第二部19神剣の帰還
神剣を受け取りに行く。
それが大変な役割である事を、阿礼は理解していた。本来なら舎人のするような役割ではない。
しかし、誰かがそれを成さなければならないなら、それは自分の仕事なのだと思ったのだ。それで、御門の許しが出たその日に、阿礼は放出に向かった。
放出は難波宮から近い。
難波宮の炎上の後始末のために、今は都との往来も常にも増して盛んになっている。川島皇子の差配で、阿礼はそんな船の隅にうまく乗せてもらうことが出来た。なぜかついてきた安麻呂と史が一緒だが、他に護衛などの人員は一切ついていない。
難波宮は見事に焼失していた。
今もやけぼっくいの柱など残っているが、もとの威容を欠片も留めてはいない。収められていた文物は、出来るだけ持ち出したらしいが、焼けてしまったものも多く、さらにはどさくさで盗難にあったものもあったらしい。あたりの市では該当する物品がないか、調査も入っているという。
阿礼達は難波から放出に向かった。
川辺にある放出は、寒村の類ではない。むしろ船や人の往来で賑わっている場所だ。
放出に入ると、阿礼に纏わりつく細い糸のような気配があった。
探るような、引き留めようとするような気配は、阿礼の足を止めはしない。ずっと強い意志に阿礼は引かれているからだ。纏わりつく鬱陶しい気配は、やがて力尽きるように消えた。
そのまま歩いていると当然の事のようにタヅに出会った。そのまま神剣の社への案内を乞う。タヅに導かれたのは案の定、強く阿礼を引く意思を感じる方角だった。
神剣の祀られる社は簡素なものだが清らかに整えられていた。
スルスルと状況が進むのを、不思議だとは思わなかった。神剣が望むなら当然そうなるものだ。
不思議というなら今になって、こういう役目を受ける立場になった事が不思議だと思う。真礼と決別し、比売田の名を捨てた今になって、神剣の運び手をつとめることになろうとは。
しかし、阿礼にはそれでも確信があった。
これは自分の引き受けるべき仕事、自分が果たすべき役割なのだ。
状況は淡々として感じるほどに、なだらかに進む。
タヅが連れてきた村長も、阿礼に異を唱えない。神剣が本来の社に戻るのを喜び、阿礼の手に委ねた。
「わしらも大切にお祀りしようとしてまいりましたが、何分十分なこともできません。何卒もとのお宮にお帰しください。」
聞けば元々の社の主はアジスキタカヒコネという神なのだという。遥か昔に出雲より来たりてこの地を開いた神なのだと、村長が誇らしげに語った。
出雲。
サキの一族も出雲から来たったという伝承を持っていた。もしかしたらそんな縁も、阿礼が選ばれた理由なのかもしれない。
阿礼は神剣を社に招き守った、里と神へ敬意と感謝を捧げた。
淡々と、そしてごく和やかに、神剣は阿礼の手へと託された。
都へ帰る船旅も、ただつつがなく終った。
大海人は病床の身を起こし、威儀を整えて神剣を迎えた。
稗田阿礼。
比売田出身の舎人は、先頃名乗りを変えている。もしかしたら詔を下したことが、その原因なのではないか。大海人はそんな風にも思う。
阿礼の双子の姉真礼は稀代の猿女だ。
その容姿はきらきらしく、その声は天に伸び、その舞は見る者を魅了せずにはおかない。
猿女は古くからの
大海人の治世は呪われている。
人々は声を潜めてそんなことを噂しているらしい。もしかしたら比売田なども含まれる古い氏族が、そんな噂が広がるのを助けているのではないか。そんな風に思ったこともあったが、どうやら少し違うらしい。
もしも比売田がそんな噂を広げているのなら、さすがに阿礼は神剣を迎える役を引き受けなかったろう。名乗りを変えたと言っても、生まれた氏族は全ての基盤だ。その意向に真っ向から背けるものではない。阿礼が舎人となっているのも、本来は比売田の名を背負ってのことなのだ。
神剣は、大海人が即位の折に捧げられた物と瓜二つだった。鞘から抜いても、大海人にその違いはわからない。そもそも神剣の写しというものは、姿だけでなく神威も写すものなので、
それでも、この剣を持ち帰ったのは、阿礼だから出来たことなのだろうと思った。阿礼は男で、猿女になることはできない身だが、猿女真礼と母の胎内から一緒に育っただけの事はある。
もはや宮中から動く事のできない真礼の代わりに、剣が阿礼を呼んだのではないか。
剣を受け取ってきた事への労をねぎらう大海人の言葉に、阿礼は静かに首を振った。
「私は、ただ受け取りここまで運んだのみ。全ては神剣のご意向でございましょう。ただ、かほどに長き年月、神剣の威に感じ、手厚く祀った放出の民と社の神をこそ、礼をもってねぎらうべきかと存じます。」
まことにもっともな言葉で、大海人は放出の社に必ず報いることを約束した。
阿礼を下がらせ床に戻ると、ぐったりと疲れていた。
急激な弱り方だ。
兄の葛城もこんな弱り方をした。
急激に弱る兄を置いて、吉野に脱出した大海人は、兄の病状がどのように進んだのかをはっきりとは知らない。ただ、それほど時をおかずに死んだことだけは知っていた。
自分の命ももう長くはないだろう。
戦乱に始まり、数多の災害に苦しんだ治世だった。自分の治世が「祟られている」と囁かれていることを大海人は知っている。それはもう仕方のないことだと割り切ってもいた。
不幸には理由があってほしい。
民がそう思うのは当たり前のことだ。
理由のある不幸なら、理由を除けば挽回することができる。現状を良くするために努力する術があるというのは、そうでないよりもずっと良い。
ただ、何に祟られているとされているのかは重要だと感じている。
だれでもまず思うのは、先帝葛城のことだろう。それは良くない。
葛城が祟っているとなれば、祟りを払うために壬申の乱の敗者の名誉を回復せねばならない。下手をすれば際限なく死者に膝を折り、赦しを乞うことになりかねない。
「神剣を鎮めよ。」
大海人の言葉に、ほんの少し讚良の肩がふ揺れた。
神剣の祟り。
そんな噂が流れている。
神剣が盗難にあい、放出の社にあったことは知られていないことなのに、噂は静かに広がりつつあった。
噂を流しているのは讚良だ。
讚良は何も言わないが、大海人には讚良の考えていることが手に取るようにわかる。
あるべき場所に戻る事のできない神剣が、祟ることで顕れ、戻ろうとしている。
それなら幾度も謝罪と祀りを繰り返すことになっても、天皇の権威は傷つかない。
自分には讚良がいる。
兄は娘の讚良に後事を託す事は出来なかったが、大海人は妻である讚良に後事を託す事ができるのだ。
「よく、神剣を祀れ。」
息をつき目を閉じると、大海人は抗うことの出来ない眠りの中へ落ちていった。
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