短編集:G爺

夕涼みに麦茶

G爺

 僕はおじいちゃんが大好きだ。よくお膝の上に座らせてくれるし、僕の大好きなお菓子もくれる。特別なことを何もしていないのに頭を撫でて褒めてくれたりもした。昔のこととか楽しい遊びとか色々知っていて、おじいちゃんからあれこれ教えてもらえるのも嬉しくて楽しかった。いつか指切りで約束したことがある。いつまでもずっと、僕の側に居てくれるって。毎日笑顔で楽しい日々を送ろうって。なのにその約束は守られることはなかった。おじいちゃんは天に旅立っていった。人はいつか、体から魂が抜けて、天国という場所に行って世界中の皆の幸せを見守る仕事をするんだって、お母さんは言っていた。そういう決まりなら仕方ないけど、僕はやっぱり寂しかった。優しいおじいちゃんともう一度会いたい。おじいちゃんが旅立ってから、僕は毎日神様にお願いした。ちゃんとお祈りすれば、神様はそれを叶えてくれるって、最近読んだ絵本に書いてあった。僕は毎朝毎晩、ギラギラのお天道様とピカピカのお月様に向かって手を合わせた。おじいちゃんにお祈りを捧げる時と同じように。毎日毎日、神様に願いが届くように。お祈りを始めてから何日も経ったある時、神様は僕の願いを聞き入れてくれた。

 お部屋で積み木をしていると、カサカサと小さな黒い何かが床を這って近付いてきた。よく見ると、黒ではなく茶色っぽい光沢を持つ虫さんだった。初めて見る姿に心を惹かれて、好奇心から僕はゆっくりと虫さんに手を伸ばす。けれど、虫さんは怖かったのか、それとも照れ臭かったのか、素早い動きで積み木の門を潜り抜けて、本棚の下に走り去ってしまった。

 その次の日、おじいちゃんによく読んでもらっていた絵本を自分で読もうと頑張っていると、ページを捲ろうとして視線を一瞬本から外した時に、玩具箱の近くの床に黒っぽいものが見えた。気になって本をその場に置き、立ち上がって黒いものに近付いていくと、黒いものは猛スピードで箪笥の下に滑り込んでしまった。その機敏な動きから、昨日の虫さんだったというのが分かった。せっかくだし挨拶をしようと箪笥の下を覗き込んだが、虫さんの姿は既になくなっていた。

 それから二日後、三日後、四日後…。僕が何かをしていると、決まって茶色い虫さんが姿を現した。何度も僕の様子を見に来る熱心な虫さん。けれども僕が挨拶に行こうとするとすぐに物影に逃げちゃう。何でだろうとずっと考えていたが、僕はふと、ある絵本のお話を思い出した。神様に家族との再会を願ったお父さんの話だ。お父さんは天国に旅立ってからも家族のことが忘れられず、最後にもう一度だけ家族に会いたいと神様にお願いするのだけど、神様はちょっぴり意地悪で、お父さんを青い小鳥に変えて、その姿でなら家族の元に帰ってもいいと言う。お父さんは家族にもう一度会えるならばと、慣れない鳥の羽を懸命に羽ばたかせて、家族の元へと帰って行った。中身がお父さんと気付かずに、その青い鳥を見つけた家族は、人懐っこさから彼を飼うことに決め、形は変わってしまったけど家族みんなが幸せに暮らしました…というものだ。この話から察するに、度々僕の様子を見にやってくるこの虫さんは、もしかしたらおじいちゃんなのかもしれない。僕との約束を果たそうとして、神様にお願いしたら、虫さんに姿を変えられて、それでも僕に会いに来てくれたのだろう。僕が近付くと逃げるのは、きっと神様との決まりごとか何かかもしれない。お話できないのは寂しいけど、そう思うとなんだか嬉しくなって、自然と笑顔になった。僕の考えを裏付けるように、距離を置いた状態で笑顔で手を振ると、虫さんは逃げることなく触覚をピョコピョコさせて返事をしてくれた。やはり、あれはおじいちゃんなんだ。僕といつまでも一緒に居られるように帰って来てくれた。僕は心の中でちょっぴり意地悪な神様にお礼を述べて、小さなおじいちゃんとの日常に心を満たした。


