第4話 訓練の時

 壱心が香月家から半絶縁宣言を受けた日から夜が明けた。家族からは基本的にいないものとして扱われ、屋敷にいる家臣たちからは陰口をたたかれる壱心はその扱いを気にした素振りを特には見せずに早朝から家の敷地を出て知行地にある入会地である山へと足を運んでいる。


(……さて、本当なら山籠もりしたいところだが周囲の目や家と上役との兼ね合いもあるからそれは適わないとして、始めるか)


 事前準備に様々なことを行ったせいで早朝に出たというのに太陽は既に傾き始めている、周囲に人気のない山の中腹。この時代の日本であれば山の中にまだニホンオオカミが生息しているような時代であり、山は畏怖の対象だ。

 特に幕末から明治にかけては狂犬病が流行っている時代であり、その恐怖は猶更で、特に用のない時期に山に入ろうとする人はいない。因みにだが、ニホンオオカミは明治に入る少し前の時代に流行した狂犬病で数を減らし、その後日本人の手によって、理由は様々とはいえ駆逐されたことで絶滅したと言われている。それほどまでに恐ろしい病として当時は猛威を振るっていて恐れられていたのだ。


 そんな常人であれば入ることすら躊躇うような山の深部にて。壱心は入念な柔軟を終え、呼吸を整えて地面に拳を立てて腕立伏せを開始した。壱心の膂力は意識が覚醒してほどない現時点でも体格に応じたそれなりのものであり、基礎能力はしっかりとついてはいた。ただ、これからの時代のうねりの中でその程度では到底足りないと判断した壱心の訓練が今、始まったのだ。

 まずはこの腕立て伏せ。拳の表面に当たる部分を砂や石、また木の根などがある山の地面に自身の体重を押し当てながら腕立をすることで拳の表面を固める。また、掌で行う腕立に比べて手首を強化する意図も含まれているトレーニングだ。


(……ふぅっ! まだ、常人の域を出ないな……これから一日の大半を費やすのだからせめて体力検定1級基準程度までは持って行きたいところだが……いやしかし、まだ始めたばかりだ。焦ることはない……)


 拳の表面が痛くなってきてからは普通の腕立に変える。それでも、今までとは意識を変えて深く、正しい姿勢で行うとこれまでの意識で行ってきたトレーニングよりはるかに少ない回数しかできなかった。

 元々、この時代に筋トレというものはまだほとんど行われていない。基本的には必要な動きを研鑽し、それに合う筋肉をつけていくという鍛え方が主流だからだ。

 しかし、壱心はそれだけでは足りないとして科学的トレーニングを導入し、戦うための身体を作ろうとしている。


 次は体幹トレーニングだ。重心を意識して一切ブレないように右脚を軸足として左脚を浮かすとそのまま続け様に前蹴り、上中下に横蹴り、そこで一度脚を下す。


「重りをつけてもいいな」


 徒歩が移動の主要手段であり、遠隔地でも歩き続けるこの時代の人々の脚力は壱心が考えている以上に逞しい。普通の訓練では可動域の問題くらいしか鍛えることが出来なさそうなので、重りをつけることにした。

 重りと言っても現代にあるようなバンドなどはないのでその河原にあった比較的角の取れた丸い岩を帯で括りつけてゆっくりと動作を行う。ゆっくりやる理由は重りの遠心力で負荷を逃さないこと、また下手をすれば飛んでいくからだ。

 岩と四肢の間には縄を巻いており、岩で肌を傷つけないようにしているが激しく動かして擦れると痛い。今の時点では普通の人間であり、鍛え上げられていないのでその辺にもきちんとした考慮が必要となる。当然のことながら、こんな原始的な鍛え方は今日ぐらいのもので明日以降は少しずつ今ある道具を加工していき、きちんとしたトレーニングを行う予定だ。

 それはさておき、股関節周辺に少々違和感を覚えた辺りで壱心はその動作を止めて腹筋に移る。まずは一番上部の腹筋を鍛えるために脚を上げ、膝に肘がくっつくように素早く腹筋する方法からだ。しかし、これは思わぬところで中断する羽目になる。


(獲物が掛かった)


 壱心は山に来て柔軟する前に仕掛けていた罠に何かしらの獣が掛かったことに気付く。因みに作った罠はアップ代わりに掘った穴を利用し、底に杭を設置したタイプのもので、罠にかかると獲物の衝突により中に仕込んである金属がぶつかって音が鳴る仕組みにしてある。


 その罠の下に急いで壱心が向かうとそこにかかっていたのはそれなりに大きい野兎だった。兎であればこの獣肉食が禁じられている日本のこの時代であってもそれなりに食肉の地位を保たれており忌避されるものではないため、壱心も意識の狭間で葛藤することなく気軽に食すことが出来る。


