27話:旅行

「僕、こんな人間だったかな」

 千弘が思案する姿を溝口は初めて見た。千弘を見て鹿島がおろおろしているあたり、鹿島にも初めてのことなのだろう。事態はそれだけ重大だ、ということだ。乾いた砂のように本田の言うことを吸収していく溝口は、事態についていけないから何も思わないのであって、全てを消化しているからではない。


「……行くよ。行かなかったら一生後悔すると思うから」

 千弘は頭を抱えて随分悩んでいたが、最終的に本田のそばに座り、溝口と鹿島の方を見た。それにつられ、2人も本田の側に座る。4人が横一列に座った。

「なんでこの配置で座ろうと思ったの……?」

 千弘の率直でもっともな疑問に、溝口と鹿島が無言で元に戻る。


「ねえ本ちゃん」

 元の位置に座ったところで、千弘が本田を呼んだ。

「海外に行くのはわかったけど、その間、大学どうするの?」

 あっと溝口は声を上げた。忘れていた。出席重視の科目も多い溝口が、そうおいおいと何日も大学を休むことはできない。下手をすれば留年だ。それは自称「天下の法学部」である千弘も同じである。


「大丈夫だよ」

 本田は余裕だった。

「あるだろ、この時期にどの学部も授業をしない日が」

 そう言われて、溝口には思い当たる節があった。あったが、口に出すことはできなかった。実行するには恐ろしすぎる考えである。

「学祭だね」

 諦めきった千弘の言葉に本田が満面の笑みで頷く。やはりそうだ。溝口と千弘は同時に頭を抱える。


「おい待て」

 低い声を荒らげたのは鹿島だった。

「俺、学園祭で模擬店しなきゃいけないんだけど」

「じゃあ、爺ちゃんが学園祭の初日に死にますと言って交代してもらえ」

「そんな無茶な」

「腹痛で倒れて1週間休め」

 鹿島は諦めたらしく、スマートフォンでなにやら打ち始める。担当者と連絡を取っているらしい。


 しかし、千弘のしんみりとしたムード(溝口は、千弘は自分に酔っているのではないかと邪推している)を、一瞬で打ち砕いた人間がいた。鹿島だ。

「あ、俺パスポート持ってない」

 口をあんぐり開けて、千弘と溝口が同時に振り向く。

「持ってないの?」

「だって、生まれてから今まで海外に行ったことないもん」

 鹿島は全く悪びれもしない。

「俺は、英語がだめな本田のことだから、本田も持ってないのかと思ってた」

 だから、2人でのんびりパスポートを取りに行くつもりだったらしい。


「世界には英語が話せなくても、行ける国はたくさんあるだろ……」

「えっ、本ちゃん海外旅行なんか行ったことあるの?」

 千弘が大げさに驚く。本田は、むっとした顔をしたが、言われてもしょうがないのかと思い直したらしい。

「あるよ。友達と去年台湾に行った」

「そっちか。なるほどなるほど」

 彼女とカナダなんかに行く千弘には、近隣諸国への旅行など国内旅行と同じ扱いだったのだろう。新しい発想をありがとうとばかりに、逆に感嘆されてしまった。嫌味な人間である。


「ヒロはパスポート持ってるよね?」

 千弘の矛先は溝口に向く。溝口は自信満々だ

「高校の修学旅行でタイに行ったから、パスポート持ってるよ」

「……それ、期限大丈夫? 修学旅行の時って、パスポートの期限は5年でしょ」

「…………」

 溝口の自信を、千弘は一撃で打ち砕いた。

「期限数えてみて」


「最後に作ったのが高校2年生の11月の終わり頃、そこから高3、1浪、大学に入って3年だから、あと1ヶ月ある」

「いつ修学旅行に行ったのそれ……」

「1月だよ。あの時は、なんて面倒な時にって思ったけど、感謝だな」

 間に合ったと安堵する溝口だったが、千弘は容赦なく追い打ちをかける。

「それ入国できる?」

「……できないの?」

 喜んでいた溝口が、驚きと絶望の入り混じったような表情で聞き返す。


「EUに入ってる国って、大概がシェンゲン協定に加盟しているから、パスポートの残り期限が何ヶ月か必要だよ」

 シェンゲン協定などという言葉を出してくるあたり、さすがは、大学に入ってから何度もヨーロッパを旅行しているボンボンである。家族旅行だけではなく、彼女とも行っているのだろう。贅沢なことだ。


「となると、1ヶ月じゃダメだよね」

「そうだよ」

「となると、パスポート伸ばさないといけないよね……」

「そうだよ」

 溝口は頭を抱える。余裕をぶっこいていた先刻の自分を殴りたい。


「まあ、今気づいただけでもよしとしよう。俊一郎と一緒にパスポートセンター行ってきな。俊一郎、住民票はこっち?」

「大丈夫」

 住民票を移していなければ、非常に面倒なことになる。最悪の事態を回避して、千弘は安堵したようだった。


「ヒロは?」

「元から住民票はここ。引っ越す前は実家から通ってたし」

「じゃあ簡単じゃん。2週間あったら取りにいけるでしょ」

 ここに引っ越す前は実家から通っていた溝口は、住民票の心配をしているわけではない。パスポートを取得するのにかかる手間がとにかく嫌なのである。


「あのさ」

 本田はすまなそうな顔をして、そうっと千弘と溝口の間に割り込む。

「申し訳ないんだけど、出発日は1週間後なんだよね」

「嘘でしょ?」

 千弘は目を剥いた。千弘から、くりっとした目がこぼれ落ちそうだ。

「だって、学祭の日に合わせて日程組んでるんだもん」

 舌打ちらしい声が聞こえてきた。普段、内心で何を思っているかはともかく、表に出さない人間の千弘が、ここまでやるとは珍しい。溝口は火の粉が飛ぶのを防ぐべく、こっそり千弘から遠のく。


「それ、遅らせられないの?」

 千弘の矢が向いたのは、やはり本田だった。

「無理だって。学祭じゃないと、大学休んで海外なんかいけないし、向こうでのイベントもあるから、動かすのは絶対無理だよ。第一、この計画が立案されてた時点で、学祭まで2週間切ってたよ」

 本田の必死の答えに千弘は頭を抱えている。しばらく千弘は何やら考え、難しい顔でスマートフォンを触っていたが、何か案を考えついたらしくはっと顔を上げた。

「国崎さんに聞いたら、渡航日程が近いってことと、急な渡航だってことも証明できるよね?」

「それくらいなら俺でもできるよ」

 よし、と千弘は頷く。


「諸々持ってある窓口に行けば、4日程度でパスポートを発行してくれるらしい」

「そうなの?」

「費用は高く付くけど、差額はADLERに出してもらおう」

 珍しく、真剣な顔つきで打開策を探す千弘に、思わず溝口は感動を覚えた。たまにこういう普段と違う顔をみせるから、あんなに可愛い彼女ができるのだろう。


「あのさあ本ちゃん、海外に行くなら、パスポート揃えるのが最優先でしょ」

「ごめん……」

 本田は正座で素直に反省している。溝口は、自分と千弘で、本田姉を覗いた時を思い出した。あの時と真逆である。

「鹿島が海外に行ったことがないっていうのは、僕でもわかったよ」

「ごめん……」


 後から聞いたところによると、千弘は随分と偉そうに本田に説教をかましているが、実は彼女との旅行で似たようなことになり、大げんかになったことがあるらしい。同じ轍を踏ませないための愛の鞭と言えば聞こえはいいが、実際は、苦い思い出を掘り返されるのが嫌だったのだろう。

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