 一体どうしたことだろうか、この不思議な感情は。昔お袋から、人間という巨大生物は狡猾かつ獰猛で野蛮だから気を付けるようにと言われていた。それを証明するようにお袋は人間の仕掛けた罠に嵌り死んだ。だからといって人間に恨みを抱くつもりは無い。自然界での弱肉強食は当たり前。お袋は自然の摂理に抗えなかっただけだ。それにお袋が掛かった罠だって、何も彼女をピンポイントに狙ってのものじゃない。私怨以上に、自分も同じ轍を踏まないという教訓を噛み締める方が大きかった。そのためにも、人間との接触は極力避けようと考えていたが、同じ空間に住む以上は、どこかで必ず出会うことにはなるだろう。実際、俺は一人の人間に見つかってしまった。人間程ではないが、俺たちの脅威の一つでもあるムカデが、進行方向の物影で休んでいた。仕方なく俺は物影を出て奴に気付かれないように回り道をしようと考えたわけだが、明るみに出たところで一瞬背筋が凍った。前方で巨大な生物が色鮮やかな資材を使い、何かを建造している。あれは紛れもなく人間だ。毒沼を避けて通ろうとしたら、凶暴な怪物に出くわしてしまったのだ。それにしても、この人間、どことなく寂しそうな様子である。お袋を亡くしたあの日の俺みたいに。思いもせずに人間の様子が気になり、ボーっと眺めていると、人間はこちらに気付いてしまったようで、大きな右手をゆっくりと伸ばしてきて俺を掴もうとしてきた。目の前の脅威に我に返った俺は、慌てて全力疾走。建造中の門らしきものを潜り抜けて、すかさず物影に隠れた。人間は一度首を傾げると、再び建造作業に戻る。危なかった。人間との同居は、常に死が付き纏う。油断は大敵なのだ。それにしても…。背中を向けて座る人間を遠目に見る。手を伸ばしてきた時の元気さはそこにはなく、やはり悲しみの色が伺えた。共感…というわけではないが、あの人間のことが何故だか気になって仕方なかった。

 翌日、どうしても好奇心が抑えきれず、再び同じ場所にやってきた。すると、思っていた通り、昨日の人間が巨大な本を見ながら床に座り込んでいた。奴の憂いは発散されていないようで、見ているだけで胸を締め付けられそうになった。もっと間近でよく見たいと、無意識に物影から出てきて、少しだけ近付いてしまう。それが不味かった。人間は本を捲ろうとしていたところで俺の姿を捉えてしまう。本を置き、地を揺らしながら巨体が逆に近付いてくる。迫り来る巨獣に身の危険を感じ、俺はすかさず近くの物陰に逃げた。昨日とは違い、屈んで物影の中まで覗き込む人間に恐怖を感じながらも、壁面に張り付いて視界から外れてやり過ごした。程なくして諦めたように人間は本の場所に戻っていく。危機を回避して、壁からゆっくりと降りて物影から人間を見る。床に腰を下ろし、再び読書に戻ったようだ。またこちらに来る可能性もなくはなかったものの、不思議と目を惹きつける魅力が奴にはあり、しばらくその姿をぼんやり見つめていた。

 それから毎日のように、俺は人間の観察に没頭した。わざわざ自分から命の危険にさらされに行くのだから、我ながらアホだと思うが、どうしてもあの人間が気になって仕方なかった。憂いの正体を見極めたいという訳ではないが、俺の心を惹きつけて止まない彼の魅力が何なのか、気になって仕方なかった。幸い、俺が接近されてからの退避行動を続けたことが功を奏したのか、人間は俺を見つけても不用意に距離を詰めなくなった。加えてどこか嬉しそうに手を振ってこちらに何か好意的なジェスチャーをしてくる。人間の狡猾さは過去の経験で理解していたが、彼の見せる仕草には悪意が全く感じられないように思えた。気付けば俺も、触覚を左右に振って合図を返していた。これが俺と人間の今の限界交流ラインだろう。だがそれだけで俺の心は不思議と満たされた。それは相手も同じようで、毎日会いに行くと決まって挨拶をし合った。奇妙な関係が続くうちに、人間の纏っていた悲しみのオーラは次第に薄れていったように感じた。

