DEAD or KISS

塩田アイス

[1]第一章【桜坂円香は出会ってしまう】

第1話 モノクロ世界

 ――ああ、生命いのちが足りない。


 呼吸するための生命が。

 生きていくための生命が。

 明日も笑えるための生命が。

 


 それは、薄明かりの裏路地。月の光も届かない暗闇の世界。

 二つの影が、ぼんやりと外灯に照らされていた。


「ん、うう……っ!」


 重なる二つの影。吐息はどこまでも甘く、艶かしく、混ざり合い溶ける。溶け落ちる二つの嬌声はどちらも女。その一つは齢十六余りの少女のものだった。


 ――足りない。足りない。足りない。


「ん、んん……や、ん……!」


 しかし、艶かしくも抵抗の色が宿る瞳は、成熟した女の方だった。少女は女の唇ごと喰らい尽くすが如くの熱烈な口付けを繰り返し、逆に受身にならざるを得ない女は徐々にしおらしくなっていく。


 ――空洞だ。からっぽだ。息苦しくて眩暈がする。


 少女と口付けを交わしていく度、女の体は病人のように青白く痩せこけ、みるみるうちに衰弱していった。まるで、生命力そのもの・・・・・・・を少女に奪い取られているかのように。


 ――もっと。もっと。もっと欲しい。


 青白く変色した女の四肢を見て、少女は初めて我に返った。唇から銀糸を伸ばしながらも、少女はたまらず女の体を自分から引き剥がし、地面に座らせる。女はぐったりとしたまま、動かない。


「はあ、はあ……」


 少女は荒い息のまま口元を服の袖で拭うと、足元の女を見やった。痩せ細った四肢はだらりと地面に垂れ下がり、青白い肌は生命の匂いを感じさせない骸のようだった。少女は息を呑んだ。

 静かに女の傍に座り込み、少女はそっとその青白く変色した頬に触れてみた。


「……つめ、たい」


 そう、冷たかった。まるで氷膜が一面に張られたように、女の頬は冷たかった。触れていたこちらの手まで、凍り付きそうなくらいに。少女はふらふらと立ち上がり、己の体をきつく両手で抱き締める。


「は、ははは」


 息が荒い。視界が悪い。正常な思考が霞に覆われていく。現実ではないような異常な程の高揚感が込み上げてくる。


「はははははははは」


 気分がいい。女の生気を吸い取ったせいかもしれない。体じゅうから力がみなぎるみたいに熱い。まるで麻薬のようだと彼女は思った。


「ははははははははははははは」


 息は過呼吸を起こしたかのように荒く、瞳はどこを見ているかも分からないほどにうつろだった。明らかに少女の表情は常軌を逸している。ぐらぐらと上体を揺らしながら、女の体を置き去りにしてその場を立ち去る。


「はははははははははははははははははははははははは」


 少女の高揚した笑い声だけが裏路地に反響し、ぼんやりと照らす街灯だけが全てを見つめていた。



  ◆ ◇ ◆



 ――空気が澄んでいる。

 瞳を閉じれば、彼女の体は風景と同化し何も感じなくなる。

 まだ夜明け前。ほの暗い闇色が漂う空。僅かに白い息が混じるその場所で、道着姿で座る彼女は素足のまま。空気すら凍る静寂に包まれた道場で、彼女はピンと糸で吊るされたような美しい背筋で一人瞑想をしていた。そのすぐ傍には彼女の愛用する竹刀が寄り添うように置かれている。

 日本人離れした白い肌と整った顔。色素の薄い髪は肩まで揃えられ、桜色の唇はきつく引き絞られていた。精巧に作られた西洋人形が誤って入り込んでしまったと錯覚するほど、彼女の雰囲気は道場に馴染んでいなかった。

