天使と悪魔

奈月沙耶

1.風船とコアラ

「花梨ちゃん、お店に行くの?」

「うん! お父さんが宿題やりながら待ってろって」

「えらいね。そういえばお母さんの姿を見ないけど」

「どっか遠くに行ってるみたい。おじさんのお手伝いだって」

「忙しそうだねえ。寂しくない?」

「平気だよ。みんながいるもん」

 にこっと愛くるしく微笑む少女にうるうるして青果店のおばさんは甘夏をくれた。


「こんにちはー」

 元気よく喫茶ロータスに飛び込む。

「よう」

 いたのはマスターの志岐琢磨ひとりだった。賑やかなのが大好きな花梨は少しがっかりする。

「大きいみかんもらった」

「どれ、切ってやるから食え」

 小さなテーブル席の椅子にランドセルを置いてから花梨はカウンターに戻る。

「食べたら本読みの宿題するから、しるし付けてくれる?」

「しょうがねえな」


 大きな体にいかつい顔。怖がる友達も多いが、琢磨は実は子供にはとてもやさしい。ほかの兄弟のことはもちろん花梨のことは特に可愛がってくれる。それがわかるから花梨は琢磨には何でも話す。お父さんには言いにくいことも。

 だからこの日も連絡袋を取り出したときに目についたプリントを琢磨に見せてしまっていた。


「地域交流会? 親子で参加? 遠足みたいなもんか?」

「うん……自由参加だけど、どこのおうちも行くみたい」

「頼めば行ってもらえるだろ、そんくらい」

「お母さんは、ダメだよね……」

 小さな声で言ってみる。琢磨は難しい顔になって黙り込んだ。

「わかってるよ。じゃあ、三回読むからね。じょうずでしたって書いてよ」

「へいへい」





 別に行かなくても良かったけれど、近所の役員のおかあさんから話を聞いたお父さんが参加の希望を出してくれたから、当日は父娘ふたりで学校前から出発する貸し切りバスに乗り込んだ。


「ここって初めて行くかも」

「嘘だよ、幼稚園の遠足でも行ったよ」

 車で一時間ほど向こうの植物園とアスレチックがある観光施設。うろ覚えの記憶だけど、その時にだってお父さんが一緒に行ってくれた。大好きなお父さん。いつも花梨と一緒にいてくれる。


 交流会だなんて言いつつ、現地に付いたらあとはまったくの自由行動だった。

「仲いい子同士で連れ立ってるみたいだぞ」

「わたしはお父さんとふたりでいい」

 手をつなぐとてれてれと嬉しそうに笑う。花梨のお父さんは本当にわかりやすい。他の二人のお父さんとは大違いだ。


 アスレチックは込み合っていたからお花を見に行こうと提案する。賑やかなのは好きだけどうるさすぎるのはキライ。

 西部開拓地風なお店の前でソフトクリームを舐めながら人込みを眺める。どこの子供だってお母さんと手をつないでいる。そんな光景ばかりが目に飛び込んで来てしまう。


「風船もらいに行こう」

 小さなワゴンを引いたピエロが子供たちに風船を配っている。別にいらなかったけれどお父さんが言うから、花梨は黄色いハート型の風船をもらった。


 バラ園の大階段を降りて芝生の広場の横を通ると、少し年上の少年たちが集団で、こっちを見もしないでものすごい勢いで駆けてくる。ぶつかると思って花梨は目を閉じる。何か大きくて柔らかなものに体を包まれる。そのすぐ横を少年たちが通り過ぎていく。

「……」

 目を上げると、薄茶色の二足歩行のコアラが花梨の肩を抱いている。びっくりして風船の紐から手を離してしまう。

「あ……」


 黄色のハートが音もなく青空に吸い込まれて行ってしまう。すると花梨の傍らにいたコアラがやっぱり音もなく駆け出して、ふわりと飛び上がった。ミトンの形のコアラの手が風船の紐を器用にキャッチして静かに歩道に着地する。

 わっと周囲から歓声が上る中、花梨はまだまだもっと幼かったころのことを思い出していた。


 あの日はお母さんがいて、帽子を深くかぶって顔を隠しながら花梨とお出かけしてくれた。お父さんも一緒に手を繋いで歩いていた。場所はどこかは分らないけれど、やっぱり黄色い風船をもらって、何かの拍子に紐を離してしまって、がっかりして見上げていたら、お母さんがジャンプして風船を取ってくれた。

 羽が生えてるみたい。空に浮かび上がりそうなほど軽やかなお母さん。だって、お母さんは……。


 コアラが無言で首を傾げて花梨に風船を差し出す。受け取ってコアラの黒い瞳を見上げて花梨は何か言いかける。


 周囲で見ていた子供たちがわっとコアラに飛びついて来た。

「すっごい、このコアラ。もう一回やって」

「やってやって」

 急にあたふたと頭を押えながらコアラは困惑した様子で顔をそむけ、謎のステップを踏みながら優雅に軽やかにその場から走り去った。子どもたちがわっと後を追いかけていく。


 声もなく見送りながら、花梨はやっぱり声もない様子のお父さんを見上げる。

「……」

「……」 

 お父さんはただ苦笑いしただけだった。





「ああ、それはお母さんだよね」

「だよねええ」

 弟の駈が同意してくれたのに力を得て、花梨は胸を反らせる。兄の和樹が苦い表情で花梨を睨む。

「なんだっておまえはいつもそうやってお母さんに迷惑かけるんだ」

「わたし何もしてないもん。タクマに愚痴っただけだもん」

「それがいけないんだろう。琢磨さんは甘いんだから」

「まあ、確信犯だよね」

 四つも下の幼稚園児のくせに分厚い本を読みながら駈は淡々と言う。ページを繰りながらふと、

「あの人は何だって着ぐるみなんて着てたの?」


 はて? と三人で首を傾げる。

「知りたいような、知りたくないような……」

 とにかく、と表情を引き締め直して和樹はまた花梨に念を押す。

「お母さんに迷惑かけるな。分かったな」

 ふいっと妹弟たちのおやつを準備しに行く背中に、花梨は思いきり舌を出す。

「べえーだ。えばりんぼ」

「やめなよ、花梨。僕らの立場を考えなよ」

「お姉ちゃんって、呼びなさいって、言ってるでしょ」

 三人の中でいちばんお母さんに似ていると周りが言う顔の中で、唯一幼さが残る弟の頬を思い切り引っ張ってやる。

「そんなことお母さんが聞いたら怒るよ」


 花梨ももう少しお母さんに似て綺麗に生まれたかった。頬をさする駈の整った顔を見ながら思う。

 例えば当たり前のように毎日家にいてくれる他所のおかあさんだとか。自分が持っていない物ばかりを羨んでしまうけれど、ただ思うのは。

「会いたいよ、お母さん」

 綺麗な綺麗なお母さん。いつも一緒に居てくれるわけではないけれど。

「僕らみんなお母さんが大好きなんだ」

「うん……」


 何だかわからない間に同調している妹弟たちに呆れながら、和樹がおやつのケーキを持ってきてくれる。

「もうすぐ一区切り付くから、その後はしばらくゆっくりできるって」

「ほんと? そしたらお母さんのケーキが食べたいなあ」

「おまえはまた我儘を言う」

「ふーんだ。和樹は羨ましいんでしょ」

「お兄様と呼べと言ってるだろうが」

 淡々とページを繰りながら駈は密かに考える。お母さんに、一緒に眠ってもらいたいな。


 お母さんは綺麗で軽やかで天使みたい。三人の子供に好かれている。

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