第1章~不可能の不可能性~

 人間界とアーウェルサ。この二つの世界をつなぐ狭間には暗黒世界と呼ばれる無限の世界が広がっている。

 名前の通り光が全くなく、闇だけが広がった沈黙の世界。

 何もない空間。時間と言う概念も存在しない。そこにいようとも空腹を感じることもない。

 ここを管理する先代の空間の神曰く。死んだ人間の魂は必ずこの世界を通ることとなり、たまに覗いてみれば色とりどりの魂が闇を照らしていて綺麗なんだとか。

 しかし、ここ最近の騒動により、本当の意味で人間が死ぬことはほとんどなかった。魂がこの世界を通ることも減った。

 実に、退屈である。

 数ヶ月前からこの暗黒世界を漂い始めた一人の男は、何度目かわからない、嘆いてもどうしようもないことを嘆く。

 男の名は、イラタゴ・ムジナ。吸血鬼族である。

 かつて、本調子ではない堀井奏太に瀕死を負わせ、神二人までも追い詰めた男。

 そんな彼は、アーウェルサに連れ去られた後、行ってきた悪事、不死者であることも踏まえ、暗黒世界への永久幽閉を言い渡された。

 自分の意思でやったわけじゃないのに。

 十数年前。アーウェルサ全体をひっくり返した時と同じ。空間の神、ミノ・ディーテに嵌められた。

 ゲームに乗じて人間界にも行ったが、それも目的があってのことだった。なのに、全部全部、あいつが邪魔をした。

 そのことを思い出すと、今でもむしゃくしゃして、大きな魔力を一発放ちたくなる。と、いうか。暗黒世界が魔力を封じる世界じゃなければ今頃放っていたことだろう。

 魔力を使うことが出来ず、せっかく暗視と言う能力が備わっているのにもかかわらず見るべきものもない。娯楽だってあるわけがない。さらには、死ぬこともない。

 幸いと言うべきか、この体だけは自由に動かすことが出来る。

 それでもできることと言えば、重力の感じられないこの世界でただ漂うのではなく泳ぐことくらい。

 体が鈍ってしまわぬよう、筋トレとして目が覚めたら運動の一環として行っているが、本当につまらない。

 ムジナ自身。この世界に来てからどのくらい経っているのか知る由もないが、寝る、泳ぐ、思案。寝る、泳ぐ、思案。と言ったローテーションを毎日繰り返していた。

 今は、思案の時間。

「我輩は、イラタゴ・ムジナ。吸血鬼族。性別は男」

 最近は、自分が何者であるかを忘れてしまわぬよう、いちいち口に出してまで確認している。

 この何もない空間で怖いのは、自分と言う存在さえ忘れてしまうことだ。

「家族は四人。父と母、我輩。それから、姉御が一人」

 しばらく会っていない家族の顔を思い浮かべる。威厳のある父母の顔。自分は母親似で、姉御は父親似だった。

「悪魔族の幼馴染もいたな」

 見た目は何年経っても幼いままだった白髪ロングの悪魔。そこの執事ともそれなりに仲がいい関係であった。

 あぁ、そうだ。執事と言えば。

「我輩自身も、一時は誰かに仕える身であったか」

 それは、聖魔大戦よりも前のこと。もっといえば、後に英雄と呼ばれるアーク・トリアが、当時の神であり、妖精族の女王の護衛を務めた時よりも前。

 我輩は、セミルの下で執事をしていたのだ。大戦後、姿を消した彼女がエンジェリングにいると知っていた数少ない存在でもある。

 ルノとは幼馴染とは言ったが、初めてルノと関わった時には既にこちらは大人。

 あいつの実年齢はきいたことはなかったが、我輩の年齢はトリアと同じくらいだろう。聖魔大戦時に新米兵士。ちょうど成人くらいの年齢だろう。ムジナも成人になってすぐに執事。道理は通る。

 ここでムジナは、思い出したくなかったことを思い出してしまった。

「ディーテめ、我輩のことをとことんまで使いおって」

 空間の神、ディーテ。行方をくらましたセミルの居場所を知っているからと、強制的に計画に加わるように促してきた。

 ターゲットであるアーク・トリアを人間界に送るため、十数年前にアーウェルサを混乱に陥れるように行動させられたのもそのためだ。

 それが今になり、ゲームが開催。同じく人間界に送られた主を探すという目的で参加。

 そこでもまた、使われた。

 トリアとルノを殺せと言う命令。強制的に自我を失わせられ、最終的に神の手によって止められた。

 だとすると、奇妙だな。

 神の命を他の神が止めた・・・?

 あの二人は共謀していたはずなのに。

 どれだけ考えようとも、二人の真意を掴めそうにはない。

 けど、大丈夫だ。焦る必要はない。いずれ分かる時が来る。この場所から脱出することも・・・できる。

 ムジナは改めてそう願いながら、そっと目を閉じる。

 開けていても変わらない闇が視界を埋め尽くす。

 考え、運動をすれば後は眠るだけ。それで、ムジナなりのこの世界での一日は終わる。

 だが、その日は違った。

 今日、ムジナはこの世界に初めて他者の存在を感じ取った。

 薄く目を開ける。変わらない暗闇。そこを漂う一つの物体。稀に見ることが出来る、光り輝く魂とは違う。あれは、生物だ。

 それの下にムジナは泳ぐ。

「こやつ、悪魔族か・・・?」

 十字架に縛られた傷だらけの男。頭から生える立派だったであろう二本の角は見事に両方とも折れ、ズタボロの服の下から覗く肉体も、塞がってこそいるが傷だらけ。まるで死んだかのように眠っているが、脈拍と呼吸はある。

 はて、この顔。どこかで見たことがあるような。

 そんなことを考えながら、男の拘束を解くために縄へと手をかける。瞬間―

「あっつ!」

 手が焼けるような、いや、溶けるほどの熱がムジナの身を襲った。

 独特な匂いに顔をしかめながら、白い煙を上げて再生する己の手を見る。

 この空間で魔力を使うことはできないというのは分かり切ったこと。ただし、魔力を伴わない能力は使うことが出来るようだ。例えば、不死身とか、この縄が持つ、魔族を拒む性能とか。

「神民に目を付けられた魔族か。同情する」

 ムジナは熱で手が爛れるのも構わず、男を拘束している縄を強引に引きちぎっていく。

 なぜこんなことをしているのか。それは、ムジナにもわからない。ただ一心になってこの男を開放することだけに必死だった。

 こんな世界に、こんな状態でいるのだからきっとろくな奴じゃない。それでも、生きているというのなら、ちゃんと生かしてやるべきだろう。

 簡単に他者の命を奪っていた奴が言えたものでもないがな。

 苦笑を浮かべ、悪魔を十字架から解放した。さらに、自分自身の左手首を食いちぎり、溢れ出た血をその悪魔の口に含ませる。

 不死者の血には、どういうわけか生命力がある者の病気や傷を治す作用がある。

 特に、同じ種族、属する分類が同じならばその効果は大きい。

 今回は魔族同士。悪魔の傷は瞬く間に消え、ゆっくりと目を覚ました。

「だ、れだ?」

 しばらく声を発していなかったのだろうかすれた声を聴き、ムジナはこの男が誰だったのかを思い出した。と、同時に悪魔の方も自分を助けてくれたのが誰だったのかを認識した。

