第2話 妹たち
夜の
「ねえさん、今日はどう結いますか?」
「
どうしてその装いにするかを、詳しく説明しながら決めていく。
「では
「そのとおりよ」
言って梅花は鏡に向かう。眉を描くことは、化粧で一番重視される。だから眉の形は色々あり、それらにはすべて名前がついている。
準備を終え、最後に肩掛けを身にまとう。
「そろそろ迎えが来たかしら」
絹の靴を履きながら外のほうに顔を向けると、蘭君は「外を見てきますね」と言って房室を出ていった。ほどなく戻ってきた彼女は、迎えの
「では行きましょう」
房室を出たところで、梅花は
「もう起きたの?」
夜になる前に菊珍は午睡をとる。いつもならばもう少しゆっくり寝ているはずなのだが。
「今日は房さまのお相手を任せてくれたでしょう。だから、早めに起きて準備しないとと思って」
「そうね、よろしく頼むわ」
梅花は頷く。
房
房にとっても悪い話ではないはずだ。梅花より格上の妓女に、いつもと同じ料金で相手をしてもらえるのだから。
「でも頑張りすぎて、ねえさんからお客を奪うような真似はしないわ」
「別に取ってもいいわよ。ただその場合は、今日より料金が上がるということ、房さまにお伝えしておくのよ」
なんといっても今日の料金は、特別にお安くしているのだから。
その点についてはきちんとしておくようにと真顔で
「もう、ねえさんったら、いつもそう。こだわりがないんだから」
「そうかしら」
梅花は小首を傾げた。別にこだわりがないわけではないが、梅花にとってのこだわりは、どうすればこの妓楼全体の益になるかだ。
「……そろそろ時間だわ。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
階下へ向かう梅花に、菊珍は笑って
宴は盛りあがり、もらった料金に、ふさわしいぶんだけの働きはした。
梅花は自分の仕事に少なからず満足感を覚えながら、今日の伴奏を務めてくれた妓女に
相手もそう思っているようで、お互い自分のことを紹介しあう。
しかし相手は梅花の妓楼の名を聞き、ふと怪訝な顔になった。
「あなたのところには、あの
梅花は苦笑して返す。
「今はどこのお呼びにも
こういう物言いの場合、普通ならば相手の体調不良を疑うところである。だがこの花街では別の意味を持つ場合がある。
「まあ……それはよかったわね」
梅花がそういう意図で言っていることが、わかったのだろう。伴奏の妓女はにこやかに笑った。
そんな彼女たちに、豪放な声がかかる。
「どうした梅花、まだ戻らぬのか?」
梅花は甘えを含んだ笑みを浮かべて、声の主のほうを向く。
「呂さまのもとを離れがたくて……」
「上手だな」
そう言いつつも、呂氏はまんざらでもなさそうだ。
「しかしやはり宴にはそなたの歌がなければ興が乗らぬ」
「まあ
「まさか! この私がお前を見限るなどあるわけがないだろう」
こういうかけひきのようなやりとりを、梅花は特に楽しむでも悲しむでもなくこなすことができる。慣れているから……というものでもない。はじめからそうだった。きっと終わりもそうなのだろう。
妓楼に戻ったころには、もはや朝が近かった。
花街にとっては、これが『夕方』である。そろそろ寝る準備を始める時間だ。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
梅花の声に、蘭君が顔を出す。
「着替えをするわ。手伝ってちょうだい」
「はい。お湯を持ってきますね」
房室に戻り、結いあげていた髪をほどく。その髪に触れる手があった。
「ありが……」
いつの間にか入ってきた蘭君が髪を
「……ねえさん、なにか用ですか?」
梅花は彼女に片手を差し出しながら、問いかける。竹葉はその手をとって、指を滑らせる。
――呂さまの宴席に呼ばれたと聞いたわ。
「ええ、そうです」
梅花が
――今日の宴席は、わたしも呼ばれていたのではなくて。
梅花はあいまいな返答をする。
「……呂さまはお声がけをなさりたかったようですが」
――聞いていないわ。
「仕方がないことです。今ねえさんは、他のお客をとれないのですから」
今の彼女は、「
その一人が大金を払って彼女を囲っているのだ。
菊珍が「あんないい
そういうわけで竹葉は、役所がらみの宴でもない限り他の客をとることも、宴席に
そんな自分の立場をわかっているはずなのに、彼女は
――あなたの歌に、わたしの演奏がないなんて。
梅花は口元に笑みが浮かぶのを感じた。なんてかわいらしい人だろう。この人は
梅花は竹葉をそっと抱きしめてささやいた。
「わたしも、ねえさんの伴奏が一番です」
梅花の最優先事項はこの妓楼だ。それはこの花街で、梅花の大事な姉妹を守る場だからだ。だから姉妹のために、梅花はこの妓楼に尽くすのだ。
しばらくの間抱擁していると、身を離した竹葉は再び梅花の手をとって、文字を記しはじめる。
――着替えが終わったら、菊珍のところに行ってくれる?