 早朝五時前。ほのかに薄明のかかり始める空が太陽を連れてくる。徐々に温かな日差しが道場へ差し込み、ひどく凍えるような空気が僅かに弛緩し始めた。


「――姉さん、おはよ。朝だよ」


 長い睫毛が震え、ゆっくりと彼女は瞳を開ける。辺りはすっかり明るくなっていた。声を掛けられた方へと顔を向ければ、道場の入口で佇む弟が優しく微笑んでいる。


「ええ、おはよう」


 間もなく朝が来る。朝日に頬を照らされながら、桜坂円香おうさかまどかは穏やかに微笑んだ。

 今日は円香の通う慄木おののき高校の始業式。彼女は今年から高校二年になる。

 ゆっくりとした美しい所作で立ち上がると、円香はほんの少し崩れた道着の襟を直した。ひやりと素足から伝わる床の冷たさが朝を感じさせる。


「今日も姉さんは早起きだね」

「習慣だから。体が覚えて夜明け前には目が覚めるのよ」

「凄いなあ、姉さんは。ぼくも姉さんを見習って起きてるけど、まだ少し眠いや」


 ふわあっと大きな欠伸をする弟の悠斗ゆうとはまだ中学生だ。無理もないだろう。女の子顔負けの優しげな目尻には涙が浮かんでいる。


「貴方まで真似しなくてもいいのよ」

「姉さんのすることは何でも凄いもん。ぼくだって姉さんみたいになりたい」

「別に凄くなんてないわ。悠斗は悠斗の出来ることをすればいいの」

「むぅ……ぼくの出来ること?」

 

 唇を尖らせる悠斗に、円香も考え込むように顎に手を当てる。目が霞むような朝焼けの空に視線を向けると、ふいに妙案が浮かんだ。


「……そうね。例えば……私には出来ない美味しい朝ご飯、とかじゃないかしら」

「……もう、姉さんってば」


 円香は床に置いたままの竹刀を拾うと、入口の佇んで不服そうに頬を膨らませる悠斗の頭を優しく撫でた。


「朝ご飯、もう出来てるんでしょう?」

「うん、出来てる。お味噌汁もご飯も温かいよ」

「着替えてくるから、ご飯の支度をお願いできる? 今は悠斗にしか出来ないことだから」

「……姉さんはずるいなあ」


 柔らかに微笑む弟の横を通り過ぎ、円香は道着を脱ぐため自室へと戻った。

 円香の自宅は首都の郊外にある閑静な住宅地に位置する。先祖代々から受け継がれた立派な武家屋敷と名高いその家にはしかし、現在円香と悠斗の二人姉弟しか住んでいなかった。

 社畜である両親は二人揃って同じ会社に勤め、ほぼ会社に住んでいると言っても過言ではない。放浪癖のある兄の行方は誰も定かではない。これは昔からよくあることなので、もう誰も気にも留めていなかった。

 これほど広々とした日本家屋にお手伝いさんの一人や二人も居ていいものだが、あまりのだだっ広さに以前いたお手伝いさんは迷子になってしまい泣きながら辞めていった以来お手伝いさんは雇っていない。

 せめてあの放浪兄でも戻って来てくれれば、もう少しこの広いだけの家も賑わうだろうにと円香は思う。

 道着から高校のブレザーに着替え、鏡で一度身だしなみを確認してから円香は部屋を出た。


「あ、姉さん! もうご飯の支度済んでるよ」


 居間の襖を開けると、既に悠斗が朝食を用意して座布団に鎮座していた。漆塗りの長テーブルの上には醤油の香り漂う煮魚、大根浮かぶ味噌汁、ほうれん草の胡麻和えに真っ白なご飯が均等に並べられている。


「相変わらず美味しそうね、悠斗の料理は」

「えへへへ」


 中学生にしてこの料理の才は目を見張るものだ。漂う味噌汁の香りに喉を鳴らしながら、円香も悠斗の正面の紺の座布団の上に座る。


「いただきます」

「いただきます」


 姉弟揃って手を合わせる。

 時刻は午前六時半過ぎ。桜坂家の朝食はこうして始まる。



 ◆ ◇ ◆



「それじゃあ、私は先に行くわね」

「うん。いってらっしゃい、姉さん」

「遅刻しないようにね」

「ふふ、大丈夫だよ」


 朝食を食べ終え、七時を回ると円香は先に自宅を出る。片道一時間かかる通学路をランニングで行くためだ。通学鞄を背負うため、どうしても時間がかかってしまうのでこうして円香は早めに出るのである。鞄を背負い、玄関で見送る悠斗に手を振り円香は一足先に家を出た。

