奇跡は起こるものじゃない!!
秋島まどかは発作を起こした。それも今までで一番重篤な発作を。
酸素マスクをつけられながらも、いつもは「こんなの……」と、減らず口………いや、彼女の生きたいという思いが、あの言葉に込められていた。いまは、あの言葉さえ目の前の彼女は発しない。
いつしか季節は……冬、寒さが身を引き締める、そして人の心を温かく見守る。冬という季節になっていた。
秋島まどかにとって、外の季節の移り変わりは、もはや何も意味をなさない。
荒い自己呼吸も、今回の発作ではその荒ささえ感じられないほど弱っていた。
心電図の波形は、不脈な波形をえがきながら流れている。
「ま、まどか……」
実の父親である病院長も彼女の手を握り、その目に涙を浮かべている。
「すまん、まどか……何も出来ない。いや、まどかに悲しい想いと、苦しみしか与えてやることが出来ない最低の親だったね」
そういう病院長の手を、彼女は軽く握り返す。
それでさえ、今の彼女には大変なことだ。
何度も繰り返し、くぐり向けてきた彼女にも、もうこれが最後だということが感じられていたんだろう。
「まどかちゃん、頑張れ」
彼女の手を取り声をかける。今の俺にはそんなことしかしてあげられない。
自分の無能さを、この時俺は感じた。
あの時、まゆみの死をこの手で、そして己の目の前で……。受け止めた時の様に。
また俺は、何か物凄く大切な人を失うかのような、そんな恐怖感が全身を駆け巡っていた。
彼女の発作はそれから二日間、彼女を襲い続けた。
その間、彼女は死の世界というところに、最も近づいていただろう。
明け方、カーテン越しに入る陽の光に、彼女は照らされていた。
ふと、寝入ってしまっていた俺の瞳は、その陽の光を浴びる彼女。秋島まどかの顔を映し出した。
その時、俺は目を疑った。
秋島まどかの顔が、あのまゆみが微笑んだ顔に見えたからだ。
「まゆみ、まどかちゃんを連れて行ってしまうのか………」
なすすべもなく、この世を去ること。
そしてこの世から、去らなければならないこと。
己の意思で命を絶とうとする人。生きたいと願うが、その願いも届かず、絶たねばならない人。
彼女、秋島まどかには生きたいという、想いが心の底から湧き上がっていた。
それは、彼女を診察し彼女と交わした言葉、一つ一つに込められているのを俺は感じ取っていた。
だからこそ、秋島まどかという少女と、まゆみが重なったのかもしれない。
そういえば、彼女はこんなことも言っていた
「奇跡は起こるものじゃないんだよ。奇跡って、みんなに平等に与えられているんだけど、それをつかみ損ねているだけなんだって。だから私はどんな奇跡も全部つかみ取ってやるの」
「欲張りだな」
俺は笑いながら、彼女に返してやった。
でも、それは彼女の強い生きたいという、心の叫びのような想いだったに違いない。
その願いは、彼女のハートラインの波形を安定させた。
少し、肩の力が抜けた。
しかし、次に発作が併発すれば……。それは確実に、彼女の死を意味する。
それでも。
「私ってやっぱり運がいいのね。今回も持ちこたえたしね」
以前のように、悪口グセの彼女の言葉からすれば、かなり弱々しく感じる。
「無理はするな」
そんな言葉しか、俺は彼女にかけてやれない。
自分の無能さは、今に限って感じえるものではない。己の能力のなさ、彼女の苦しみ、病に向かう人たちを救うことの出来ない、無能な自分にいつも。悲しさと虚しさ……一番つらいのは、己の心の叫びを、この俺自身が受け止める事が出来ずにいることだ。
なす、すべがない……。
医者とは何なんだろう……。
先生と呼ばれ、結果その力に甘んじている。力? いや違う、ただの医者という肩書に身を寄せているに過ぎない自分が、今ここにいる。
「田辺先生……」
「なんだい、まどかちゃん」
「たまには自分の家に帰ったら? もう何日帰ってないと思ってんのよ」
「えーと……。一応シャワーは浴びてるんだけど、やっぱ匂うか?」
「馬鹿ねぇ、そんなことじゃなくて……。こんなこと、私に付き合っていたら、あなたの方が倒れちゃうじゃない。たまにはゆっくりしてきてって言ってんの」
「心配すんなよ。俺なら大丈夫……」
「そうぉ。かなり無理してんじゃない本当は?」
あえて返しの返事はしない。
「大丈夫よ。田辺先生がいないときに。私、……死んだりしないから。私が……息を引き取るときは……。あなたの目の前で、あなたに私の最後を看取ってもらうって決めているから」
まどかちゃん……。
「それと……あのノート続きが見たいな。あるんでしょノートの続き」
「ああ、あるよ。俺の彼女が残してくれた、彼女の命を懸けたノートは……」
「うん、そうよね。あのノートは貴方のために書かれたものじゃないんだもの」
俺のために書かれたんじゃない?