(さっそく、夕餉の下準備をしてから訓練に戻るか……)


 そうと決まれば兎の血抜きからだ。息がある内に足首をしっかりと結んで逆さにし、木に括りつけると首筋を切り、小刀で頸動脈を刺して血を抜く。滴る血は別の利用をするため、革袋に集めることにして本人はトレーニングに戻る。少し考えた結果、中の腹筋を鍛えるやり方に移行する。


(それにしても幸先がいい……基本的に自宅の献立は動物性タンパク質が不足しがちなメニューだからな……いや、この時代……日本ではよくあることだが……)


 通常の人が思い浮かべる腹筋ではなく、反動を使わないように尻を一切持ち上げず、一度起きたら背中をきちんと全て地面につけてもう一度上げる腹筋のやり方。 このような以前までの自身が行ってきた以上の負荷をかけてトレーニングする壱心。これが終われば下腹を鍛えるために脚上げとなる。


(あまりやり過ぎると自宅に戻った時に昨日みたいなことがあったらまずいしな。傷にならない程度に、重度の筋肉痛にならない程度で済ませて今日はもう戻るか)


 今日は軽いメニューとして、腕立て伏せ・体幹・腹筋を行った壱心はこの後はこれからの訓練のために必要な場の整備を行うことにする。そうと決まればこの後のトレーニングはストップして、今日のトレーニングを終えるためにこの日最初にこの場についてから採取した薬草などを調合して作った自身の血液の巡りと氣を整える薬湯を飲む。それが終わると今日の分だけしか作っていなかったことが気にかかり、新しい分も作り始めた。


「おっと……これをやると時間が過ぎるのが早くなるんだよな……」


 しばらく生薬を作ったり一部を丸薬にしたりした後、思わず自分でもそう呟いてしまうくらいの没頭ぶりを見せた壱心だが、気が付いてからは他に同時並行するものを思い出してやっていく。さしあたっては血抜きが終わった兎の解体か。ざっと毛を刈り、皮に切り込みを入れると足首をぐるりと切り、皮を剝いでいく。それが終わると内臓を傷つけないように腹を開いて肉を分けて焼いた。


(匂いがついてるだろうから洗わないとな……川の中に入りでもするか)


 食事をしながらそんなことを考える壱心。その視線の先にあるのは重り代わりに使うために集めた丸い石だ。それが元々あった河原に向かって体を洗うことにする。それが済んでからは再び環境整備だ。ついでに桑を発見したのでそれの挿し木も少しだけやっておく。


「ふぅ……日が暮れる。その前に帰らなければ……」


 落とし穴から杭を取って軽く埋めるなど後始末を終えた壱心は周囲を見渡す。大木に縄を巻き付け、拳を鍛えるある程度の準備は終わった。丸い石などの重り、また麻袋に砂を入れて脛を鍛えるための器械や内出血などで体の巡りが悪くなることがないように薬湯も作り終えた。更に刀より重い、大きな木を固めて作った木刀も出来た。


(これで自分で鍛えられる分は最低限度整った……後は追々作る分と対人で鍛えないと行けない分。そして最大の問題が……氣に関する問題か……)


 自身の腕を見て壱心は暗い表情をする。体の鍛え方については既にある程度の範囲でだが理解している。そして、氣の運用についてもわかっているが、その発露についてはまだ壱心の理解が及んでいないのだ。自らの記憶にあるのは顔も出てこない、恐らくは師と思われる男によって解放させられたことのみ。ついでにトラウマらしく、思い出したいとも思えなかった。


(……何だかファンタジックな記憶だなこれは……俺は一体何だったのか……いやそれはさておき、だ。解放するしないのどちらにせよ、まだその段階には至っていない。無駄なことを考える前に今できることをやらなければ……)


 不安を無理矢理拭い去り、帰途に就く壱心。今日はあまりにもやることが多すぎたので手際が悪く、効率的ではなかったな、そう思いながら空を見ると日は既に落ちかけていた。ここから急いでも家に着く頃にはもう日は落ちているだろう。そうなれば、また稽古と言う名のしごきが壱心を待ち受けている。


(望むところだけどな)


 一瞬だけ獰猛な笑みを浮かべながら壱心は自宅へと急いで戻り、自身の予想通りの展開に巻き込まれて体を打ち据えられる。それが済んでから稽古と言う名目の虐めが待ち受けていたが、壱心は痛痒も感じないとばかりに普通にこなしてこれからの自らの糧として蔵に戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る