第一部17山狗

 ふうっと息をつくと、白い濃い靄になった。ため息が思いの外大きく響いた時のように、サキは自分の息にちょっと怯んだ。

 このところ、ほんの少し温みかけていたのに、今日は夕方から酷く冷え込んでいる。

 薪を手早く抱えると、サキは急いで家に入った。

 その後ろ姿を追う視線があることには気付かなかった。


 狼、あるいは山狗。

 山中で獣をとり、時に人里にも出没して家畜など襲う。

 古来より人に飼われ、犬に変ずる。

 一般に人を襲うことは珍しいとも言われるが、人が狩猟をほとんどやめ、獲物の競合のなくなった後世ならともかく、普通に狩猟を行う最後の時代であったこの頃、狼と人との距離は今よりも遥かに近かったのではないか。

 ましてサキの里は人少なで、獣を脅かす活気に欠ける。

 襲撃するに手頃な獲物と見られても、不思議という事はなかったはずだ。


 何か、胸騒ぎがする。

 胸騒ぎというよりは、もうちょっと具体的な騒がしさ。

 里で、何かが起こっている。

 「サキ。」

 婆さまが厳しい表情でサキを見る。

 「比売田の里に助っ人を頼みに行け。」

 サキは頷くと戸口から滑り出した。懐の簪を着物の上から抑えて、走る。

 どんっと重くて黒い影がぶつかる。

 熱い。

 喉元に燃えるような熱さが弾ける。

 背中が地面に打ち据えられる。

 ぱき

 何かが折れるような音を聞いて、サキの意識が途切れた。


 阿礼が辿りついた時、比売田の里は大騒ぎになっていた。

 山狗が出た。

 サキの里がやられた。

 反射的にサキの里の方に走り出そうとした阿礼の腕を、お婆が捕らえた。

 「待ちなさい。」

 今まで見た事もない、厳しい顔。それは冷厳な色を漂わせている。

 「サキは攫われた。もう間に合わん。」

 天が落ちてきたような衝撃が、阿礼を襲う。

 お婆は静かに、最近近在で童が何人か消えていた事、山狩りの話も出ていたことを語った。

 「これを。こちらへ向かう道にあったそうじゃ。」

 いつの間にか地にひざをついていた阿礼は、震える手でそれをおしいただく。

 櫛だ。

 阿礼が最初にサキに贈った櫛。

 それが真っ二つに割れている。

 サキ。

 身体の中から全ての音が消え、ただサキの名だけが響く。

 サキ

 サキ

 サキ

 サキ

 萌黄色の紐で前髪をくくり、くくり目の前にこの櫛を挿して。時々あの貝殻の簪も、照れくさそうに一緒に挿す。

 はにかんだ笑顔は幸せそうで、それを見る阿礼も幸せだった。

 「山狩りをする。捨ててはおけん。お前も加わるか?」

 お婆の言葉に肯き、懐から出した包みを広げる。

 美しい、二本の銀の簪。

 サキに妻問うために用意した品。

 そこに割れた櫛を加え、改めてしっかりと包むと懐に押し込んだ。

 

 鬼神としか言いようがない。

 山狗を狩る阿礼の凄さを、一緒に狩りをした男たちはそう言った。

 安麻呂が比売田の里に入ったのは、阿礼に遅れること三日。

 真礼の要請を受けての事だった。

 真礼からの使いの女が現れた時は驚いた。そんな事はあの地震のあとに里への荷物を託された時だけで、その後に宮中で度々見かける事はあっても、会釈一つ交わしたことはなかったのだ。

 内容を聞いてそんな驚きは、どうでも良くなった。

 「比売田より、サキどのの里が山狗の襲来を受け、サキどのが攫われたと連絡が参りました。里においでであった阿礼さまが山狩りに加わっておられるそうです。主は動けません。どうか。」

 猿女である真礼は簡単に宮廷を離れる事は出来ない。まして山狗の襲来や山狩りの穢れに身をおけるわけがない。

 でも、阿礼を放っておけない。

 阿礼がどれ程に傷ついているか。

 傷ついて慟哭しているか。

 安麻呂はすぐに都を飛び出し比売田の里に駆けつけた。そのままサキの里まで駆ける。

 そこに阿礼がいた。

 既に山狩りは終わり、犠牲者の弔いの始まった中で、呆然と座り込んでいた。

 サキの里の被害は目を覆わんばかりのものだった。

 何人もが食い殺され、里中に山狗の痕跡があった。助けを呼びに走ろうとしたらしいサキが、誰よりも早く攫われてしまった事が、被害を大きくしたらしい。

 大刀自であったサキの婆さまも惨たらしい骸で見つかり、生き残った里人は比売田の里に移ることになった。

 「いずれ、阿礼がサキを妻問うた後に、という話は出ておったのじゃ。こんな形の筈ではなかったが。」

 お婆が安麻呂に語るというでもなく、ぽつりと言った。

 一族の語り部を次ぐ娘を阿礼が得ることで、弱体化していたサキの一族を比売田の族に組み入れようという話があったのだろう。

 サキは見つからなかった。

 小柄なサキはよほど遠くまで運ばれたのか。

 それとも、若い娘であった故に食いつくされてしまったのか。

 どちらにしてもそんな酷いことを阿礼を前にして口に出せる者などいない。

 阿礼の矢は放たれれば必ず山狗の急所を貫き、刀は襲いかかる山狗の喉を恐ろしい正確さで裂いたという。

 美しい鬼神のごとく、阿礼は山狗を狩り尽くした。

 そして今、鬼神の落ちた阿礼は小さな包みを手に座り込んでいる。

 あの包みには見覚えがある。安麻呂が手引して買わせた簪だ。

 あれがここにあると言う事は、阿礼はまさにサキに妻問うために里に戻っていたのだろう。

 「阿礼…」

 話しかける安麻呂にも気づかぬ風情で、阿礼はふらふらと、立ち上がった。

 掘られたいくつもの穴の一つの前に跪く。

 穴の中に絹の女装束があった。

 見覚えがある。

 これは確かサキが着ていたものだ。

 阿礼が震える手で包みを開けた。

 安麻呂にも見覚えのある銀の簪が二本。

 そして

 サキの物なのだろう、割れた櫛。

 その櫛を指先で愛撫するようになぞり、再び布に包む。

 包みを静かに穴に置いた。

 それが、骸の見つからなかったサキの、骸の代わりなのだろう。

 もしかしたら、と安麻呂は思う。

 骸が見つからなかったのはサキの望みなのかもしれない。

 恋しい男に醜く惨い骸を見られるよりは、割れた櫛に面影を追われるほうがはるかに美しい。サキの恋心を思えばむしろこの弔いこそが望みに叶うように思えた。

 土がかけられ、穴が埋められてゆく。

 「これ。」

 老女が一人、阿礼に話しかけた。

 枯れ果てたような老女だ。さすがの山狗も彼女のことは見逃したのだろうか。 

 阿礼が老女から受け取ったのは人形だった。都の市で売られているような、木彫りに都風の女装束を着せた人形。

 「サキの部屋に。」

 人形を見る阿礼の目に涙が浮かんだ。

 

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