五 君と淡青灰

 気づくと僕は堤防の上に立っていた。照りつける太陽。目前に広がるのは白い砂浜と青い海。ここはどこだろう。僕の知らない場所なのは間違いない。なんだか頭も体もふわふわする。僕は訳もわからないまま堤防の上を歩き出した。不思議と暑さは感じない。何の宛も無くただただ歩く。歩く。歩く。足がとても軽い。このままどこまででも行けそう。そんな気がするほどだ。吹き付けてくる潮風の匂いが僕の鼻をくすぐる。海に来たのはいつ以来だろう。高校生の時には来たんだっけ。覚えていない。なんだかとても懐かしい。そんな気がした。


 歩き始めてどれほどの時間が経ったのだろう。数時間歩いた気もすればたった数分な気もする。分からない。時間の感覚も少しおかしくなっている。僕はどうやら堤防の端まで来たようだ。仕方ないので階段を降りて砂浜に降りる。広がる一面の水平線。砂の感触が足の裏を刺激するのが心地いい。一歩一歩、砂を踏みしめ、また来た方向へ一人歩き出した。浜に寄せては帰る白波。その音とさっきよりも主張の激しい潮の匂い。大自然が僕の五感に働きかけてくる。太陽は傾き始めていた。少しずつ橙色に染まり始める空と雲。青空との境界線。あの色はなんて言うんだっけ。忘れてしまった。ただその色が凄く好きで僕は移り変わる空の表情をぼんやりと眺めていた。



 ふと人の気配を感じて周りを見渡すと少し遠くに君がいるのが見えた。なんだ。君もいたのか。声をかけようと君の元へと歩き出す。君も僕と同じようにただ宛もなく海を眺めて歩いているようだった。ゆっくり歩く君の隣を僕も同じようにゆっくり歩を進める。君の歩幅は僕よりうんと小さい。隣にいる君は本当に小さく感じて今にも消えてしまいそう。しばらく黙りながら歩き続ける僕と君。出逢った時の沈黙とは違う。気まずくて話せないのではない。この沈黙は心地よい。言葉はなくとも通じ合う。少し言い過ぎかもしれないけれどそれくらいの気持ちだった。君もそう思ってくれているのかな。


「なんて海はこんなにも綺麗なんだろう。」


 君が言う。しみじみと、優しく、深い声で。


「なんでだろうね。でも確かに本当に綺麗だ。」


 自分の語彙の乏しさを恨む。僕はこの美しい光景を表現するのに堪える言葉は持ち合わせていなかった。


「……風も気持ちいいし、そこまで暑くないから今日は散歩日和だなぁ。」


「そうだな。ラッキーだった。」


「……ずっとここに来てみたかった。」


「言ってくれればよかったのに。」


 ゆっくり、ゆっくり、間を置きながら言葉を交わす僕と君。いつものおしゃべりな君とは違う。君は落ち着いて優しく、丁寧に言葉を置いていく。


 君が鼻歌を歌い始める。僕の知らない歌だった。最初は鼻歌だったけれど君は少しすると小さな声で歌い始めた。


 疾風はやちたちまち波を吹き、赤裳あかもの裾ぞ濡れじし。病みし我は既に癒えて、浜辺の真砂まさご愛子まなご今は。


 童謡かな。なんとなくそんな気がした。僕には意味は理解できなかったけれど切なくてもの寂しい気持ちにさせる、そんな詞とメロディーだった。か弱い君のか細い歌声が海に吸い込まれていく。ふと君の顔を見るとその目には涙が浮かんでいた。


「どうして……泣いているの?」


 僕は答えを待つ。君は答えない。沈黙が再び訪れる。俯きがちに歩いていた君がすっと上を向く。目に浮かぶ涙がその場に留まることができなくなっていた。君の頬を一滴の涙が伝う。


「……もうさよならなんだね。」


 君がぽつりと呟く。


「さよなら……?どういうこと?」


「……もうあそこに戻らなくていいんだ。」


「あそこ?僕の部屋のこと……?」


「……長かったなぁ。」


 僕の質問に一向に答えようとしない君。何かがおかしい。噛み合わない。いくら抜けている君とはいえ、いつもならこんなことはありえない。ただ自分の世界に入り込んでいるだけには見えなかった。違和感を感じた僕は試しに素っ頓狂なことを聞いてみる。


「ねぇ、リンゴって何色だっけ?」


「……嬉しいような。……悲しいような。」


 僕の勘は当たっていたようだ。やはりそこに会話は存在していなかった。僕は君の顔をわざとらしく覗き込む。しかし何の反応もなく君は僕の体をすり抜けていく。しかし、いつもとは違う感覚。そうそれはまるで、君じゃなくて僕の体が無くなった感覚。僕が君をすり抜けている感覚。もしかして、君には僕が見えていないのだろうか。


 話しているつもりだった隣の君はどうやらずっと独り言を呟いていたらしい。僕の声は届いていないようだった。たまたま君の独り言と僕の言葉が少し噛み合ってしまった。そのため僕は話しているものだと勘違いをしていた。初めての感覚。当たり前か。君にすら見えることのない僕。僕はどうなってしまったのだろう。死んでしまったのだろうか。そして君のように幽霊になってしまったのだろうか。分からない。けれども君の側を離れたくなくてそのまま僕は君の隣を独り歩いた。

 君は変わらず呟いていた。


「……やっとこの生活も終わりかぁ。」


 僕はもう言葉を発することをやめた。ただ黙って君の呟きに耳を傾ける。この生活も終わり。どういうことだろう。


「……ずっと縛られてきたからなぁ。」


「……最後くらいは運命に抗うことにするよ。」


 縛られる。最後。運命。重く苦しい言葉が並ぶ。君の横顔には涙と共に何か強い覚悟が感じられた。

 気づくと日は完全に落ちていた。空には月と星が一面に溢れんばかりに瞬いている。都会では決して見ることのできない夜空。その光は美しくもあり、同時にほんの少しの悲哀の色を見せていた。


 ずっと波打ち際を歩いていた君がその歩みを止める。君は哀しげな目で海を見つめた。その目にはどんな風にこの世界が映っているのだろう。とても、とても、哀しそうで切なさに満ち溢れた君の後ろ姿。その僕より一回りも二回りも小さな背中が、いつもよりもさらに小さく見えた。君は履いていたサンダルを脱いで素足になる。そしてそれを綺麗に砂浜に踵を合わせて並べて置いた。君は海と向かい合う。そして一歩ずつその広く深い闇へと進んでいく。一歩。また一歩。押し寄せる波に逆らいながらゆっくり君は歩く。


「……ただ愛されたかっただけなのに。」


 これは君の過去。僕はようやくそれを理解した。そう、そしてこれは、君が死ぬ時の記憶。青色の記憶。哀しさと切なさが入り乱れた淡く灰色がかった青色の記憶。小さな君は一歩ずつ沖へと進んでいく。僕はそれをただ砂浜から見ていることしかできない。僕の声が届くことはない。そんなことは分かりきっていた。それでも僕は……僕は叫ばずにはいられなかった。


「僕が君を幸せにする。死んでも君を僕が心から愛そう。だから君は……。」


「僕を、色がない人間を探せ。」


 届くはずのない僕の声。しかし君は確かにこちらへ振り返った。その瞬間、大きな波が君を飲み込む。真っ白な君の姿が再び水面に現れることはなかった。



 君の小さな足跡だけが残る砂浜。そこにぽつりと咲く一輪の白い浜梨の花。花言葉は


『哀しく、そして美しく。』

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