 春の青空は、どこまでも澄み渡るほど晴れやかだ。過ぎ去っていく変わらない日常の風景を横目で見ながら、円香はそんな風に思った。長い坂道を軽い調子で登っていけば、遠くで鮮やかな桜が咲き誇るのが見える。円香の通う高校だ。

 校庭に咲き誇る鮮やかな桜も春らしさを彩り、円香の胸はあたたかく弾んでいた。

 代り映えはないけれど、とても優しい日常。僅かに微笑みを浮かべる円香は、いつまでもこのあたたかい場所にいたいと思った。



 ◆ ◇ ◆



 窓から差し込むやわらかな陽気。澄んだ青空を円香はじっと横目で眺めていた。

 始業式はつつがなく進行している。式典を終え、教室の戻ってきた後は担任からの連絡事項を残すのみとなっているため、円香はほんの少しだけ気を抜いていた。

 

「――かさん、桜坂さん」

「ん?」


 頬杖を付いていた肘を放し、円香は窓から視線を外す。

 横から声のする方へ顔を向ければ、一人の気弱そうな女子生徒が恐々と正面を指さした。


「何?」

「あ、あの、先生が、さっきから桜坂さんを呼んでて……」

「……ん」


 言う通りに正面を向くと、教壇から呆れた顔つきでじっとこちらを見つめている担任の男性教諭の姿があった。複数の伺うような視線ももれなく付いている。そこでようやく円香は自分の置かれている状況に気が付いた。


「……ああ、すみません。聞いていませんでした」


 そう言って軽く頭を下げる。担任は呆れたように嘆息し、クラスメイトはそれ以上好奇じみた視線を向けてくることは止めた。だが、微かに円香に対しての囁き声は聞こえてくる。


「態度悪……」

「あれ絶対私たちのこと、見下してるよね……」

「……ちょっと見た目がいいからって調子に乗りすぎ」

「……」


 囁き合う悪意ある声に、円香は物憂げに目を逸らす。再び教卓の前で担任が話の続きを始める。

 退屈に小さくため息が漏れる。この温かな日差しの差す日和のような日常は、どうにも円香を受け入れてくれない。それは彼女の華やかすぎる容姿か、はたまた吹雪のような冷徹な横顔のせいか。

 どちらにせよ、勘違いされやすい円香はとても孤独な人間だった。


「……それじゃ、連絡事項は以上だ。明日からは通常授業が始まるから、お前ら配布した時間割を確認しておけよー」


 そうこうしているうちに、担任からの連絡事項は終わった。用は済んだとばかりに教室じゅうが浮足立っていく。円香は横目でクラスメイト達を盗み見る。

 各々が午後の予定を確認し合って遊びに行く算段を立てているようで、終業のチャイムが鳴ると、待ってましたと言わんばかりにぞろぞろとクラスメイトたちが教室から消えていく。

 そんな彼らを見送りつつ、円香も身支度を整えながら立ち上がる。


「あ、あの……桜坂さん、ちょっといいかな?」


 可愛らしい声に振り返ると、そこには同じクラスメイトであろう女子三人組がじっとこちらの様子を伺うように佇んでいた。新しくクラス分けがされたので名前までは把握出来ていないものの、恐らく円香の席に近しい子たちだったはずだ。


「何?」


 彼女たちは何やら内輪で囁き合った後、その中のお下げの女子生徒がこちらへと少し緊張した様子で近付いてきた。


「え、えっと……この後、クラスの皆で親睦会ってことで駅前にご飯食べに行くんだけど……桜坂さんもどう、かな?」

「私も?」

「うん。お、桜坂さんもクラスの一員だし、嫌じゃなければ参加して欲しいなって……」

「……そう」

「あ、何か予定があればそっちを優先して貰って全然構わないんだけど……」

「別に、予定なんて無いわ。今日は部活も休みだから」


 きっぱりと言い切る。語尾が強過ぎたか、彼女たちが少し怯えたように見えた。

 別段怒っているつもりはない。むしろこれでも喜んでいるのだ。

 そもそも、円香はこれまでこんな風にクラスの親睦会に呼ばれたことが無い。笑わないのも、笑うことが得意ではないだけ。喋らないのも、何を話していいか分からないだけ。そんな誤解が重なり合って、クラスメイトを怯えさせたり反感を買ってしまっているのは紛れもない円香の自業自得ではあるのだが。