「ムジナ?」

「貴様、シュミルだな?」

 ほぼ同時に二人は言い、お互いに目を細めて笑った。

 シュミル・フィンクス。ルノの実家、ワーペル家の執事。年齢は我輩よりも百年ほど下。執事仲間である。

「助けていただき、誠にありがとうございます」

「おいおい、急に他人行儀になるな。我輩に対してはかしこまる必要もなかろう」

「いえ、常日頃からこうしておかなければ、お仕えする立場になった時、ぼろが出てしまいそうなので。お許しください」

 少々むず痒いが、本人がそうしたいと言っているのならば尊重しないいわれはない。

 本当にまじめな男だ。心の中で苦笑を浮かべ、問う。

「なぜ、貴様はこんなところに?」

「話せば長くなりますが」

「構わん」

 シュミルは自分の胸の前に片手を置いて語りだした。

 この空間に送り込まれた経緯を。ディーテと強制契約を交わされ、それでも尚、逆らった。その結果としてこの空間に来たのだということを。

 計画の内容は知っていて。トリアとも知り合い。ルノはお嬢様。止めようとした。でも、ダメだった。ということを、時々怒りをあらわにしながら、長い時間をかけてシュミルは話した。

 ムジナはそのすべてを冷静に解析。結果として分かったのは、ディーテに勝ることは難しいということ。関われば最後、バッドエンディングを迎えることになるということ。

 シュミルが話し終え、今度はムジナが話す番となった。

 同じように経緯を話し、情報を共有する。

「さて、シュミルよ。不思議だとは思わんかね」

「はぁ・・・?」

 唐突に疑問を投げかけられシュミルは間の抜けた返事で応じる。

「考えてもみよ。二人の神は目的を同じにしながら別の行動をしているのだぞ?」

「効率性を重視した結果では?」

「だったらなぜ、すぐ計画を実行しなかった?神共に掛かれば、目標を殺すなどいとも容易いであろう?それに、不死者でもない貴様が半殺しの状態でこの世界に送り込まれたことも気にかかる」

 ムジナの言葉に、シュミルはようやく事の異常性に気付いた。

 ディーテの力をもってすれば生物をただの肉塊に変えることも苦労はしない。それでもすぐに計画を実行しなかったのには、抑える者がいたのだろう。

 計画の首謀者はディーテただ一人であり、アーウェルサの神、エストは賛同するふりをしながら止めようとしている可能性があると、ムジナは言っている。

「しかし、エストに止める意思があるとすれば、計画が分かった時点で止めたはずでは?」

 シュミルの疑問に、ムジナはそう言われるのがわかっていたかのように間髪入れずに答える。

「『マインドコントロール』を使われていたとすれば?」

 精神と身体を操ることが出来るようになる魔力。それならば、ありえない話ではない。・・・のだが。

 それがわかったところで特に意味はない。

 ここで考察を重ね、誰にどう伝えればいいのか。否、そんなことは絶対にできやしない。

「ま、そう悲観するな」

 心を読んだのか、努めて明るくムジナは言った。もちろん、ムジナ自身もここでの考察が無意味だとわかっていて、言葉を交わしていた。

「今の我輩たちにできることがあるとすれば、奴らの無事を祈ることくらいだろうな」

「そう、ですね」

 二人は苦笑を浮かべ、元の沈黙があたりを包む。




 事態が動いたのは、ムジナの体内時計でシュミルと再会してから一ヶ月経った頃だった。

 ムジナの一日のローテーションはシュミルと出会ったことで変わった。

 寝る、泳ぐ、思案。だったものが、魔力無しでのシュミルとの手合わせが加わった。一人寂しい思案の時間も今では、意味のない議論。元の世界での思い出話に変わった。

 そんな手合わせの時間。ふわふわとした感覚の中でも、ムジナとシュミルは周囲に風を起こすほどの速さで拳を交える。

 先に異変に気付いたのは、シュミルだった。

「ムジナ、あちらを」

「ん?」

 シュミルが指で示した方向で、何かが光っていた。それだけじゃない。今度ははっきりとわかるほどに、この世界そのものが震動していた。

「うぉ!?なんじゃこりゃ」

「とりあえず、見に行きましょう」

「うむ。そうだな」

 初めての事態に、二人は極力冷静を保ちながら光の指す方へと泳ぎ始めた。

 その最中。光はその数を増やしていた。

 四方八方。暗闇だけが広がっていた世界はいまや宇宙のようであった。

「これは、いったい」

「わからんが、嫌な予感がする」

 そんなムジナの嫌な予感は、的中する。

 ムジナの体内時計で最初の光の発生から一時間が経過。

 無数にある光のどれにも辿り着くことはできず、光へと近づいている感じが一切しない。距離感覚が全くつかめていなかった。

 それでも二人は泳ぎ続け、ようやく三つの影を視界にとらえることが出来た。

 大中小。大きさは異なるが、そのすべては人型。新たなディーテの被害者だろうかと、二人はそれに近寄り、血相を変えた。

「主!?」

 ムジナの悲鳴にも似た叫びと、

「お嬢様!先輩!?」

 心配するシュミルの声が重なった。

 大中小三つの影。ムジナのとっての主、セミル・フォーグル。シュミルにとってのお嬢様と、先輩。即ち、ワーペル・ルノとアーク・トリア。

 計三名の遺体が、この場所を漂っていた。

 一同に傷はあるが血は出ていない状態で。

 セミルの傷は胸への刺し傷のみ。背中の翼には傷一つなく、むしろそれを避けるかのように、きれいに心臓が貫かれていた。驚き、理解できないままに殺されたのだろう。セミルの顔は何か言いたげであった。

 ルノの傷は、右肩から腰に掛けてのびる深い切り傷。着ていた白いワンピースは裂け、傷のあたりが赤黒く染まっていた。それだけで、かなりの出血量であったことがうかがえる。恐らく、攻撃を受けてから死ぬまでが長かったのだろう。顔は苦しみに歪んでいた。

 トリアの傷は、他と比べて格段にひどいものだった。手足や腹部には様々な大きさの刺し傷。傷の具合から、剣や槍で貫かれたものと考えられる。だが、それは決定打ではなく比較的浅めの傷。胸部に開いた風穴。他の傷とは違い、刺した後にえぐったような攻撃を受けたと考えられる。普通の人ならば目をそむけたくなるような、肉塊。その顔は、動かないとわかっていてもぞっとするほど、怒りと狂気に満ちていた。

 傷の観察を終えた二人は、沈黙した。

 これを行ったのは同一人物だろう。そして、計画は、成功したのだ。

 暗黒世界に現れた無数の光。それは、別の空間に繋がっているのだろう。

・・・この時を待っていた。

「シュミル!こやつらを連れてあの光まで急ぐぞ!」

「本気、ですか?」

「我輩は主と天使族を担ぐ。シュミルは、ルノを!」

 返事を待たず、ムジナはとうに冷たくなっていた二つの遺体を背に泳ぎだす。

(あぁ、なるほどね)

 そんなムジナの意図を汲み取り、シュミルもルノの遺体を背負い後に続く。

 イラタゴ・ムジナ。恐ろしいまでに頭が切れる男だと評価せざるを得ない。

 彼はずっと考えていたのだ。アーウェルサの神、エストの真意を。

 どんなに頑張ったところで何ひとつ確証も得られないこの世界で、何通りも考察し続けた。

 ムジナにとって、いや、エストにとって。空間の結合は必ず成功するものだった。

 二人の神は事前の打ち合わせ、計画を練る段階で三人の遺体を暗黒世界に安置することを決めていた。そこに、ムジナを先に送り込ませ、救出できるようにした。

 と、ムジナは考えている。

 だが、シュミルには分からなかった。ここまでが計画の内だとして。元の世界に戻って何をすればいい?蘇生でもしろと言うのか?そんなの、不可能だ。

 原則。自然の摂理を無視した力を使う魔力だろうと、亡き命を吹き返すのは不可能。例外として『デッドドール』と言う魔力があるが、あれは自分の命令通りに動かせる死体の人形を作るだけで、人形に意思はない。

