第9話 危機回避

 それでも数か月もすれば、相手も使えるようになっていく。


 しゅう嬋娟せんけんは頭の悪い娘ではなかった。

 ただひたすらに天真爛漫てんしんらんまんで、そして夢みがちな少女だった。

 つらいこと、哀しいことなどなにも知らず、明日が今日と同じように幸せであることを信じてやまない――そんな彼女に心を慰められる部分は、多少はあった。


 気をもむことのほうが、たくさんあったけれども。それに麗丹れいたんと逆の意味で、この後宮を渡っていけるか心配になったけれど。


 とはいえ、彼女の場合はこの数年を乗りきればいいのだ。


 いわゆる名家枠の女官たちは、はくをつけるために宮中に入っている感がある。数年ここで働けば箔がつき、嫁ぐときに条件が有利になるからだ。

 また勤めている最中も、あわよくば高官に見初められたり、皇族をはじめ皇帝のお手がついたり……というような、ある意味夢にあふれた職場である。

 嬋娟もそういうふうに勤め、やがて去っていく……そんなことを梅花は思っていた。



 ところで、最近皇后は皇帝からのちょうあいを失いつつあるらしい……そんな噂が、後宮内には流れている。

 しかもかなりのしんぴょう性を持って。

 色衰えて愛ゆるむとはまさにこのことである。

 よく保ったものだと、梅花は感心していた。思えば梅花が後宮の隅っこに追いやられて、十年が経っている。それ以上の間、皇帝の寵愛をほとんど独占していたというのだから恐れいる。

 伝説的なめいでもそこまでの間、同じ客を掴み続けるのは難しいというのに……いやあれは客商売だから、比べるのは不公平というものかと、梅花は人ごとのように考えている。

 しかし皇后が寵愛を失った結果、人ごとでは終わらない事態も起こっている。


 皇后に飽きた皇帝が、漁色にふけりはじめたのだ。


 元々女好きで、皇后が現れるまでは女をとっかえひっかえし、皇后も一回は取りかえたのが今の皇帝だ。

 十年保ったのは本当に奇跡的といえる……というか、今の皇后にのめりこんでいた間も、けっこうな頻度でつまみ食いはしていたのだから、今このように女をあさっているのはもはや当然の流れといえよう。


 その結果、ひんたちが寵愛を得ようと張りきり、あれやこれやと趣向をこらす。

 しかしそれを実行するために動くのは本人ではなく、女官たちである。したがってばいたちは大わらわである。


 しかも皇帝は女官にも手を出し、中には妃嬪の列に加える場合もままある。そうなると当然のことだが、人手が足りなくなる。

 妃嬪の前に出るような立場ではない梅花も、いつもよりは人目につく場に出ざるを得なかった。


 それでもなるべく目立たない仕事をと気をつけていたのだが……ある日、池で蓮の露を集めているときに、長らく感じなかった、しかしかつてはんでいた視線がふいに頬をでたのを梅花は感じた。

 ぱっと顔を上げると、その先には皇帝がいた。

 慌てて一度平伏すると、梅花は呼び止められる前にそそくさと去った。あの目……あれは情欲だ。


 自分が皇帝に召されるかもしれない……そう思った瞬間、おそろしいほどの嫌悪を覚えた。

 かつては自分の生活の一部だったというのに。

 そしてそれを覚悟して、宮妓になったことさえあるというのに。


        ※


 初めて押しかけてきた梅花を、じょとくは快く招きいれた。

「徳妃さま、お助けください」

「……なにがあった?」

 梅花の説明を聞き、徳妃は戸惑いを顔に浮かべた。

たいの殿方としての善し悪しをここで語るつもりはないが……そなたまことに寵愛を受けるのが嫌なのか?」

 そちらこそなんで皇帝のきさきやっているのかというような物言いである。

 そういえば彼女は妃嬪たちの寵愛合戦についても、なんのそのという様子で日々を過ごしている……もっとも、寵愛を争うには年を取りすぎているのも事実だ。


 なんにせよ梅花はそこを追及するつもりはなかった。ただ嫌であるという旨を告げると、徳妃はうなった。


「そなたは皇后に、まるで恨みを持っておらぬのだな……」

「以前申しあげたとおりです」

「確かにそうではあったが……まあよい。後宮から出してやろうか? そなたには世話になったしな。今ならばかなりよい嫁ぎ先を用意してやれる」


 魅力的な提案であった。

 だが梅花は、一瞬戸惑った。


 女官としての立場で得たものを、惜しいと思ってしまったのだ。

 その逡巡しゅんじゅんを察したのか、徳妃は「まあ、後宮を出すにしても時間がかかるからな……」と、提案を取りさげた。

「今日から大家好みの女をあてがってやる。それでしばらくはそなたのことを忘れるであろう」

「はい……」

 しばらくは、というあたりにとてつもない不安を感じる。絶対に忘れてはくれないのか……と思ったところで、徳妃がいっそ傲然ごうぜんと言いはなった。


「その間に、そなたは太れ」


 今なんと申しましたか? と梅花が問い返す前に、徳妃はもう一回言った。

「太れ」


 おかげで「はい」とも「いいえ」とも言えず固まる梅花に、徳妃は少しだけ声を優しくして説明してくれた。

「大家がそなたの外見を見初めたのであれば、その外見を変えればよい」


 真理だ、と思った。


        ※


「梅花、どうしたの?」

 山ほどの菓子を抱えて戻ってきた梅花に、嬋娟は目をぱちくりと開いた。

 大家からの興味をらそう大作戦であるとは当然言えず、梅花は「最近、お腹がすくの」と返した。

 嬋娟は特に疑問に思った様子もなく、「そうなのね」と屈託なく笑った。


 その日から、梅花の増量の日々が始まった。

 いかに効率よく肉をつけるかを考えながら、食べる、食べる。


 麗丹は心配していたが、嬋娟はそうでもなかった。

「梅花は最近、たくさん働いているもの。だからたくさん食べる必要があるんだわ」

 そう言って、自分の食事を梅花に分けようとさえする。

 気持ちはありがたいが、自分のぶんは自分で消費してほしいので、だいたいは断る。それでもたまに断りきれずに口に運ぶと、嬋娟は喜んだ。

 その姿を見ると、微笑ましさと、ちょっとした罪悪感を感じないでもなかったが、それでも梅花は計画的に太ろうとするのをやめなかった。


 そして見事に成功した。

 ついでに、太ると自分の歌声がよく響くのを感じたので、今後ずっとこの体型でいこうと決めた。


 そんな思わぬ副産物を得た梅花の体型は、皇帝の興味も完全に消滅させてくれた。目標の体重まで達成した梅花は、皇帝の前にあえて姿をさらすようにした。

 最初は目障りな景観だな……というようなまなししか得られなかったが、ある日皇帝の「おや?」という目線を受けたのを感じ、すぐにそれが落胆に変わったのを確認し、事成れりと確信したのだった。

 喜びを胸にのしのしと立ち去る梅花は気づかなかった。

 自分を呼びにきた嬋娟に、皇帝が目を留めたのを。

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