 だからこそ、こんなチャンスは逃してはいけないと円香は思っている。まともな友人が出来るまたとない機会を棒に振ることだけはしたくない。


「集合場所はどこ? このまま皆で駅まで向かうのかしら?」

「あ、えっとね――」

「あれー? 桜坂さんってぇ、確か部活の無い日は道場へ練習に行くって言ってなかったっけ?」

「……」


 その声の主の顔を見上げると、どうにも見覚えがあった。明るい茶髪の巻き髪、派手な化粧とアクセサリー。去年、円香と同じクラスだった女子生徒だ。そして、先ほど円香に対して悪意ある会話をしていた一人だった。後ろには彼女の取り巻きたちも円香を見てにやにやと笑っている。


「私知ってるー! 前に先生と部活の話してたもんねぇ、桜坂さん道場にも通ってるなんて大変そー」

「無理に誘っちゃ可哀想だよー、桜坂さんはうちの高校の剣道部のエースらしいし?」

「練習しないといけないんだもんね~」

「……」


 一体、彼女たちは円香の何を知っているというのだろう。目の前で繰り広げられる多くの身勝手な言い分に、円香は返す言葉も面倒で受け流してしまおうかと考える。

 しかし、円香に声をかけてきた三人組は違った。彼女らの言葉に悪意が含まれているとはつゆ知らず、純粋な三人は一瞬驚いた顔をした後、慌てたように顔の前で両手を振り始める。


「そうだったの? ご、ごめんね、無理に引き留めちゃって……」

「……いや、私は別に、」

「やっぱり剣道は大変らしいからね~。桜坂さんには頑張って貰わないとー!」

「そうそう! だよね、桜坂さん!」


 円香の言葉が力ずくで遮られる。どうやら本当に円香のことが疎ましいようだ。この様子から察するに、円香には自分たちも参加する親睦会に来てほしくないのだろう。

 相手は完全に逆恨みだろうが、そこまで疎まれているのなら無理に円香が参加しても場が冷めてしまうかもしれない。円香は周囲に気付かれないように僅かに嘆息を零す。


「……ええ。実はそうなの。だから、私のことは気にしないで楽しんできて」

「桜坂さん……」

「それじゃ、私はこれで」


 そう告げると、円香は肩に提げた鞄を背負い直す。化粧に彩られた彼女たちの表情が、しめたとばかりに明るくなるのが分かった。その顔をちらと一瞥し、教室を出る。

 扉を閉めた教室からは、楽しげな笑い声が廊下まで反響してくるようだった。扉一つ隔てただけなのに、廊下は驚くほど冷え冷えとした空気が流れている。

 気が付けば、円香は無意識のうちに自身の唇を噛み締めていた。

 廊下に向かって歩き出せば、楽しげに笑い合う生徒たちとすれ違う。彼らを見れば明るくて、眩しくて、何もかもがきらきらと輝いているように見えた。


 ――自分は、このままで本当にいいのだろうか?


 ふいに心の内に生まれた疑問は、静かな水面に波紋のように広がった。

 彼女たちの言う通り、確かに円香は剣道部に所属し道場に通うほど熱を入れている。自宅に道場があるということもあり、幼い頃から続けている剣道は円香と切っても切り離せない。しかし、そのお蔭で人間関係が疎かになってしまっていることは、隠しようの無い事実だった。

 剣道は好きだ。あの風を切って竹刀を振る感覚。面に当たった時の手首全体の痺れるような感覚。そして、頑張れば頑張るほど自分が強くなったと実感できる大会優勝の瞬間。

 どれをとっても円香を魅了してやまない。悪いことなど一つも無いのは円香にだって分かっている。――けれど。

 けれど――このまま、この残り二年の高校生活を本当に全て剣道だけに捧げてしまってもいいのだろうか。ここ最近、円香には剣道に対しての自信が無くなってしまった。

 強くなるため竹刀を振り続ける毎日に不満や不都合はない。だが、どこか満たされずぽっかりと心に穴が開いたような、物寂しい感覚が円香の内側にはあった。

 世界はうっすらとした無機質なモノクロ色で感動も興奮もまるで他人事のよう。

 変わらなければと思う自分がいて、このままでも構わないと願う自分もいる。どちらが正しくてどちらが間違っているのか、今の円香には分からない。

 けれど、この世界のどこかでは誰かが泣いて、笑って、怒って、人間らしく生きている。苦しくて、悲しくて、でも嬉しくて。そんな色鮮やかな感情の景色を円香自身もこの目で見てみたいと、そう心のどこかで思ってしまうのはおかしいことだろうか。