 完全なる蘇生は、現在の技術力では足りないのだ。

 ならば、ムジナはどうして蘇生のために急いでいるのか。

 心を読んでも読み切れない。真意は、本人たちにしかわかりはしない。

 先を泳ぐムジナを、シュミルはただじっと見つめる。

 ムジナの背中にいる先輩。胸に穴が開き、全身が指し傷だらけの肉塊。それに、奇妙な違和感を覚える。

 人型の急所。攻撃を受ければほぼ即死の場所。心臓や脳はもちろんのこと、鳩尾、顎、こめかみ。男であれば股間。

 三人とも死因は出血による失血死。全員が心臓をやられている。

 あまり言いたくはないが、首と胴体を切り離してしまうのが、どの生物に対しても有効で一番手っ取り早い殺し方だ。

 ここまで回りくどいことをしなくとも、彼らを殺すほどの実力があるのなら、それも簡単にできていたことだろう。

 三人が応戦した結果なのか、殺した本人が意図的にそうしたのか。惨状を見ていないシュミルには分かるはずもなかった。

 三人の遺体はどれも、首から上がきれいすぎる。それが、気になった。

「シュミル」

 ちょうど考えるのをやめたそのタイミングで、ムジナも泳ぐのをやめて振り返る。

「何でしょうか」

「あれを見よ」

 ムジナが目で配したのは三つの光。もとい、開かれた別の世界。

 その奥に広がっているのはそれぞれ別の景色。

 一つは車通りの多い人間界。一つは、一面が氷で覆われた大陸。一つは、高い建物が並んだ町。最初のもの以外はアーウェルサの光景である。

「氷獣族の住む島『パームフロスト』と機械族が住む島『プラテンファウンド』ですかね」

 見えた地形の特色から広いアーウェルサで無数に浮かんでいる島を特定し名前を挙げる。

「して、エンジェリングに近いのは?」

「どちらもさして変わりませんが、強いて言うのなら『プラテンファウンド』ですね」

「では、行くぞ」

「えぇ、わかりました」

 二人は暗黒世界に発生した歪みからアーウェルサへと飛び出した。




少しだけ、機械族と言う種族について説明しよう。

 アーウェルサで一番遅く誕生した種族。主としては人型。たまに、動物を模したものや、機能や性能を重視して作られた異型のものなど、生命のない機械が魔力によって生命の宿った種族である。

 機械族が住まう島。『プラテンファウンド』。碁盤上の街に高いビルが立ち並ぶアーウェルサ屈指の都会島。

 現在の時刻は夜。でなければ、吸血鬼であるムジナは飛び出した瞬間に燃え尽きていたことだろう。

 二人が出たところは、左右を高い壁で囲まれた狭い通路だった。

 他の目がないことを確認してほっと息をつく。二人は三体の遺体を抱えているのだ。誰かに見つかれば問題となる。

「シュミル、我が主と、この天使族を頼む」

「どちらへ?」

「服を盗ってくる。この格好でエンジェリングには行きたくないからな」

 現在。ムジナは上半身裸。シュミルは未だにズタボロの執事服を身に着けている。

 確かにムジナの言う通り、こんな格好であの島へはいけない。

「では、わたくしはお留守番を任されます」

「うむ。頼んだ」

 そう言ってムジナは薄暗い路地の奥へと姿を消した。

暗黒世界よりも全然明るい、それでも世間一般では薄暗い路地を歩きながら、ムジナは己に備わった能力を発動する。

 肩、右眼、左腕、両足。脇腹のあたりに、機械の突起物を出現させ、あたかも自らの部品であるかのように装飾する。たったそれだけの変装で、ぱっと見は機械族。上半身が裸でも違和感はない。

 機械族の力を吸収しておいてよかったと、ムジナは改めて感じた。

 吸血鬼族の生まれながらにいて持つ能力。血を吸った者の魔力、身体的特徴を取り込む。

―に、加えて。ムジナは特別だった。血を吸わずとも、体に触れるだけで吸血と同様のことが出来てしまう。

 己の欲求を満たすため、ムジナは他種族から血を吸っていた。しかし、機械族は全世界唯一、血を持たない種族だ。

 彼女彼らの力は、吸血鬼に吸収されることはなかったというのは言うまでもないだろう。機械族の内部に流れる特別な燃料ですら、吸うことはできない。

 だが、ムジナは違った。この特殊能力のおかげで、悠々と機械族の能力を得ることに成功していた。

 これが出来るのも、ムジナと姉御くらいだ。その姉御も今はいないため、吸血鬼族唯一の存在かもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか薄暗い路地を抜け、大きな賑わいを見せている広い道へと出た。

 ここ『プラテンファウンド』は機械族が栄えさせた島の中で二番目に大きな規模を誇る。

 二番目と言っても、東京はもちろんのこと、ニューヨークよりもはるかに文明が発達している。

 こちらの文明は、人間界の何百手も先を行くのだから当然だ。

 この島は、昼も夜も大して明るさが変わらない。昼は夜のように明るく。夜は昼のように明るい。

 色鮮やかな街灯に、建物自体が光を放っているため、とてつもなく目が疲れる。さらに、ほとんどのお店が二十四時間営業。夜だからと言って人通りが少なくなるわけでもない。そんな、この島の別称は『眠らない島』である。

 目的の店は、衣服屋と魔道具店。お金などあるはずもないので、シュミルに言ったように、盗る。

 ほぼ全種族の力を持ったムジナであれば、出来る。犯罪ではあるが、ばれなければ良いだけの話。

 そんな奴がいるから世の中から犯罪は消えないのだと、自嘲気味に笑い、ムジナは見た。

 何もないところに浮かぶスクリーン。そこに書かれていた、文字を。

『結合完了』

 たった四文字。それだけで何を意味するのか。この世界の住民たちは分かっていた。

 その文字が表示されたとたんに大通りはお祭り騒ぎ。魔力による花火が打ちあがり、騒ぐものとそれを止めようと奮起する者とで一層騒がしさは増す。

 そんな喧騒を無視し、ムジナはようやく見つけた衣服屋へと忍び込む。が、こそこそする必要はなかったことに気付く。

「ケツゴウ カンリョウ キネン。モッテケ!」

 見た目は人間の男と変わらないが、特徴的な機械音声を持った機械族の店主の声。どうやら、全品百パーセントオフとのことらしい。

 面倒なことをしなくても済んだ。ムジナはそれぞれの体格に合ったサイズの服二着ずつを選び、さっさと店を後にした。

 背中のジェットパックで空を飛ぶ。目には追えない速度での加速。無意味な銃乱射。

 そのすべてを気にしないようにしてムジナは魔道具店をみつけ、今度は堂々と入り込む。

 必要なのは、空間を圧縮した鞄。『再生のポーション』。それから『飛躍のポーション』。

 そのすべて衣服同様無料で手に入れ、シュミルの下へと戻った。

「お帰りなさい。大丈夫でしたか?ものすごい騒ぎですけど」

 中心部から遠く離れたこの路地にまで、お祭りのような音が響き渡る。

「結合の危険性に気付けていない馬鹿どもが暴れていてな。早いところ、ここから抜けるぞ」

 ムジナは無料で買った服と長いローブを一着ずつシュミルに渡し、自分もそれに着替える。

新品の、糊の効いた執事服だ。

 元々二人は執事。懐かしい気持ちになりながらも準備を進める。

 取り出したのは『回復のポーション』。それを、三人の遺体にかける。

 これで命を吹き返すことはないが、見るに堪えない惨たらしい傷を治すことはできる。これで、端から見ればただ眠っているだけに見えてほしかったが、表情は変わらなかったため期待はできない。

 そして、最後。空間を圧縮した鞄の出番だ。これは、見た目は小さなショルダーバックなのだが、それとは裏腹に見た目を無視した容量を誇る。人間界にもある、青い猫型ロボが持っているポケットと同じようなものだ。

