落花5

 男がいなくなった部屋で、裸のまま泣き続けるファティス。所々が赤く染まった彼女の身体は、雪原にできた血溜まりの如く猟奇的で、ある種の、堕落的な美を感じさせるものであった。


「よぉ。どうだい」


 場違いの所にやってきたのはカリスだった。彼女はノックもせずドカドカと咽び泣くファティスに近寄り、乱れたシーツを気にもせずベッドに腰掛けた。


「また随分と好き放題やられたみたいだね」


 カリスは軽い口調で慰めのような言葉を送る。この凄惨な現場も、彼女にとってはやはり取るに足らない出来事のようだった。だが、それでも彼女がファティスの部屋に来たのは、少なからずファティスの事を気にかけていたからに違いなかった。厄介者として避けられてきた彼女にとって、唯一偏見なく、それもいくらかの敬愛を向けてくれる相手が現れたのである。カリスの性格上そんな事はいちいち考えてはいないだろうが。少なくとも悪い気を持っていないはずであった。

 カリスはいつも一人である。対等の友もいなければ理解者もいない。そんなカリスが、同じく一人で、それも自分より弱々しいファティスに興味を持つのはそう意外な事ではなかった。もっともそれは彼女にとって、生きている上での、ほんの少しの退屈凌ぎ以上の価値はないのだろうが。






 カリスには身寄りがなかった。捨てられたという記憶すらなく彼女は生きていた。

 凍てつく風の吹くとある日の朝。主神、アルダインを祀る神殿の前に置き去りにされた赤子が彼女である。それを見つけた司祭は大いに嘆ぎ、「なんという時代か……」と、心を痛めた。


 司祭は赤子をカリスと名付け育てた。巫女や近所の世話焼きにも助力を請い、文字と算術を教え、物語を聞かし、教典を読ませ、道徳を説いた。だが、カリスは司祭が思い描くような人間に成長することは無かった。


「神がいるなら、どうして今生きている人間を皆殺しにしないんだい? 司祭様の話を聞く限り、一番の害悪は人間だと思うんだけど」


 心底不思議そうな顔をしてそう問うたカリスに司祭は震えた。彼女の眼を見て、この子供は本気でそんな事を聞いてきたというのが分かったからだ。


「カリス。それは違う。人々が間違った道を歩もうとも、それを正し、導いてくれるのが神様なのだ」


「だからそれが分からないんだよ。人間は神を信じていながら、神が粛清するべき人間を勝手に殺してるじゃないか。それがその辺のゴロツキだけならまだいいけど、国が率先してやっているわけだ。そう。死刑や戦争さ。にも関わらず、だいたいの人間が自分の保身ばかりを考えて生きているし、そういった殺戮を喜んだりする奴までいる。これは立派な悪徳なんじゃないのかい?」


「そういった人間が更生するよう、神の名において手助けするのが私たちの役目だ。」


「巻き上げたお布施を国に送りつけるのが更生の手助けってんなら笑える話だ」



「……お前の言い分は分かる。しかし、人々に正しい教えを説き、誤った世に神の光を示すのには、まず私達がその考えを述べられる位置に立たねばならんのだ」


 まるで言い訳のような詭弁をカリスは鼻で笑った。彼女が神殿を出ていったのはその日の内である。


「くだらない奴に育てられちまったもんだ」


 行く当てのないカリスは、道中そんな事を呟いた。命の恩人であり、育ての親でもある人間に対し随分な物言いであったが、そもそも彼女にしてみたら好きで拾われたわけではない。もし、カリスに当時の記憶が残っていたのなら、「余計な事をしてくれたもんだよ」と皮肉な笑みを見せるだろう。もっとも、自分が訳ありの子供という事実は、とうの昔に知っていたのだが。