 今日もまた、いつものように決まった時間に物陰から出て、建造に勤しむ人間の視界に入る。俺に気付いた人間は、朗らかな様子で資材から手を離し、小さく左右に手を振ってきた。それに答える形で俺も触覚を器用に動かした。今日はいつもとは違い、一つの決心をしてきた。会合を積み重ねてきた今、俺とこの人間の間には特別な絆が生まれたと自負している。そこには互いの思惑など一切無く、純粋に親しい関係が築かれていると信じている。とすれば、彼との直接的な接触も可能ではないかと考えた。とはいえ、いきなりこちらから接するのは怖かったので、勇気を出して彼の手が届く範囲まで距離を詰めることを第一目標として考えた。俺は震える足をゆっくりと前に出していき、一歩ずつ着実に人間に近付く。俺の決意に感づいたのか、人間は黙って俺の行動を見守る。建造中の建物の側、彼の手が届く範囲で足を止めると、彼は指を一本だけ立てて、俺が恐怖を感じないようにかゆっくりとその指を下ろして、軽く背中の羽に触れた。一瞬体がピンと跳ねたが、それでも彼に悪意は無いのだと堪えた。緊張感は次第に解れ、指の感触が逆に心地良く思えてくる。人間の体温というものはこんなに温かくて気持ち良かったのか。俺の様子を見ていた人間も安心したようで、優しく羽を指で撫でてくれた。その感覚が、昔お袋に羽の手入れをしてもらったときのものにそっくりで、胸の奥まで温かくなった。昔から人間は危険な化け物だと教えられてきたが、それも結局は人によるのかもしれない。この人間の様に他種族に理解を示し、こうして労ってくれる者もいるのだから。心地良い指のマッサージに眠気を覚えていたところで、視界に入った存在に意識が研ぎ澄まされる。人間の左手方向から彼に向かってゆっくりと近付いてくる多足の悪魔。ムカデが彼の足の方に歩いていた。ムカデに詳しい知人から聞いたことがある。体内に毒を持つムカデは、時に巨大な人間でさえその毒牙で殺めてしまうとか。俺たちのように死角を掻い潜って、自慢の毒を盛るため人間側も簡単にやられてしまうらしい。恐らく奴も、日頃からこの人間の命を狙って隙を伺っていたのだろう。そして俺との交流という最大の隙に目をつけて…。俺にはムカデに立ち向かう術も勇気も無い。かといって、せっかく仲良くなれた異種の友を、大切な親友を見捨てるような薄情者でもない。友達は生涯の宝の一つだと、父は口を酸っぱくして言っていた。その意味が今になってようやく分かった気がした。命を懸けても守りたいもの。彼の存在は俺の中でその域に達していた。俺は人間の指に一度触角で触れ、最後の思い出を貰い、すぐさま全速力でムカデの方へと駆け出す。足腰ならムカデにも負けることは無い。無事に人間の足に到達する前のところでムカデに追いついた。俺はムカデの体を逃がさないようにしっかり掴みながら羽を広げて宙を舞う。突然の襲撃にムカデは対応が遅れながらも、細長い体を俺の体に巻きつけてきた。凄まじい力で体を締め付けられる。体の痛みに耐えかねて、一旦壁に張り付き、気合を入れ直してから再び飛び立つ。この高さからなら、丈夫な体を持つ俺とは違って、ムカデはひとたまりも無いだろう。必死にもがいて体の拘束を解こうとする。刹那、右肩に激痛が走る。ムカデが猛毒の牙で噛み付いてきたのだ。毒の影響か、すぐに体の自由が利かなくなり、地に向かって落下する。歪む視界の中、俺の様子を見守っていてくれた友は、目から大粒の雫を零して俺の最期を惜しんでくれていた。心配ない、と触覚で伝えてやりたかったが、俺の意識はすぐに闇の底に沈んだ。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。今日はいつもと違っておじいちゃんの方から僕の手元に来てくれた。僕は神様から許しが出たのだと思って嬉しくなり、昔そうしていたように、おじいちゃんの背中を指で擦ってあげた。おじいちゃんは気持ち良さそうに僕の指を楽しんでくれたけど…。急におじいちゃんは走り出して、僕の足の方に来ていた別の虫さんに掴みかかった。最初は何でか分からなかったけど、虫さんがおじいちゃんに巻きついたのを見て、おじいちゃんが僕を助けようとしていたのだと分かった。おじいちゃんは何度も空中に飛んで、天井に近いところまでいくと、何故か動かなくなってそのまま床に落下した。おじいちゃんはまた、天に帰っていった。巻きついていた虫さんは、目を離した隙にいなくなっていたけど、おじいちゃんは床に落ちたまま、身動き一つせずに眠りについた。おじいちゃんの体を大事に両手で運び、お庭の花壇に穴を掘って埋めた。おじいちゃんの大好きな黄色いお花。ここならおじいちゃんも安心して眠れるだろう。僕は目を瞑り、静かに眠るおじいちゃんにそっと手を合わせた。

 それから僕は神様へのお願いを二度とすることはなかった。せっかくおじいちゃんがこっちに戻ってきても、また虫さんに襲われたときみたいに辛い思いをさせたくなかった。おじいちゃんと顔を合わせて会える機会がなくなったのは残念だったが、その代わり、おじいちゃんからの便りかもしれない。虫のおじいちゃんが眠る花壇には、毎年決まった時期にひと際元気な黄色い花が咲いている。


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