ひかりをこえて

宵待なつこ

第1話タイム・ディファレンス─1




 白い天井を背景にして、かざした自分の手を見つめながら、「これはいったい誰の掌だろう」という思いと共に、私は目覚めた。ぼんやりした意識の中で、遠くから聞こえる蝉の声と、わずかに開いた窓の先に覗く青空が、どことなく寂しそうに心の中へと入ってくる。

 部屋の中は白を基調とした簡素なもので、一人用の個室らしく、私の他には誰もいなかった。判然としない頭で左右を見回すと、何らかの数値や波線を表示している機械から、複雑な配線を絡ませないように、私の身体へ向かって沢山のチューブが伸びている。視線を少し上に上げると、私の腕に繋がれた点滴パックがじれったそうに雫を垂らしていた。そこに至って、私は初めてここが病院であるらしいということが分かった。

 どうしてこんなところに寝かされているのか、それ以前に私は誰だったか、よく思い出せなかったけれど、それは記憶喪失というより、寝起きの頭ではっきりと物事が考えられないという感覚に近かった。状況が漠然とし過ぎていて、何をどこから考えていいか分からないということもあった。

 それでも私が焦りも恐怖も感じずにいられたのは、病室を抜けてゆく白い風が、あまりにも優しく、穏やかに、私の身体を透き通って行ってくれたおかげだった。

 私はもう一度空の青を目に映してから、ナースコールに手を伸ばした。



 先生が病室に入ってくる頃には、私の意識は大分はっきりとしていた。ぴんと張られたベッドシーツの冷たい感触や、小さな花瓶に生けられたくちなしの花の微かな香り、カーテンを越して足先に描かれた格子縞の陽光などをひとつひとつ感じながら、私は少しずつ現実感を取り戻していった。それでも自分が此処にいる理由を思い出そうとすると、焦点のずれた景色を覗くように、手にした意識がぼんやりと輪郭を失ってゆくのだった。

 身体のだるさを我慢しながら、何とか半身を起こして先生を迎えると、よほどびっくりしたのだろう、先生は医者であるにもかかわらず、「驚いたな……」と思わず口にした一言が、私の耳にも届いた。

 先生は機械が表示している情報──それは多分、私の脈拍とか血圧、脳波といったものなのだろう──を読み取りながら、時おり身体の具合を尋ねてきた。最初のうちは、のどが干からびたようで上手く声を出せなかったけれど、何度か繰り返すうちに少しずつ出せるようになった。

 一通り私の体調を調べ終えて、先生は簡易椅子に座ると、「さて……」と前置きして、優しく微笑みながら私に向き直った。

「これから君にさっきとは違う質問をするよ。簡単な質問だけど、分からなかったら、分からないと答えてくれればいい。あまり緊張しないで、リラックスして答えてもらえればいいからね」

 私は頷いた。

「君の名前は?」

藤咲燈子ふじさきとうこ

「年齢は?」

「十四歳」

 先生の動きが一瞬固まる。後ろに立っていた看護士の二人も、顔には出さなかったけれど、こころなしか動揺しているように思われた。先生が何事もなかったように続ける。

「家族は?」

「お父さんとお母さんと私の三人」

「住所は?」

 そんな感じで質問は続いた。私自身に関すること、簡単な計算問題、一般的な常識やマナーなど、どれも小学生でも答えられるような他愛も無いもので、滞りなく私は全ての質問に答えていった。

「──それじゃ、次が最後の質問」と言って先生はやや居住まいを正して、「今はいつだと思う?」

 私は直感的にこの質問が、他とは違う、重要な意味を含んでいると悟った。先生も看護士の二人も、意識して緊張を隠しているという風な面持ちだったからだ。

 けれども私は、どうして三人がそんなことで固くなっているのか見当もつかなかったし、ごまかしようもなかったので、正直に答えた。

「二〇一〇年の、七月……」

 先生は「やはり……」という顔つきで看護士と目を合わせた。空はどこまでも青く、蝉は変わらず静かに鳴いている。ただ、白い風だけが止んでいて、それは私の中の、何か大切なものが抜け落ちてしまったかのようだった。私はその見えない何かを探して手をそっと伸ばしてみたけれど、掌に触れたのは白い風ではなく──。

「藤咲さん、こういったことは早めに知っておいたほうがよろしいかと思いますので、お伝えしようと思いますが、どうか気を落ち着けて聞いて下さい」

 先生が静かで抑制の効いた声を作りながら言った。さっきまでの慣れ慣れしい口調とは違う、深刻さを孕んでいた。

「あなたは、お父様が運転されていた車で事故に遭ったのです。残念ながら生命を取り留めたのはあなたひとりで、ずっと意識不明のまま、三年間、あなたは眠り続けていたのです」

「──えっ────?」

 カーテンが揺れて、風が戻ってきた。しかし風は私を避けて通り抜けていった。

「今は、二〇一三年の七月なのですよ」

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