第6話 徐徳妃という妃嬪

 奴婢ぬひとしてのばいは、めきめきと頭角を現していった。

 冷静で、それでいて人の感情の機微にさとく、頭の回転も速い。


 そんな彼女が周囲に重んじられるようになるまで、さほど時間はかからなかった。同時に、梅花に悪感情を抱く者も増えていった。

 梅花はその事実について思うことはなかった。一つの状態は、相反する現象を招くことがままある。


 優秀だから、頼りにされる。

 優秀だから、疎まれる。


 以前自分がここに来たときだって、同情されたのも、いじめを受けたのも同じ理由からだ――梅花がとてもかわいそうな人間だから。

 世の中はそういうふうにできている。だから割りきって、自分にとっての利益を追求し、不利益を排除するべく動こうと梅花は思っていた。後宮でそれは、とても賢明な生き方だった。


 ただ同時に、感傷的な面が自分の心に存在していたのを、この時期の梅花は初めて知った。

 梅花にとって歌は、彼女を妓女たらしめる最たる要素だった。

 だからじょではない自分には、もはや必要のないもののはずだった。けれどもときおり、歌わずにはいられない気持ちになった。それは妓女である母と妹たち、そして亡き姉のことを思うときだった。

 歌うときに梅花は、ほんの少しだけ妓女である自分を取りもどし、そして彼女たちとつながっている気持ちになれた。

 そうして姉のために涙を流し、母と妹たちの身を案じた。


 今の梅花には外部の情報を得る手立てがなかった。そんなときだけ、もしも自分が宮妓のままだったら、と思ったりもした。

 あきらめが悪い、という気持ちが自分にあるのもこの時期に知ったものだった。


 宮妓は日常生活においては妃嬪よりも自由度が高い。特に選りすぐりの宮妓が入るせんしゅんいんの住人になれば、家族に自由に会うという特権が得られる。

 自分の歌ならば、それも夢ではなかっただろう。そんな考えが梅花の心中によぎることがあった。それは根拠のない自信ではなかった。梅花が今この場にいることが、そのあかしだった。

 宣春院に入った妓女は、皇帝と接触する機会が格段に多い。だから貴妃はそうなりかねない女――梅花を排除したのだ。

 皮肉なことに貴妃の仕打ちが、梅花の技量の高さを裏打ちしていた。


 しかしそれも過去のことだ。


 以前と違って、練習する時間のまったくないのどは日々衰えている。歌うたびに、そのことを突きつけられて、少し落ち込み、やがて立ちなおる……梅花はそんな日々を過ごしていた。


