたのだった。

 にもかかわらず、今私は浩樹君のことをとても気にかけている。同じクラスという以外に接点の見当たらない彼のことを、ここまで考えるということの意味を、私は戸惑いながらもようやく理解し始めていた。

 それは私にとって初めての気持ちで、よく聞くような甘酸っぱい感情などではとてもなく、恐れと不安で私はパニックになりかけていた。そのせいで私は最初、自分が声をかけられたことに気が付かなかった。

「……え?」

たっぷり一〇秒近く経ってからようやく顔を上げると、目の前の緩い上り坂から、私を見下ろす格好で、浩樹君が立っていた。ずっと俯きながら歩いていた私は、不覚にも前を歩いているのが浩樹君だと気付きもしなかった。

「同じ方向なら一緒に帰らない?」

 彼が言った。近くもなく、遠くもない距離だった。

 顔が茜に火照るのを夕日のせいにしながら、わたしは「うん」と答えた。




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