「さて、とりあえず、ローマニアにでも行ってみるか」


 この時のカリスの年齢はファティスよりも少しばかり若い。だが背丈は並みの男よりも高く、筋肉も発達していた。この天賦の肉体はカリスが生きて行く上で大いに役に立ったのだが、そうでなくとも彼女が野に出て行く事に変わりはなかっただろう。それは彼女の信念が、信仰とは真逆の方向へ向いていたからである。

 彼女の考えはこうだ。生きるも死ぬも、それほどに悩む必要があろうか。人は生きている以上は生きているし、死ぬ以上は死ぬ。それ以外に、命について考える価値など存在しない。なぜなら。


「神様なんざいるわけないのさ。人は人。人が作った世界には、やっぱり人以上のものなんかがいるはずないんだ」


 歩きながらカリスはそう一人ごちた。それは、彼女自身が神父に聞いた「なぜ神は人間を皆殺しにしないのか」という疑問の答えであった。存在しないものが存在しているものを殺す事は不可能だというのが、カリスの見解であった。

 故にカリスは容易に人を殺せたし、そこに何の疑問も迷いも生じなかった。彼女は生きる為に人を殺し続け、いつしかローマニアに兵として仕えるまでになったが、気に入らない兵長を訓練で殺して除名となった。それ以来立ち所に彼女に関する悪い噂が広まり、ついには娼婦にまで落ちたのだが、当のカリスは全くどうでもいいといった様子でのんべんだらりとし今日まで生きてきたのであった。


 出生は定かではない。だが関係ない。生きようが死のうがどうでもいいし、そんな事に意味はない。生きているから生きている。ただそれだけ。


 カリスにとって、自分の人生とはそんなものであった。







「とりあえず服着なよ。いや、その前に、湯だな」


 相変わらずカリスは笑っていた。彼女はきっと、ファティスが泣いている理由が分からないのだろう。それ故にか、彼女はこう問うたのだった。


「やっぱり、あそこで死んでた方がよかったんじゃないのかい?」


 と。


 その言葉を聞き、ベッドに倒れ込んで泣いていたファティスは急に身を起こして、じっと、カリスの目を見る。


「な、なんだよ……」


 その異様な光景に、カリスは少しばかりたじろいだ。ファティスの眼に宿った、憎みでも恨みでもない光の正体を、彼女は知らなかった。


「そんな事……ありません」


 命の対価として純情を支払った少女は、はっきりと、強くそう言った。涙に濡れた声はしっかりとした意思を持っている。


「助けていただいて、誠に感謝しております」


 感謝。


 ファティスの眼に宿っていたものはそれである。カリスはその気持ちを誰かに向けられた事がなかったし向けたこともなかった。


「分からないね。あんたは生きているから、こうして泣くような目に遭ってるんだ。死んだ方がマシだったろう」


「いいえ」


 言葉短に言い切るファティスを前に、カリスの顔からは笑みが消え、反対に、ファティスは笑った。


「私、本当に生きていて良かったと思っています」


 王女としての立場を考えればファティスは死ぬべきである。当然だ。国は滅び兵は死に。民草がどのような目に遭っているのかも分からない。彼女が生きていい道理がない。

 しかし、それでも彼女は生きたいと、生きねばならぬと感じているのであった。なぜならば……


「私、父と母にも、命を救っていただいたんです」


 ヘイレンが陥落した日。偶然とはいえ、ファティスはアルトノとキイクロープスによって爆炎から逃れる事ができた。彼女はそれを、両親の愛だと想っていた。そして、その愛に報いるために、ファティスは王女としてではななく、一己の人間として生きると決意していた。


「……そうかい」


 捨てられたカリスに親の愛が理解できるはずがなかった。だが、カリスはこう続けた。


「いい両親じゃないか」


 この時、彼女の心境がどういったものであったのかは誰も知る事ができない。単に話を合わせただけとも取れるし、皮肉にも聞こえる。しかし、どのような本意があろうと、ファティスが返す言葉と表示に変わりはなかったであろう。


「はい。二人とも、本当に素晴らしい人でした!」


 それは、少し影の入った、控えめな笑みであった。

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