「ええ。房さまのお相手の様子について、聞きにいくつもりでしたが……」
――房さまがお帰りになってから、少し
「なにか手抜かりがあったのですか?」
――そういうことではないと思う。確かに房さまのお帰りは早めだったけれど……。
「そう……ですか」
梅花は頷き、姉と、お湯を持ってきた蘭君に手伝ってもらいながら、急いで着替えた。そして詩歌集を携えて、菊珍の房室へ向かった。
「菊珍、まだ起きているかしら?」
「ええ」
「入っても?」
「もちろんよ」
菊珍の声は明るかった。
だが花街の女の常として、梅花は感情の機微には敏感だ。その中でも声から悟ることに関しては、人一倍上手に感じ取る自信がある。
そんな梅花は菊珍の声を聞き、眉をひそめた。確かにこれは塞ぎこんでいる。
房室に入ると、菊珍は一人碁を打っていた。
「今日は房さまのお相手、ありがとう」
「いいのよ。疲れることもないお相手だったし」
「そう、よかった」
梅花は当たり障りのないやりとりをするだけで、あえて様子を聞きだそうとはしなかった。
「歌についてちょっと聞いてもいいかしら?」
「ええ、なに?」
菊珍から話を引き出すには、時間がかかる。そのことをわかっているから、梅花は口実を用意していた。
「今日の宴で、ほかの歌妓がこの詩を歌っていたの。とてもよかったから、わたしも練習したくて。よかったらわたしの解釈を聞いてくれる?」
「いいわ」
歌妓という立場上、梅花は詩歌に精通している菊珍に意見を求めることがままあった。菊珍も数多い特技のなかで、特に詩歌を好むため、嫌がったためしがない。
詩は若い娘に想いを寄せる青年の気持ちを詠んだものだ。題材としてはとりたてて珍しいものではない。
言葉選びもどこか稚拙であるが、それだけに率直な気持ちがにじみでるものだ。だから詩書に記されるのだろうと、納得できるほどに。
文字を指でたどりながら、菊珍がぽつりと呟いた。
「この青年は、
「そうかもしれないわね」
さらりと返す梅花に、菊珍が「あら」と声をあげる。
「ねえさんは、こういう人は嫌いなの?」
「嫌いもなにも、出会いようがないもの。一途な殿方なら、まず花街になど来ないでしょうに」
「……ねえさんらしいわ」
菊珍がふふっと笑う。
「でも、そう思うのだったら……ねえさんにこの歌は、あまり合わないのかもしれないわ」
「そうかしら……」
菊珍の意見はどこか失礼であるが、姉としてその率直さには慣れている。
「きっと、誰よりも上手に歌えると思うけれど」
それに最後には、必ず一言褒めるのもわかっているから。
「……もうそろそろ寝ましょう。姉さんは疲れているでしょ」
菊珍は付けくわえるように言った。梅花は頷く。
「ええ。また付きあってくれる?」
「もちろん」
梅花は菊珍の房室をあとにした。
なるべく時間を作って、彼女と一緒にいようと思いながら。
菊珍はいつも、どこか皮肉げな態度で心を囲いこんでいるが、一度塞ぎこむとどんどん悪い方向へ思考を持っていく。それも他人に悟らせないように。
――難しい子だわ……。
苦笑しつつも、梅花はそんな彼女のことが嫌いではなかった。そんな彼女とこれからも付きあっていくのだろう。
そう思っていた。
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