 その鞄の中に、三人の遺体をしまう。

「それ、ここを出るときの手荷物検査で引っかかりますよ」

 着替えを終え、一連の動作をただ眺めているだけだったシュミルが口を挟んでくる。

 この男は一つ、勘違いをしているようだ。

「我輩がまともな手段でここをでるとでも思っていたか?」

「申し訳ありません。そもそも、あなたがまともな人ではなかったですね」

 苦笑を浮かべてシュミルはそう言った。

「言ってくれる。さ、これを飲め」

 鞄を肩にかけ、ムジナは残った二本の瓶のうちの一本をシュミルに渡す。

「ここからエンジェリングまでは最低でもどのくらいかかる?」

 ムジナの唐突な問いかけに、シュミルは慌てることなく計算を開始。数字を導く。

「三日。ですかね。まともな手段を使わないとしても」

 その通りだ。シュミルは間違っていない。だが、違う。

「良いか、シュミル。五分だ」

 この島からエンジェリングまで。その間には全部で四つの島が存在する。高低差はあるが、距離はそんなにない。

「これで、跳べと?」

「正解」

 シュミルに渡し『飛躍のポーション』は、己の脚力、主にばねを強くするポーション。これがあれば、余裕。

 お互いにポーションを飲み干し、顔を見合わせる。準備オーケーだ。

「では、行くぞ!」

「承知!」

「「『エフギント』!」」

 同時に叫び二人は跳躍。

 果たしてその二人の姿は目で見えていたのだろうか。その答えは、ノーである。

 地を蹴り、音を置き去りにした二人はまずプラテンファウンドにある高さ四百メートルのビルの上に乗った。

 そこで、前方上に見える次の島『スドリーフ』を目視し、再跳躍。

 高さ、およそ八千五百メートル上空へ。到達時間。わずか一秒足らず。他人の目からは追えず、己に掛かる衝撃ももろともせず二人は風民族の住まう都『スドリーフ』へとたどり着く。

 それから、たどり着いた島の町並みに目もくれず、二人は手早く島の反対側まで移動する。そこから獣人族の住まう島『マルヘキサ』。エルフ族の島『フォレエミナ』。多種族島『コンハーディ』を経て、二人は天使族の都『エンジェリング』へとたどり着く。

 総移動距離、およそ二千三百八十キロ。経過時間、四分四十秒と少し。

「ぜぇ、ぜぇ」

「はぁ、はぁ」

 二人は肩を上下させながら少しずつ呼吸を整える。

「さすがに、しんどいな」

「えぇ、本当に」

 持続的に効能を発揮するポーションは、継続時間と効能の大きさが反比例する。

 効能が長く続けばその力は小さく、逆に力が大きければ時間は短い。

 今回のポーションは、効能大。持続時間五分。それなりに強力なポーションである。

これの一つ上である、効能絶大。持続時間一分と言うものがあるが、これは並の者なら体を壊してしまうもの。そう考えると今回のポーションはまだ安全と言えよう。

「さて、シュミルよ。休んでいる暇はないぞ?」

「次はどちらに?」

「我輩の、隠れ家だ」

 深くフードを被り直し、先にある街を不安げに眺めてそう言った。




 天使族の住む島『エンジェリング』

 アーウェルサ一大きな大陸を誇り、面積は北海道が丸々一つ入るほど。

 島のちょうど中心には大きな城を構え、それを囲むようにして町が広がっている。

 また、城に近ければ裕福、遠くなるにつれて貧しくなる、貧富の差が大きいことでも有名な島だ。

 島の縁に広がる森林。かつてはセミルが拠点ともしていた場所も、貧しい生活をしている住民たちが木の実を求めて彷徨っていたりする。

 騒がしい町の方とは違い、この森は静かだった。

 明かりがない暗い森とは対照に、町は大きく輝きを放つ。時折、爆発音を交えながら。

 戦闘が起きているという事実は遠目からでもはっきりと分かった。起きている理由は、空間の結合の賛成組と反対組が衝突しているとか、そんなところだろう。

「天使族までこのざまとは、零落れたものだな」

 ムジナはボソッと呟きフードが風で跳ばないように抑え、薄暗い森の中を歩いていく。

 シュミルもそれにならって続く。スラム街に入った。

 かつてはこの島全土が栄えていた。しかし、とある事情で貧富の差が生まれた。スラム街は、かつて栄えていたが、なくなってしまった町。建物は崩れた寂しい場所。

 情報が手に入りにくいこの場所に住む住民たちは、町の騒ぎを祭りかなにかだと思っているのだろうか。だとすれば、幸せな奴らだ。

 ここの島の連中は身内で争うよりも先にやることがあるだろう。

 エンジェリングの貧しい住民たちは。そいつらは、魔族へと堕天する一歩手前だと言われている。

 それを防ぐために女王が頑張っていることをシュミルは知っていたし、ムジナもその活動を目にしたことがあった。

 貧富の差と言うのは絶対に縮まることはない。それでも、貧しい住民が平凡に暮らすことはできる。富を維持したまま、貧をなくす。

 エンジェリングの長年の課題に目を背け、住民たちは身内同士で争う。

 実にばかげている。人間界と言う異世界が、てめぇらには特別なのか?行きたいと思うほどの世界なのかよ。ほんの少しの憧れで故郷を捨てるほど、この世界は腐っているのかよ。

 考えれば考えるほどイライラする。

「シュミルよ、少しだけ予定を変更しても構わんか?」

「えぇ、やりたいようにどうぞ?わたくしも、少々苛立ってまいりました」

 どうやら、考えることは同じのようだ。

 ムジナの隠れ家があるのは北東に位置する町。その町が、最も争いの激しい場所。少しだけ寄り道するだけだ。

 二人はスラム街を抜け、一般住民が住む町を駆け、煉瓦造りの建物が並んだ町へ着いた。

 激しい魔力のぶつかり合いで空気は震え、建物は崩壊し、まばゆい閃光が夜を照らす。

 元々高い魔力を誇る天使族。ちょっとの攻撃でも島が一つ消し飛びかねない。

 二人は道に散らばった瓦礫や建物の陰に隠れながら戦地へと徐々に近づいていく。

 視界の先に大勢の天使族の姿が映る。

 勢力は二つ。一つは白の軍服に身を包んだ五十ほどの軍勢。対するは、服装はまばら、けれども倍近い数の軍勢。

 軍服の方はひとまず味方だろう。敵は一般市民。今は、軍が数の差で押されている。

「ムジナ。軍の指揮官には?」

「我輩が接触する。できるだけ隠密に、全員を無力化する。いいな?」

「御意に」

 二人は一般市民の軍勢の背後に回り込み、魔力を発動する。

「「『クリエイトウェポン タイプ;アタッカー』」」

二人が手にしたのは細く長い警棒。

 それを、背を向けた天使族たちの首筋を狙って振るう。

 音もなく現れた二人の襲撃者に、天使族の軍勢は為す術もなく崩れゆく。

 一人が倒れ、それに気づいたものを見逃さずすぐさま気絶させる。それを真正面から見ていた軍人たちはただ呆然とするばかりだった。

 攻撃を受けている軍勢は、攻撃を受けているという事実に気づけないまま全滅した。

 やがて、戦場は静寂に包まれる。

 倒れ伏した軍勢の近くに襲撃者の姿はない。

 一体何が起きたんだ、と小さなどよめきが起き、自分なりにこの事態を分析していた指揮官の耳に、

「貴様らは一体何をしている?」

「ひぇ!?」

 くぐもった男の声が聞こえた。

 指揮官の男は驚きこそしたが、すぐさま落ち着き、話しかけてきた人物を見る。長いローブで体を隠し、フードを深くかぶっているため、顔もわからない。魔力の感じから魔族であることは確かだった。