「……ん?」


 昇降口まで辿り着くと、校門の方角からやたらと騒がしい喧噪が聞こえてくる。

何となく興味を惹かれ、その正体を確かめるべく靴を履き替えながら昇降口を出た。


「ねぇ、あれ何!?」

「すげぇ、映画と一緒じゃねぇか!」

「誰か待ってるのかなー?」


 好奇と期待のざわめきが耳に届く。

 昇降口から校門への道は一本の道になっている。周囲の生徒の視線の先は校門へ集中しており、自然と円香の視線もそちらへと向かう。


「……どうしてリムジンが?」


 校門の前に鎮座していたのは、黒塗りの高級車。いわゆるリムジンというもの。

 どこにでもある平凡な高校の前に高級車が停められているのを見ると、そこだけ世界が切り取られ無理やり日常という風景に貼り付けられたような、何とも異様で不自然な光景のように見えた。

 けれど、周囲を察してみるとどうやらリムジンだけが注目の的ではなかったらしい。校門まで歩みを進めていくと、その正体はすぐに判明した。

 車の持ち主なのか、校門の前で佇む異様なまでに容姿の整った男がじっと校舎を見つめているではないか。

黒のタートルネックと汚れ一つ無い白衣を纏った、二十代半ば程度の長身の男である。赤みがかったこげ茶の髪、日本人離れしたすっと鼻筋の通った端正な顔立ち。掛けられた赤フレームの眼鏡が何となく特徴的で、理性的な雰囲気に酷くアンバランスさを感じた。


「……ん?」


 ――脳に、ノイズが、走る。

 あの男を視界に捉えた瞬間、円香は妙な違和感のような、既視感に近しい感覚がぐらぐらと脳を揺さぶってくる。


(私、あの人とどこかで会ったかしら?)


 あの男に円香は全く身に覚えはない。しかしどくどくと心臓だけは妙に脈打ち、体は強張っていた。

 締め付けられる心臓を制服の上から押さえつけながら、歩みを進める。

何となく、男の顔を見ようとはしなかった。このまま何事もなかったかのように通り過ぎて、いつもの日常へと帰らなければ。円香はそんなおかしな使命感に侵されていた。

 しかし、校門へ近づく度に、香の胸の動悸は早まっていく。息は荒く、汗も止めどなく溢れてとても苦しい。早く――早く――すぐにでも通り過ぎなければ。

 何に怯えているのかも分からないまま、円香は男とすれ違った。彼は何の反応も見せない。やはり、円香の勘違いだったようだ。そう、ほっとため息を零した瞬間――


「――かおり」


 それは、円香と男がすれ違い終わる瞬間。

 まるで泣き出しそうな震えた声で、彼はたった一言、呟いた。


「……え?」


 ――かおり?


 知らない名前だ。聞き覚えもまるでないありふれた名前だ。

 けれど円香の胸の動悸は一層早く速く加速し、ぴたりと縫い付けられたかのようにその場から動けなくなる。

 些細な円香の呟きが届いてしまったのか、男がはっとした顔で振り返る。

 その瞬間――円香と男の視線が、交わった。


二人の間に流れていた時が、止まる。


「……ぁ」

「……っ」


 言葉が、声が、何一つ出でこない。

 知らない顔だ。知らない声だ。円香の知り合いにこんな男は存在しない。

けれど、分からないけれど、この全身が、この脳が、この心が、叫んでいる。


「貴方は――誰ですか」


 気が付けば、そんな言葉が口から零れていた。

 知りたいと思った。知らなければいけないと、円香は思った。

 男は円香の言葉に一瞬レンズの奥の瞳を濡らしたが、大きく息を吸い込みゆっくりとした仕草でこちらを見据えてきた。


「……私は――私は、ただの研究員ですよ」


 彼はそう端的に告げて、どこか切なげに微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る