 人にわれて、歌うこともあった。

 後宮という場は、妃嬪たちでさえ倦んでいる場所だ。ましてや奴婢たちは娯楽に飢えている。そんな彼女たちにとって、梅花の歌は慰めになっていた。

 梅花にしても、夜間に人さまのご迷惑にならないよう気をつかって歌うのは面倒くさいから、堂々と歌う環境が得られるのはありがたい。

 だからそういう気持ちになったときには、一曲歌ってもいいかしら? と自分から持ちかけるようにもなった。感傷は打算と両立するらしいとも思いながら。



 そんなふうに、ある程度割りきって生活していたある日、梅花は一人の妃嬪に呼びだされた。

 しんではない。別のひんだ。



 このころ、梅花は一人の女官の下働きになっていた。彼女に連れられて向かった先には、一人の美しい女がいた。だが美しい女ならば、自分を含めていくらでも知っている。

 梅花は自分以上姉以下、ただしやや年増だから総合的には自分と同等だなと見定めながら、主と並んで平伏する。

じょとくさまに拝謁いたします」

「楽になさい」

 許しをもらって身を起こす梅花に、徐徳妃は柔らかい笑みを向ける。

りゅう梅花と申したな」

「はい」

 頷いた梅花に、彼女は問いかける。


「そなた、貴妃を恨んでおろう?」


 笑みの柔らかさに反して、視線は鋭かった。

 それを受ける梅花は、一瞬もためらわなかった。

「いいえ。そのようなことは断じてございません」

「ほう?」

 視線がさらに鋭さを増した。


 梅花の言っていることは、本音である。

 沈貴妃に対して恨みはない。


 冷静に評価すれば彼女は、危険に飛びこむほどほどの勇気と、度を超えない我慢強さと、自分が処理できる範囲をわきまえている頭の良さを持った女性だと思っている。

 梅花を奴婢に引きずり落とした一件、あれは貴妃も多少なりとも危険を負っていたはずだった。

 なんといっても公妓が不足している折に、せっかく集めた者を使えない状態にしたのだ。しかも人目がある場で。

 おもてになれば、彼女の立場は悪くなる可能性がある。それでも決行したのは彼女に勇気がある証だ。


 そしてあの場、梅花ほどではなくても歌の上手うまい者は数名いた。そうであるにもかかわらず、その者たちには手を出さず一人に絞ったこと。そして舞などの他の技芸には、一切手を出さなかったこと。


 それは彼女の自制心と、一人だけならば言いわけのしようもあるという判断によるものだ。

 その結果彼女に目をつけられたのが梅花であるというのは、巡りあわせが悪かったとしかいいようがない。もうほんとうに、それ以外の表現ができない。


 ということは、それだけの話なのだ。


 もっとも、ここまで沈貴妃を擁護しておいてなんだが、好感についてはかけらも持っていないが……というところだけは省いて、梅花は徳妃に説明してのけた。


 彼女がここまでぶちまけているのは、覚悟があってのことだ。

 今の主――ぼくしょうがくは、梅花が奴婢になったいきさつを知っている。その彼女が貴妃以外の妃嬪に引き合わせようとした時点で、梅花は利用される可能性を覚悟した。

 そのうえで手を打ち、そしてそれを示すために今ここで梅花は、思っていることをすべて述べたのである。


 梅花を見下ろす徐徳妃のまざしが、ふと柔らかくなった。

 そして墨尚楽に顔を向けた。


「墨尚楽、そなたが見込んだことはある」

「わたくしも驚きましたわ。ここまで胆力のある娘だったとは」

 苦笑いしている彼女はちら、と梅花に顔を向ける。やはり読まれていたか……と、梅花は背に冷たい汗が一滴流れるのを感じた。

 手は打っているとはいっても、多分に誇張を含んでいるのは確かだ。今の梅花には、まだできることが限られている。

「……確かにこの娘は、徳妃さまのおっしゃるとおりにするほうが、もっともよいでしょうね」

 どこかためらいがちに言う墨尚楽に、徐徳妃は面白そうに笑った。

「宣春院に未練があるのか」

「いささか。やはり惜しい才ですから」

「かなり時間が経っているはずだが。びついているのでは?」

「喉には休養も必要ですわ」

 梅花は二人の会話を無言で聞きながら、自分の出方を考えあぐねていた。彼女たちは自分になにをさせようとしているのか、見きわめられない。


「案ずることはない」

 そんな彼女に、徳妃が声をかけた。


「利用するつもりはない……そなたが思っているかたちではな」

 もっと悪いかたちで利用される可能性もあるわけだ……そんなことを思いながら、梅花は目を伏せる。

「じきに時がくる。そうなれば墨尚楽を通して呼ぶ。そのうえで判断をするといい……そなたにとっても、悪い話ではない」


 梅花はなにも言わなかった。ただ深々と頭を下げた。

 今は話すべきときではないと思ったからだ。言質をとられる可能性は一切排除する必要がある。



 徐徳妃の前を退出し、梅花は墨尚楽と共に、彼女の私室へ向かった。

「少なくとも、今はなにも持ちかけませんよ」

「…………」

 梅花は無言でうなずく。

 すると墨尚楽は再び苦笑した。

「警戒心が強いこと。お前はあきれるほどこだわりがないようで、それでいて危機感が強い。花街の妓女とは皆そういうものなのかしら」

「…………」

「まあよいでしょう。一つだけ言っておきますね。徳妃さまなりの楽しみがかかわっている話です」

「…………」

 ――楽しみ……。

 なにをどう楽しんでいるのか、ぜんぜんわからないあたり趣味が悪いと思ったが、人に迷惑をかけなければそれでいい。

 そう、梅花に迷惑をかけなければ。

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