番外編 教室の悪魔

「あ、どうしよう……」

 いつものように子どもたちだけで集まって、宿題をやっていた花梨がランドセルをごそごそしながら声をあげる。

「なんだよ?」

 算数のプリントから顔を上げずに兄の和樹が訊く。

「学校にポーチ忘れて来ちゃった」

「ばか。週末だってのに」

「そうだよー。コンパスとかあっちに入ってるんだ。どうしよう」

「和樹の借りればいいじゃん」

 弟の駈が分厚い本に目を落としたまま低く言う。

「だけど、他にもいろいろ入ってるんだよ。取りに行こうかな」


 時計を見る。午後五時十分前。親たちからは家で留守番するときには五時以降は外に出ないようにきつく言われている。学校までは走っても十分以上かかってしまう。


「どうしよ~」

 仕方ない、と和樹が立ち上がる。

「早く行って戻って来るぞ」

「いいの?」

「父さんたちが七時前に帰ってくることないからな。急ぐぞ。駈は留守番だ」

 元気よく立ち上がる花梨の横で駈はこくこく頷いた。




 夕暮れ時でもまだ明るかった空も、小学校に辿り着く頃には薄暗くなり始めた。放課後児童クラブも五時には締まる。迎えの父兄たちの後ろをすり抜けて、花梨と和樹はそうっと校舎内に入り込み三年生の教室に向かった。


 花梨のクラスの教室に着き、和樹が早く早くと急かす。花梨は自分の机の道具箱からラベンダー色のポーチを取り出した。

「あった、あった」

「よし、行くぞ」

 廊下を足早に通り過ぎて階段の方へ足を向けたところで、和樹がいきなり足を止めた。


「なになに、どうしたの?」

「見られてる感じがした」

「へ?」

 階段を隔てて向こう側の並びの空き教室。そこから誰かに見られている。ここからでは人影は見えないけれど。


 和樹は足音を忍ばせて空き教室の入り口に立つ。引き戸を少しだけ開けて覗いてみる。使われていない机や椅子が片側に寄せられた広い空間には誰もいない。


「気のせいか」

 つぶやいたとき、がたーんと音を立てて椅子がひとつ倒れた。

「びっくりした……」

 胸を押えた花梨の横で和樹は引き戸を開けて教室に入る。

「誰かいますか?」

 返事は返って来ない。窓の外に広がる空は藍色に沈み、傾いた日が端っこをオレンジ色に染め上げている。


 まさに今は黄昏時。「誰そ彼」と尋ね合う時刻。そして一日が終わる寂寥感と慌ただしさの中で、特に敏感な子どもがそれと出会ってしまう時間帯。

 逢魔が時。


「わっ」

 急に突き飛ばされたように花梨の体が後ろから和樹にぶつかって来る。つんのめるように教室の真ん中に入り込んでしまった二人の背後で、引き戸が勝手に閉ざされた。




 読書に疲れて少し休憩しようとテレビをぼんやり眺めていた駈はぴくりと背筋を伸ばした。

 玄関のほうから鍵を回す音がした。続いて扉を開け閉めする音がして軽い足音がリビングに近付いて来る。


「ただいまー」

 お母さんだ。駈は嬉しくてお母さんに走り寄る。

「ただいま。駈」

 お母さんはその場にしゃがんで駈をぎゅっと抱きしめてくれた。お母さんはいつもそう。顔を合わせるとまず力いっぱいハグしてくれる。

「会いたくて急いで帰って来たよ。……和樹と花梨は?」

 駈は表情を強張らせて上目遣いにお母さんを見上げた。




「ちょっと、ちょっと。やだやだ怖いよ、おにいちゃん」

 こんな時ばかりお兄ちゃん呼ばわりして、と苦笑いしつつ和樹は妹の頭を撫でる。

「大丈夫だから、慌てるな」

 言いつつ引き戸を引っ張っても押してみても扉はびくとも動かない。鍵がかかってるわけでもないのに。窓の方も鍵をはずして開けようとしてもびくとも動かない。


「なんでー? もうやだよー」

 窓の向こうは校庭だがこの時間では人っ子一人いない。為す術もなく見下ろしている間にもとっぷりと日が暮れてくる。電気のスイッチも反応しないから教室の中はどんどん暗くなってくる。

「怖いよ、お兄ちゃん」

 涙目になって花梨がしがみ付いて来た時、それが聞こえた。足音みたいにひたひたと床を撫でるような微かな音。

「……っ」


 声もなく花梨がのどを引きつらせる。さすがに和樹も体が凍り付く。兄妹が身を寄せ合って固唾をのんでいると、廊下側の扉が突然ノックされた。


「和樹! 花梨! いるの?」

「お母さん!」

 泣き声をあげて花梨が扉に縋りつく。

「お母さん、ここだよ! 出して、出して、怖いよう」

 廊下側からも扉をがたがた開けようとしているみたいだが相変わらず扉は動かない。

「和樹、花梨。蹴破るからそこから離れて」

「うん!」

 ふたりは扉から離れて壁際に体を寄せる。


 直後、鋭い衝撃で引き戸の扉の片側が綺麗に吹き飛んで床の上に倒れた。得意の後ろ蹴りを繰り出した態勢から、母親が教室を覗き込んで来る。


「大丈夫?」

「お母さん!」

 うわあんと泣き出しながら花梨はお母さんに抱き着いた。

「もう大丈夫だよ。和樹も」

 花梨を抱き留めながら自分に向かって手を延ばしてくれる母親にほっとして、和樹も肩を抱いてもらう。


「一体どうしたっていうのさ?」

「おばけに閉じ込められたんだよ。怖かったよー」

「おばけ?」

 綺麗な眉をひそめて母親は和樹の顔を見る。まだ青ざめた顔で和樹も頷くしかない。


「もうやだ、学校怖い」

 泣きじゃくる花梨の涙を手でぬぐって母親はくすりと笑う。

「お馬鹿さん。おばけなんかいるわけない」

「だって、閉じ込められたんだよ?」

「私とおばけとどっちを信じるの?」

 ひそめた声音に花梨はぴたりと泣くのをやめる。


「おばけがいたとして……」

 背筋を伸ばして空き教室の中に視線を投げながらお母さんは言う。

「私が出ないと言ったらもう出ない。そうでしょう?」

 和樹と花梨を見返ってにこりと笑う。得体の知れない説得力に子どもたちは素直に頷くしかない。


「さて、それじゃあ」

 手にした帽子を目深にかぶって顔を隠しながらお母さんは深く息をはく。

「扉を壊しちゃったから先生に謝らなきゃ」

「お母さん」

「大丈夫、大丈夫。職員室行ってくるから玄関で待ってて」




 その後、三人で家まで帰った。暗い帰り道もお母さんがいるから怖くない。

「お父さんたちには黙っててあげるからね。お母さんとあなたたち三人の秘密だよ」

 そんな約束すら嬉しくて。花梨はにこにことお母さんと手をつないで歩いた。


 お母さんは天使で悪魔で女神様。おばけにだって負けたりしない。

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