「あのノート作ったの……、そして田辺先生の彼女さんって『まゆみ先生』だったのね。だったら、なおさらあのノートは貴方のためじゃない」
「まどかちゃん、まゆみのこと知ってたのか」
「うん、北部の大学病院によく、診察しに行っていたから……」
「まゆみ先生とは直接診察はないんだけど、ちょっとね……私たち友達なんだ」
「そうだったのか、俺、何にも知らなかったよ」
「そりゃ、そうでしょ。だって秘密の友達なんだもの」
秘密の友達ねぇ……。
「うん、そう。秘密の友達。だから分かるの。あのノートは貴方のためのものじゃない。でもこれだけは言える。あのノートに書かれていることは、田辺先生すべてあなた自身が、自分のものにしなければいけない。これは約束とか甘いものじゃない。まゆみ先生が、あなたに課せた医者としての使命よ!」
まじめな視線が、俺の瞳を貫く。
「……もし、貴方があのノートを超えた時。その時まゆみ先生が、あなたに託したノートの本当の意味がわかるはずよ」
「今はまだ……あなたにはその答えを知るには早すぎる」
「なんだろうな、まどかちゃんからそう言われると、まるでまゆみ本人から言われているみたいに感じるよ。不思議だけど」
「だから言ったじゃない。私たちは秘密の友達だって。そして私とあなたの関係は……」
「んもぉ、いいから今日は帰りなさい。約束するから、貴方のいないときに私は絶対に死なない……だから」
「わかったよ」
病室のドアから帰り際ふと、彼女の横たわるベッドを目にしたとき。……そのかたわらに、やさしく微笑む白衣姿のまゆみの姿が、うっすらと目に映った。
俺は振り切るように彼女、秋島まどかのいる病室を後にした。
何日かぶりに入る、自分のアパートの部屋。
がらんとして冷たい空気だけが、この屋の中によどんでいる。
誰も俺の帰りを待つ人はいない。
ただ、あるだけのその存在が、必要だからあるに過ぎない俺の部屋。
そこに帰る……。ベッドに体を沈み込ませ、ふと横にあるフォトフレームに目をやる。
やさしく微笑む、まゆみが映っている写真。
いつもは写真を目にすると、何か心の中に冷たいものが広がるような感じがしたが、今日のまゆみの姿は、俺に温かさを与えてくれた。
冷え切ったこの部屋でも、何か胸の中がものすごく温かく感じる。
「なぁ、まゆみ……。お前は何を考えていたんだ。……そして俺にどうなってもらいたかったんだ」
そんなことを思いながら、俺の瞼からは一筋の涙がこぼれ流れていた。
「奇跡は起こるものじゃないんだよ。奇跡ってみんなに平等に与えられているんだけど、それをつかみ損ねているだけなんだって。だから私はどんな奇跡も、全部つかみ取ってやるの」
俺はどれだけ、奇跡というものをつかみ損ねていたんだろうか。
どれくらいの時間がたったのだろうか。俺はそのまま寝入ってしまったらしい。
スマホが、コールを告げる曲を流し始めた。
「久しぶりだね、元気にやっているようじゃないか田辺先生」
その声は、あの北部医療センターの常見助教授だった。
「ご無沙汰しています常見教授」
「ああ、それよりも今からすぐ北部に来れないか。君がもう帰宅したと聞いたからね。この電話にかけたんだが」
「何か緊急なことのようですね」
「そうだ、緊急事態だ。秋島まどかのドナー提供が決定したよ」
「……え、」
「彼女は今こっちに緊急搬送中だ。心臓外科のメンバーも、今オペの準備に入った。君にも彼女のオペに立ち会ってもらいたい。それが……。彼女、秋島まどかの希望だそうだ」
彼女は現在ドナー順位二位のはずだ。それがどこをどうして、繰り上がったのかはわからないが、秋島まどかは、心臓移植を行えるチャンスを手にしたのだ。
「わかりました。今からそちらに向かいます」
「ああ、よろしく頼むよ。オペ開始時間はおよそ一時間後だ」
心臓外科の移植チーム、麻酔科、人工心肺サポート。このオペのチームすべてが待機する中、俺がオペ室に入るまで、秋島まどかは麻酔をするのを待っていた。
術台に横たわり、術衣をまとった俺の姿を見るなり。
「遅いよ。た・な・べ・先生」
と一言言って微笑んだ。
そして「お願いします」といい、マスクをはめ。秋島まどかは眠りに入った。
バイタル。110の78、心拍60でサイナス。
では、これより心臓全摘出及び、ドナー提供による心臓移植術を開始します。
「メス」
秋島まどかの胸にメスが入る。
「モノポーラ」
………。
彼女の運命の――――オペが今始まった。
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