「ま、魔族がこんなところで何をしている!」

 腰の剣を抜き、その先を男に突きつける。

「何をしている?だと?それを聞いたのは我輩だ。ただの一般市民相手に何を手間取っている」

「う、うるさい!魔族には関係ないだろ!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ、若い指揮官。

 ムジナは、あきれ果てた。

 あぁ、そうか。こんな経験の浅い若造が指揮を執っているから。何が正しいのかさえ判別できていないから。この戦闘は終わらなかったのか、と。

 世界を正す軍人が、聞いてあきれる。

「総員!この男を囲め!」

 指揮官はこの魔族の男。声を魔力で変えたムジナを敵とみなし、指示を出す。

「残念だが、それに従うものはもういない」

「え?」

 ムジナの言葉に、指揮官は大慌てで辺りを見渡した。

 部下が全員、倒れ伏していた。

「貴様らは黙って這いつくばっていろ。我輩たちが終わらせる」

 ムジナの言葉終わると同時に、指揮官の男も倒れた。その背には、シュミルの姿がある。

「悪いな。我慢できなかった」

「いえ、お気になさらず」

 右手の警棒を左手に叩きながらシュミルはにこやかな笑みを浮かべて言った。

 ムジナが指揮官と話している最中にシュミルが奇襲を仕掛けた。

 やわな軍隊でなければ、全滅することもなかっただろうか。これが、アーウェルサ一の軍事力?笑わせてくれる。

 軍に任せてはいけない。それを再認識させられた。

二人はその後二つの場所で戦闘を鎮圧し、ムジナの隠れ家へと向かった。




 ムジナの隠れ家は、とある場所の地下に存在している。

 蝋燭の明かりだけが頼りの薄暗くかび臭い石段を下り、その先にある木製の扉を開ける。

 ギギギ、と耳障りな音と共に冷気を伴った風が頬を撫でる。

その部屋も明かりは蝋燭一本のみ。だが、それで十分。一本のわずかな明かりだけで部屋全体が見通せるほど、この部屋は狭い。

 あるものと言えば、木製の椅子と机。分厚い本が陳列された本棚。藁の寝具。

「ここが?」

「我輩の隠れ家。こっそり主に仕えていたころに使っていた場所だ。あまり、いい思い出はない」

 あの頃は、ディーテに怯えて過ごしていた。セミルに会う時は変装していたが、見つかるかもしれないという恐怖心は消えなかった。

 思い出のない家に、新たに嫌な思い出が刻まれる。

 ムジナは肩にかけた鞄から三人の遺体を取り出し、藁の寝具に寝かせる。

 傷は完治したが、表情は変わっていない。まだ、ただの肉塊だ。

 こいつらを、蘇生しなくては。

「そんなの、不可能ですよ」

 心を読んだシュミルは言った。

「生死を操るのは、魔力を行使しようとも出来っこありません」

 その通りだ。わかってはいる。だが、

「世の中に。不可能はない」

「はぁ」

 困ったような曖昧な返事。

「貴様は人間と言う種族を知っているだろう?魔力を扱うことが出来ず、寿命が短い。翼があるわけでもなければ、五感が強いというわけでもない。空気がなければ死ぬ。脆弱な種族だ」

 シュミルは、何も言わず続きを促す。

「だがな、人間は空を飛んだ。翼がないのに。空を飛ぶことを夢見て、偉業を成し遂げた。不可能だと思っていたものを、可能にしたんだ」

 ムジナは演説をしているかのように大げさな手ぶりで言う。

「圧倒的に劣った種族にできて、我輩たち上位種にできないわけがなかろう!」

 実に、実に暴論であった。

「それとこれとではわけが違います。人間たちは、不可能だと思っていただけで、実際のところは可能だった。誰かがやろうと思えばできたことをやったにすぎません。そうでしょ?」

「何も、変わらないのだよ。我輩たちも。蘇生は不可能だと思い込んでいるだけかもしれない。それにな?」



「神はできない試練など与えない」



 シュミルはムジナの言っていることを理解しようとした。だが、理解らなかった。

 どんなに頑張ったところで、魂を操ることが出来る死神族ですら、蘇生を成功させたものはいないのだ。

 生物の魂は死と共に肉体を離れ、消滅するものとされているから。

 人間の魂に限って言えば、体から離れ、暗黒世界を通ってアーウェルサで転生を待つ。

 結合によってアーウェルサでのそれの意味合いは大きく変わるのだが、それはそれとして。

 アーウェルサの住民は転生しない。魂が消失するが故に前世と言うものも持たない。

 死神族が操ることが出来る魂と言うのも、肉体に宿ったものだけだ。ないものには干渉することすらできない。

 何度でも言おう。蘇生と言うものは、無理なのだ。不可能なのだ。神の試練だろうと、世の定石は覆らない。

「ったく、頭が固すぎではないか?」

 まだわからないのか、とムジナはため息をつく。

「神の試練を、知らないわけではなかろうな」

 もちろん、シュミルは知っている。

 神の試練。それは、ただの気まぐれか。アーウェルサの神が誰彼構わずに与える、世界を正しい方向へと導くもの。ただし、その内容は安易に達成できるものではない。それなのに、失敗した言う例もない。ゆえに、出来ない試練はない、と伝わっているのが現状だ。

「我輩は、神より試練を与えられた」

「それが、三人の蘇生ですか?」

「いいや、違う」

 あまりにもあっさりと否定されてしまった。ムジナ自身がその試練とやらに納得できていないようだった。

「不可能を可能にして見せよ」

「・・・随分とアバウトですね」

「状況を鑑みて、我輩は不可能とされているもの、蘇生をしろ。ということだと仮定した」

 ムジナがどうして蘇生が出来ると断言していたのか。根拠としては物凄く不安でしかないが、よくわかった。ただ、一つ言わせてもらおう。

「馬鹿でしょ」

「んお!?我輩か!?神か?」

「どっちもですよ。そもそも可能じゃないから不可能なのに、それを可能にしろだなんて無理難題すぎるでしょ。大体、ここまで来て当てはあるんですよね?」

「うむ」

 しっかりとした肯定の返事に、シュミルは少しだけ驚いた。

「むしろ、当てもなくここまで来たとでも?」

「何かあるんだろうなぁ、とは思いましたけど。その真意までは」

 できないと思っているのだから、当てがあるなんて思いもしない。

 エンジェリングには何がある?何がいる?住んでいるのは天使族。軍事力が高く、他の島との関係も良好。ここ特有の施設と言うものはない。

「答えは簡単だ。まずは。ここに天使族がいるということが絶対条件なのだ。天使族が持っている特性、生命力と再生力の高さ。奴らが周囲に与える恩恵が我輩たちには必要」

「ですが、この三人に生命力は、もう」

「わかっておる。だがな、貴様も一度はきいたことがあるだろう?天使族の、奇跡の話を」

 なるほど、ムジナがそういうのだからかなり有名な話なのだろう。

「すみません。存知上げないです」

 マジで?と言う顔をされた。すいません。マジなんです。

「わたくしが博識だとお思いならば、それは偏見ですよ。で、何ですか?奇跡の話って」

「これは、ただのおとぎ話なのだがな?」

「あ、じゃあいいです」

「おい」

 おとぎ話なんてただの作り話だ。信憑性の欠片もないうえに信ずるに値しない。

「あのなぁ、我輩はそこから活路を開いたというのだぞ?気にならないのか?」

「創作話よりももっと現実的な話を」

「昔々のことだ」

 あ、勝手に話し出したし。

「天使族の姫はとある兵士の男を好きになった。しかし、男は兵士ゆえに、戦闘の末に命を落とす。男の遺体を見て姫は涙を流し男の体を濡らした。すると突然、男の体が輝きだし、命を吹き返したという。その後二人は結ばれました。めでたしめでたし。

