3 光源氏とレイプ

「なんだかさぁ、『源氏物語』の世界にタイムスリップしちゃったみたいだわねぇ」

 夏越は一転して神妙な面持ちに切り替わる。カメレオンばりの豹変ぶりだ。

「晴明ちゃんは、きっと光源氏なのよ。ちまたじゃ『天は二物を与えず』なんていうけど、あんなの凡人の慰めよ。生まれながらにして全てを手にしている人間も、ごくまれに、この世に存在するの。晴明ちゃんは、そんな選ばれしお方なのよ」

「そりゃ買いかぶり過ぎだろう」

「ううん、そんなことはない、事実よ。ボクがおべっかなんて言わないことは晴明ちゃんが一番よーく知ってるでしょ。晴明ちゃんは、現世における光源氏なのよ」

 夏越はまだじゅうぶんに残っている日本酒のスパークリングを何の未練もなくカウンターに返却し、新たに米焼酎のロックを注文した。


「今日は、『源氏物語』の中でも、さしずめ『雨夜の品定め』ね」

 夏越は、プラネタリウムでも振り仰ぐかのように天井を見上げる。

「ボクにはね、1年が千年くらいに感じられることもあれば、千年があっという間に感じられることだってあるの。『源氏物語』を読む時はね、いつも、千年前なんて、すぐ隣の部屋で起こったばかりのことのように思えるの。ほら、まだ若い光源氏が頭中将とうのちゅじょうたちと恋について語り合っているでしょ」

 夏越は入口のドアの外に視線を移す。その向こうで白い直衣のうしを着た光源氏と、黒い直衣を着た頭中将たちが、今まさに恋愛談義に花を咲かせていることを一切疑わぬ口調で。

「若い彼らの話題になっているのは、『中の品の女』よ」

「中の品?」

「そうよ。光源氏は天皇の息子だったから、ふだんはずっと几帳の内側に閉じこもっている超セレブな女しか知らなかったの。それが、ライバルの頭中将たちの体験談を聞いているうちに、これまで限られた女しか知らなくて損したような気分になってきて、実は身分がそんなに高くはない女も魅力的なんだってことを本気で想像するようになるわけ」

 夏越の瞳には、獲物を狙う野良猫のような、野性的な力が宿る。

「すっかり興奮しちゃった光源氏は、たちまち『中の品の女』が気になって仕方なくなるの。空蝉うつせみ夕顔ゆうがお末摘花すえつむはなむらさきうえ……。長い物語の中では、ありとあらゆる女たちが光源氏の魅力に取り憑かれて、恋のぬかるみにはまり、負のスパイラルに陥って、苦しみ、滅びていくのよ」

 あたかも実体験を回想するかのような語りぶりだ。

「ちょっと話がそれたな」

「全然それてなんかないわよぉ。身分差ゆえの、どうしようもない恋のぬかるみの話じゃない」

 夏越は鋭い眼光のまま一井を見る。 

「身分差の恋ってね、千年前から男と女を悩ませ続けてきたのよ。当時はね、身分の高い男が低い女を好きになった場合は、レイプはなかったの。女は、従うしかなかったわけ。でも、ほら、女って、いっぺん男と契っちゃうと、これまでどうでもよかった男でも特別に感じちゃうものでしょ? だから、ドロドロしてくるのよ」

「そんなもんかねえ」

「でも、男には、身分の低い女の抱えている不安と惨めさなんて絶対に分からない。女の悩みが深くなればなるほど、男もわけもなく不安になってきて、ますます思いが強くなっちゃう。そういう悪循環がエンドレスに続いて、男も女も、それぞれに苦しくなるのよ。ほら、同じでしょ、今の晴明ちゃんと」

 夏越はインチキ臭い占い師のようにほくそ笑む。

「凡人には決して手に入れることができないやむごとなき血統が、晴明ちゃんには脈々と受け継がれてることなんて、バカでも知ってるわ。晴明ちゃんは上の品、それも上の上の上の品なのよ。その女が晴明ちゃんにびびりまくってるのは、そのどうしようもない身分差があるからに決まってるじゃない」

 一井はセメントのようなグレイな思いを噛みしめながら、皿に盛られたポテトチップスを口に放り込む。

「きっと、晴明ちゃんの恋も、これから『源氏物語』のストーリーに従って進んでいくのよ。だってここは京都だもん」

「参考までに聞くけど、『源氏物語』って、ハッピーエンドで終わるのか?」

「何言ってんのよ、ハッピーエンドのわけがないじゃない」

 蜘蛛の糸を掴むような思いで夏越に相談を持ちかけたはずが、ハサミで糸を切られて地獄に突き落とされたような気分になる。

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