 だいぶストーリーは省いたが、どうだ?」

 いや、どうだ?と聞かれましてもストーリーを省きすぎているというか、何と言うか。

「胡散臭いうえに作られた感がありありじゃないですか。まさか、これを信じるとでも?」

「うむ!」

 不安になるくらい自信ありげな強い頷きだった。

 同時に察する。これ、もうダメだ。

 おとぎ話を信じるという時点で正気の沙汰とは思えない。

「いいか、シュミルよ。フィクションと言うものはあくまでもフィクション。現実ではありえにくい」

「それをわかっていながらどうして」

「だがな、今は少しでも、ありえないことにでさえ縋りたいのだ。でなければ、本当に当てはない」

 今度の言葉には、悲壮にも似た響きがあった。

 おとぎ話にしか縋るものはない。何か行動を起こすためえには、きっかけが必要だから。

 世界は、初めからシナリオの決まったフィクションではない。いつだって自分が主人公で、自分から動かなければシナリオは進行しないノンフィクションだ。

 この状況を打開するためにも、今は行動するしかない。失敗したらその時にまた考えればいいのだ。

「とりあえず、おとぎ話通り、ここの姫に協力を仰ぎたいのだ」

「あぁ、エル様ですか」

 シュミルの脳裏には、何度か目にしたことのある白髪ツインテールの少女が思い浮かぶ。

 確か、その傍にはいつも兵士がいて、親し気に話していた・・・気がする。

・・・あれ、何かが、おかしい。パズルのピースがかみ合わないかのような違和感。

 エルの横には、いつも兵士が。いた。・・・ような?親し気に話していた。・・・ような?そして、わたくしもその兵士とは仲が良かった。・・・ような?

 何か重要なことを忘れている。

「どうかしたのか?」

 様子がおかしいことに気付いたムジナが声をかけてくるが、今は忘れてしまった何かを思い出すのに必死だった。

 わたくしは、エル様の横に誰を見ていて、誰からその話を聞いていた?

 答えは、すぐそばにいた。

 シュミルが王城に仕えていたころ、最も仲が良かったのは先輩であるトリア。

 瞬間。頭の中で噛み合っていなかったパズルが、解けた。

「ムジナ。エル様への協力は、簡単に仰げるでしょう」

「どういうことだ?」

「かつて、エル様と先輩は見ていて微笑ましいくらいに仲が良かったのです。エル様も、先輩に気があったようですし」

 こんな大事なこと。覚えていたはずなのに。忘れてしまっていた。

 二人は再度フードを深くかぶり、出かける準備を始める。

「では、シュミルよ」

「えぇ。行きましょう」

 目的地はエンジェリングの中心。王城へ。

 シュミルの、かつての職場に。

 隠れ家を飛び出し、来た時よりは幾分静かになった街を駆け抜け、二人は王城へと急いだ。

 しかし。

「なんじゃ、これ」

「この騒ぎに、一般住民たちが押しかけているようですね」

 困惑するムジナに、冷静に分析するシュミル。

 高い壁に囲まれた城の内部に続く唯一の門の前には長い行列ができ、門兵がそれを押さえているという事態。

 門兵は一人一人丁寧に対応しているようで、用がある者を順番に、かつ時間制限付きで入城させる。それだと、遅い。

 今からこの長い長い行列に並ぶとしよう。流れのペースから推測するに、待ち時間は六時間を超える。とても、待てたものじゃない。

城の壁は見るものを圧倒させるほどに高く、隕石でも衝突しない限りはひびも入らないほどの強度を誇る。

 かつ、城壁上には等間隔に監視兵が配置され、侵入者がいないか常に見張っている。ゆえに、侵入は不可能。

 古典的だが、完璧までに整った防御設備。

 だからと言って退いてられるほど余裕もない。

「この城への抜け道はないのか?」

 かつてここに務めていたものとしての記憶を巡らせるが、

「ないですね。壁のどこかに穴が開いているわけでもありませんし」

「貴様の顔パスでどうにか」

「なりませんよ。自慢じゃないですけど、わたくしが仕えていたころは魔族に対してのあたりが強く、先輩後輩同僚問わず魔族と言う理由で嫌われていましたから」

 本当に自慢じゃない。

 ムジナは再度高い壁を見上る。

 高さは、目測五十メートル。石煉瓦を重ねて作ったもの。高度な薄い結界が張られて破壊は不可能。城壁上にも監視の目。唯一の出入り口は天使族の群れで閉鎖。

「シュミル」

「はい?」

「強行突破するぞ」

「だと、思いましたよ」

 鼻歌でも歌いだしそうなほど軽いノリで、ムジナの言った無茶をシュミルは受け入れた。

 こんな壁、抜けるだけなら簡単なのだから。

 翼ある天使族がそうしているように。壁を飛び越えてしまえばいい。監視の目?知ったこっちゃない。

 二人は己の足に魔力を流し込み一瞬にして跳躍。ポーション効果がなくとも五十メートルの跳躍など他愛もない。

 あっという間に城壁上を視認、数人の兵士たちが突如真下から現れた魔族に目を丸くし、すぐさま捕獲魔術の陣を組む。

 それでも、遅い。

 陣が完成するよりも早く、二人は城壁の上を通過し、反対側へと着地した。

 城壁よりも高く、それそのものが輝きを放っているかのように壮大なその城内部を目指し、二人は間髪入れずに走り出す。

 侵入者の侵入を報せる鐘が響いたのは、しばらく後のことだった。

 後先を考えずに侵入を見事に果たした二人は、そんな鐘の音にも耳を貸さず、四方八方から追い詰めようとしてくる兵士たちに微塵の興味も示さず、シュミルを先頭に走る。

 城壁内部の庭。薄明りが照らす広い庭には、噴水があり、きれいに整えられた低木が並び、さながら美しい光景が広がっていた。さらに、闇を照らすように幻想的な光を散らす線、否、捕獲魔術を意にも返さず通り抜けた二人は堂々と正面から内部に入り込む。

 高級ホテルを思わせるような、高い天井に蝋燭が何層にも積み重なったシャンデリア。正面には階段。その左右に扉。入ってすぐにある左右の通路からは大勢の兵士が駆けてくる。

「シュミル、姫の部屋は何処にある?」

「東の二本目の塔から渡り廊下を渡って一つ上に上がって。さらに」

「よし、行け」

 広い城内のマップ整理を早々にムジナは放棄しシュミルに案内を任せる。

「一つ忠告しておきます」

「何だ?」

「このお城。とっても頑丈ですので、よっぽど大きな魔力でないと崩れませんのでご注意を」

 馬鹿者。それは忠告ではなく朗報であろう。

 シュミルは左の通路。兵士が引き締め合っている方に迷わず走り出す。

 続くムジナもそれに従い、右手に魔力を充填する。

 大きな魔力じゃないと壊れないのだから、ちょっとやそっとの魔力ならば特に問題ないということだ。

「死にたくなかったらどけぇ!『テンペスト』!」

 風民族から吸収した『ストーム』の発動により、進行方向上に暴風が吹き荒れる。

 それによって兵士たちの列が乱れ、その隙間を縫うようにしてシュミルは最初の十字路を右折。

 それからは、兵士たちの足音、声に耳を澄ませ、鉢合わせしないようにシュミルがルートを決める。

 等間隔に並んだ扉と蝋燭。赤いカーペット。ずっと同じような景色が続き、ムジナは思う。まるで迷路のようだ、と。

 同じような通路のどこをどう曲がったのかすらわからなくなったムジナに対し、シュミルは長年積み上げて完成させたマップを脳内に広げて進む。

 螺旋階段で三階層までのぼり、渡り廊下で離れに合った塔へ。そこから一階層昇り渡り廊下で本殿に戻る。依然として変わらない景色の通路を進み、二階層降りる。

 やはり、この場所は複雑。

 重要な人物の部屋に行くのにもかなり面倒な道を通っている。前情報や、この場所をよく知ってなければたどり着けないようになっているのだろう。

 理由は単純明白。自分らのような侵入者に簡単にたどり着けられても困るから。

「ムジナ、もう少しでつきますよ」

「あそこか」

 視界の先。大きな扉。両脇には護衛兵。扉の前で慌てふためく老天使。

 老天使がエルの側近。通称、爺やであることに気付いたシュミルはムジナに声を潜めて言う。

「くれぐれも、失礼のないよう」

「よし!行くぞ!」

 だが断る!と言わんばかりにムジナはシュミルを追い越し、両脇の兵士を眠らせ、爺やをはねのけて扉をぶち破る。

 なんて無茶をするんだと思いながら、こいつの無茶は今に始まったことじゃないと考え直し、シュミルはムジナを追いかけた。

 そもそも、不法侵入しておいて失礼もクソもない。

 広い部屋。大きなベッドに座る白髪の少女。いつものツインテールではなく降ろしている姫が、自分たちの姿を見て目を丸くしていた。

「貴様が、天使族の姫様か」

 ムジナはエルを舐めまわすように眺め、片膝をつけて顔を伏せた。

「突然の訪問。深くお詫び申し上げる。そなたに、どうしても頼みごとがある」

「は、はぁ」

 突然の状況にエルは事態を飲み込めていなようだった。

「とりあえず、顔上げて?」

 困惑した声の通り、ムジナは顔を上げ再度エルを見る。

 感じられる魔力は二つ。一つは一般的な天使族が持ち、魔族が毛嫌いするもの。もう一つは、それ以上に鳥肌が立つ。強大な光の魔力。王女の血を継いでいることに間違いはない。

「それで?私に頼みたいことって?」

「一つ、術を伝授していただきたい」

 術の伝授。当初と目的が違うように思えたシュミルだったが、ムジナの心を読んで自分の浅はかさに気付く。

 姫の涙で男は生き返ったというのなら、本当に必要なのは涙、ではなくそれに含まれていたであろう魔力。それさえあれば、実際のところ何とでもなる。

 しかし、突然の申し出にエルは、

「魔族が神民の術を使うのは無理なんじゃない?」

と、困惑する。

「その疑問は御尤もですね」

 そのさまに、自分すらも同じ疑問を抱いていたというのにも関わらず、にこやかな笑みを浮かべてシュミルは続ける。

「ですが、姫様。ここにいる男はただの魔族ではありません」

 そう。ムジナは魔族の中でも特殊な存在。魔族にも神民にも属する妖魔族、とエルは考えているようだが、そう言うことでもない。

「いいえ、この男は、吸血鬼なのでございます」

「吸血鬼族?」

「はい。我輩は吸血鬼族」

 シュミルのネタ晴らしに、ムジナはそうなるとわかっていたかのように、自然に繋げる。

「その気になれば、すべての魔力を扱うことだって可能でございます」

 本来ならば、エルが言ったように魔族が神民の力を扱うことは不可能。あくまでも、本来ならばという前提条件つく。

 だが、吸血鬼族は己自身の体を他種族に変更させることが可能。魔族でない体になれば神民の魔力を扱うこともムジナにはできてしまう。吸血鬼族とは、無茶苦茶な種族なのだ。

「何の術かは知らないけど、私でよければいいよ」

「ほ、本当か!?」

 体をがばっと起こし、ムジナは両目を見開いて驚いていた。

 始めに言ったはずだ。協力を仰ぐのは簡単だと。仮に、今断られていても先輩の名前を出せば態度は変わっていただろう。

「うん。本当だよ。それで、君、名前は?」

「失礼しました。名を名乗らず」

 今更になって失礼ということに気付いたのか、ムジナは今一度姿勢を正し、名を名乗る。

「我輩は、吸血鬼族イラタゴ・ムジナである」

 手を前にした丁寧なお辞儀。

 エルもベッドから降り、ワンピース型の寝間着の端を持ち上げてお辞儀。

「私は、エル。第十三代女王アイ・ネミナスの娘。エル・ネミナス。よろしくね、ムジナ」

 和やかな雰囲気は一瞬。すぐさま本題に移す。

「エル様。我輩たちと共に来て欲しい」

「ここで術とやらを教えるのじゃダメなの?と、いうか、何をするのかも聞いてないんだけど」

「トリア、ルノ、セミルの蘇生」

「・・・え?」

 何を言っているのか、その意味をくみ取れなかったエルは天井を仰ぎ、腕を組み、挙動不審になりながら再度、問う。

「ごめん。もう一回言ってくれる?」

「トリア、ルノ、セミルの蘇生」

 ムジナは淡々と同じことを言った。それでもやはり意味が分からないという風に首を振った。

「蘇生?」

「うむ」

「そんなこと、できるの?」

「・・・」

「そこもはっきりと答えてほしかったかなぁ!?」

 はっきりと答えられるのなら、ムジナだってはっきりと答えていた。

 可能性の話でしかない。確率的には絶望的に成功率の低い可能性だ。

「エル様は、天使族の奇跡の話を」

「うん。よく知ってるよ。兵士に恋したお姫様のお話でしょ?よくわかってるけど、あれはおとぎ話だよ?」

 大の大人がおとぎ話を信じているのかと、呆れたように盛大なため息をついてエルは続ける。

「生物の蘇生なんてできるわけがない。やって無駄だってとわかっているなら、やらない方がましだよ」

 エルからは、協力しようという気が失せていた。

「エル様。お言葉ですが、誰が無駄だと決めつけたのでしょう」

 ムジナが逃がさないと言わんばかりに説得を試みる。

「誰かが決めつけたって・・・。今までいろんな研究者たちがそれをやろうとして、誰も成功していないんだよ?」

「えぇ。よくわかっていますとも。けど、失敗したというだけ。成功する見込みがないとでも、お思いですか?」

「それは、やがて成功して欲しいとは思うけど、無理なものは無理だよ」

 その言葉に、フッと息を吐いてムジナは両手を広げておどけて見せる。

「つまり、無理だと決めつけたのは、エル様自身ということになりますなぁ?」

「!?」

「失敗するとわかっている?否、失敗するかなんて、誰にも分らないだろう。少なくとも、試してみない限りはな」

 ムジナの視線が、エルの体の動きを封殺した。

「やって無駄?否である。やらなければ何も得ることはできない。やって、失敗して、この方法ではだめと言う成果を得る。それのどこに無駄がございましょう」

 言わんとしていることは分かる。だが、それでもエルには、

「トリアの蘇生が出来るのなら、私は死神にだって魂を売るよ。けど、それも出来ない。努力して、頑張った結果の失敗ほど、虚しいものはないよ」

 最愛の人を生き返らせるのなら、何でもする覚悟だってある。それでも一度途絶えた命が再度吹き返すというのは、世の理に反する。どれだけ頑張っても、結果はいつも一つ。

「姫様。この男の言葉を信じてあげてはいかがでしょうか」

 尚も意見を変えないエルに対し、シュミルが唐突に頭を下げた。あまりにも予想外の行動に、エルの心は簡単に揺らいだ。

 シュミル・フィンクス。この王城に仕えた経験のある執事。エルの傍にはいつもトリアがいたから、関わることも特になかったが、トリアを通して話は聞いていた。

 いわく、魔族以上に礼儀と常識を身についている。何か困ったことがあれば信用と信頼してよい。

 トリアも一目置いていた誠実青年。ここで断れば、トリアを裏切ることにもなるだろう。いくら彼がこの世にいないとしても、それは気がひける。

「シュミルさんが、そういうなら。けど、ムジナ、私には蘇生できるような魔力はないよ?」

「何をおっしゃって。その身に宿しているじゃないですか」

「え?」

 チョットナニイッテルノカワカラナイ。

 この身に宿している?それって、つまりどういうことなんですか?

 そう聞く前に、男二人がエルの方を見ていないことに気付いた。

「爺や・・・?」

 白髪、白髭、細い目をした側近が、無言で、動くこともなく二人の男を見る。

「事情は把握いたしました。しかし、姫様を連れて行こうなど言語道断。許されることではございません」

 細い目が見開かれ、鋭い眼光が姿を現す。放たれる殺気に、二人の男は目を合わせて頷いた。

「そうですか。では、わたくしたちは一旦退場します」

「それでは、お邪魔しました。エル様」

 あまりにもあっさりと引き下がる二人に、エルは目を丸くし、その横を二人は通り部屋についた大窓へと向かう。

 そのすれ違い際、ムジナは他には聞こえない声でエルに言った。

―こっそり抜け出して城壁外南東にきてください。

「え、あ、うん」

 誰にも気づかれないようにエルもうなずき、二人の男が窓から外へ飛び出すのを見届けた。

「エル様」

 爺やの咎めるような声。

「止めないで」

「えぇ、止めませんとも。あの方たちならばきっと大丈夫です」

 爺やの表情は心なしか和らいでいるようだった。

「後悔しないように。姫様のやりたいように。やってきてください。それでは失礼します」

 何事もなかったかのように爺やは部屋から退出し、部屋にはエル一人が残される。

 驚いている暇もない。ちゃんと許しが出たのだ。あの二人を待たせるわけにはいかない。

 クローゼットの奥からこっそり街に出る用の服を取り出し、寝間着からそれに着替える。

 机の引き出しからヘアゴムを二つ。それで髪を結い、ツインテールを作る。

 さらに着替えた上から丈の長いローブとフードを被り、開きっぱなしの窓から外に飛び出す。

 エルの部屋は、城の三階にある。そこからの落下は、天使族には何の支障もなく柔らかく着地できる。着地してから束の間、止まることなく闇に溶けるようにして未だ一般住民が押しかける門へと急ぐ。

「やや!姫様!侵入者との報せを受けましたが、ご無事でしたか」

「うん。何もなかったよ。あ、これからちょっと出かけてくるね。許可おりてるから」

「は!いってらっしゃいませ!」

 こうして、天使族の姫は堂々と正攻法で城から抜け出した。あとは、外周を走って二人と合流。

「思っていたよりもお早い」

「いつもよりやりやすかったからね」

「姫様・・・?」

 ムジナ、シュミル、エルの三人はとある場所の地下にあるムジナの隠れ家を目指す。

「ここの地下にこんなところがあったなんて」と興味深そうにしながら階段を降りていたエルは、部屋に安置されていた三人の遺体を見て言葉を失くしていた。

「トリア・・・」

 怒りに満ちた表情を浮かべた最愛の人の手を握り、エルはその名を呟く。

 受け入れたくなかった現実を改めて突き付けられ、意識せずともエルの目には涙が浮かんでいた。

 重力に従って流れるそれは頬を伝い、トリアの体を濡らす。

「・・・」

「・・・」

「・・・」

「・・・何も、起こらないよ?」

 エルがトリアを見つめたままムジナに訴える。

 エルだって、無理だと思っていて。それでもわずかな可能性にかけて、得られたものは、得ることが出来ないということ。

何の成果も得られなかったのに等しいではないか。

「大丈夫です。可能性は、エル様がいることでぐんと広がりました」

 それを聞いたエルとシュミルにはよく意味が分からず。ただ一人それを言った本人だけが不敵な笑みを浮かべる。

「エル様には、蘇生が出来るほどの魔力をその身に宿しているはずです」

「え?私が使える魔力は『ホーリーブライト』と『マインドコントロール』だけだよ?」

 違う。エルは気づいていないだけなのだ。他の天使族にはない光の魔力を己自身が持っていることに。ムジナはそれを、エルを一目見た時に感じ取った。

「エル様。自身の母君が何の魔力を持っているのかはご存知であるか?」

「そりゃもちろん。『ホーリーブライト』と、『リポース』安らぎの魔力だけど。それが何?」

「わからないのですか?」

「わからないから聞いてるんだよ?」

 エルは少しむっとして言い返す。

「エル様にも、同様の魔力があることを、自覚ないのですか?」

「私が、お母様と同じ魔力を?」

 エルは自分の胸に手を置いて考える。

 安らぎの魔力、『リポース』。天使族の王が持つ魔力であり、その直系、つまり一人娘であるエルに受け継がれているという。

 光属性で回復に長けた魔力。トリアの持つ『ブリリアント』さえ凌ぐ強大な力なのだとか。

 だが、エルにはその魔力の覚醒の兆しがなかったために、てっきり宿っていないのかと思っていた。

「姫様。魔力の発動とはイメージです。先輩、トリアが生き返るようにイメージしてはいかがでしょうか」

 頭で思い浮かべたものを具現化できるのが魔力と言う力。簡単でしょ?と肩をすくめるシュミルに、エルの心は静かな海のように穏やかになっていく。

 トリアの冷たい右手を自分の胸の前に両手で包み込むようにして握り、目を閉じて強く念じる。

 身体機能の全てが動き出し、目を開き、トリアが何もなかったあのように「おはよう」なんて言う。

 元気な姿を。素敵な笑顔を、私に見せてください。

 今までに感じたことがないほど自分の魔力が昂っているのがわかる。それが、トリアの体に流れていく感覚。不思議と、嫌な感じはしなかった。むしろ、心地いいくらいだった。

「おぉ」

「これは」

 ムジナとシュミルが感嘆の声を上げる。

 トリアの体が淡く輝きだし、怒りに満ちた顔も安らかな寝顔に変わった。

 そこまでだった。

 エルは目を開き、今までするのかを忘れていたかのように荒い呼吸を繰り返す。

 額には脂汗が滲み、左右のツインテールもそれに伴って上下する。

「ムジナァ」

 エルは今にも消えてしまいそうなほどのか細い声で名を呼んだ。

「やっぱり、出来なかったよ」

「何をおっしゃって。つまらない冗談はよしてください」

「ふぇ?」

 大粒の涙を目に浮かべたままエルは振り向いた。

「見たでしょう?トリアの表情が変わったのを。怒りのまま張り付いていた死者の仮面の一つが剥がれ落ちたのです。その結果として、安らかな寝顔になった」

 死者の表情が和らぐということ事態が異常なこと。もっと言えば、死して尚表情が残り続けるのも、だ。

 異常が通常になった。ならば、不可能を可能にすることも出来る。

 蘇生は現段階では成功していない。失敗はしたが、やはりで成果は得た。間違いなく、蘇生はできる。

「表情が変わったということは、この体にはまだ魂が宿っていると考えられるのです」

「魂が宿っていれば、蘇生はできるの?」

「かつて、文献でそう読んだ覚えがあります。ですが、まだまだ情報不足ですね」

 かつて読んだ文献の内容も、ムジナはもうほとんど覚えていない。数百年以上の前のことだ。記憶はどうしても薄れてしまう。

「まずは、情報収集と行きましょう」

 ムジナは座り込んでいるエルに手を差し出し、それを握ったエルは立ち上がる。

「この、上でね」

 ムジナの隠れ家は、とある場所の地下にある。

 シュミルだけではなく、天使族の姫すら予想だにしなかった場所。

 エンジェリング一の大図書館『ヴィブリス』にて。次の布石を打つことにする。

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