23話:自責

「暗号を仕込んだのは、罪悪感からですか?」

 相手に対して微笑むというのに慣れていない本田は、苦笑ではなく半笑いとなっていることにも気づかず尋ねた。わざわざ尋ねたりなんかする理由は、簡単だった。国崎のやったことが中途半端すぎたからである。


 そもそも、この内容の暗号を仕込むこと自体が、彼女の母国からの指令に反する。一方で、この暗号を解けるのは本田のソフトを持っているもののみだ。暗号を解ける立場にある者すら少なく、そもそもが暗号であるとすら気づかれにくい。さらに、暗号を仕込むことのできる立場にある人間も数少ない。


 今回は奇跡的に暗号が解かれたが、本来、暗号解読の期待値はほぼないと言っていいだろう。解きにくい暗号は暗号として優秀だが、解かれない暗号を仕込むのは無意味だ。本人の自己満足を除けば。


「罪悪感……なんだと思います。どうしても、何かしないと気が済まなくて」

 今所属している支社と母国の支社の指令の食い違いに悩まされ、しかも母国の指令の方は、日本支社どころかこの電子世界そのものを裏切るものだ。堪能な日本語を見るに、日本も彼女の祖国のひとつだろう。2国の血に板挟みにされる、その苦悩は本田には計り知れないほど大きいに違いない。


「支社ぐるみでやってるのか、暴走したのか知りませんけど、メリットの割にダメージが大きすぎませんか?」

 ここのあたりは、国崎を責めるというよりは、面倒ごとを引き起こした某国支社に対する本田の愚痴である。

「ダメージについては、私にはなんとも言えませんが、支社ぐるみではありません。私に指示を出したのは重役のひとり、おそらく独断です」


「これは大きな声で言えることではないのですけど……。本田さんもご存知だと思いますが、今の米国本社の会長、おりますでしょう」

「ああ、あの有名な」

 ADLERの会長で有名というよりは、ADLER設立者としても起業家としても金持ちとしても有名、つまりマルチに有名な人である。

「経営の前線を退くらしいんです」

 そっと本田に耳打ちをした。


「え、あの人やめるんですか」

 思わず大きな声になる。本田は慌てて周囲を見渡した。周囲の客の注目を集めることはなかったが、具体名を出したら一大事になる。


「ま、まあ、噂になってから時間は経ってますし、社員は皆知っていることですし、メディアも掴んでいるはずの情報ではあるんですけどね」

 国崎は本田に言うというより、自分に暗示をかけて落ち着かせているように見える。本田は申し訳なさに、小さい体をさらに小さくした。


「会長職の後に入るのは今のCEOであろうというのは予想されているのですが、そこで空くCEOの座に誰が入るかということなんです」

「米国本社の副社長とかじゃないんですか」

「だけではなく、各国支社のCEOも候補なんです」

「それで、後釜争いってことですか」

「日本ADLERは、今回のネットショックの件についての功績で、CEOの中でもトップの候補になったんです」

 争いの筋はおおよそ理解できた。この野望のために、本田姉弟と日本ADLERを巻き込んだのかと考えると、急に気だるくなってくる。隣の家の夫婦喧嘩を仲裁している気分だ。


「それで日本支社を潰すために、プロジェクトfixerに、何かプログラムを仕込んだということですか」

 本田は頭の中で計算を始める。プロジェクトfixerが立案されてから、実際にが完成するのが1週間だった。国崎に指示を出し、それと同時に「特殊なプログラム」を組んでfixerに組み込むのに許される時間は5日程度と考えていい。凄まじい速さだが、その能力を他に活かせば、正攻法で本社CEOになれるだろうに。


「はい。計画の全貌は知りませんが、それは確かです」

「その重役が独断で指示を出したというのがよくわからないところなんですけど」

「私の母国の支社のCEOは、本社CEOになることになんて興味がないんです。ずっと母国で働いてきたので、母国にずっといたいのでしょう」

「でも、その方はそうは思わなかった、と」

「母国支社のCEOを本社のCEOにすれば、次にCEOの座を得るのが、その重役である可能性も十分あります。連鎖的に椅子が空くわけです。母国支社からCEOが出れば、本社だって扱いを変えます。おいしい話です」

 出世の熱意に燃えるのはいいが、非常に回りくどい陰謀である。


「もちろん、それだけじゃありません。最近昇進したものですから、彼にはストックオプションがまだ与えられていないんです」

 ストックオプションとは、大企業の重役が、給料を金銭ではなく株式でもらう権利である。大企業の中には、当然ADLERも含まれる。日本も含め、役員の多くが資産をADLERの株式で保有している。「ENIGMA」を提供して報酬として大量の株式を得た本田も、似た状況といえば似た状況である。


「もし、第2次ネットショックが起これば、世界中のADLERの役員はただじゃすみません。保有する個人資産的にも、他の役員に大きな差をつけることができます」

 本田の頭が痛くなってきた。最初、重役と言って役職を誤魔化した国崎だったが、ボロが出てしまっている。まず間違いなく、対象は役員だろう。

 役員ともなると、長年ADLERで働き、ADLERに身を捧げ、ADLERに仕えてきたのだろう。それを根底から覆すような行為をやる役員が実在するとは恐ろしい話だ。背任という次元ではない。もしこの話が外部に漏れたら、大スキャンダルだ。


「その野望のために、こんな大胆な手を使ったということですか……?」

 今回の第2次ネットショックの動機は、第1次ネットショックのような、札束にもできないような大金が動くといった、より大きい規模のものを想定していた。それが、ある企業の重役の野望だと考えると、途端にばからしくなってくる。

「だから重役になれるんですよ」

 会ったこともないはずの自分の元上司を、本田が心底軽蔑したのを感じたせいか、国崎は非常に恥ずかしそうに答えた。


「別に、普段からこういうことをされる方ではありません。ですが、理由があればなんだってやる、だから出世するんです」

 国崎にとって、その上司がどういう存在なのか、本田にはわからない。この国崎の淡い表情を見る限り、尊敬はしていても憧れの対象ではなさそうだ。


「ですが、それでも、こんな手をわざわざ選んだりしますかね」

 国崎の説明を聞いても、やはり大胆すぎるやり方にしか思えなかった。

「それはですね……彼の経歴が関係してくると思います」

 その上司というのが具体的に誰なのかわかってしまうからか、国崎はその男の素性についてはあまり話そうとしてこなかった。だが、とうとう腹をくくったらしい。


「経歴、というのは、出自ということですか」

 幼い頃にトラウマがあって上を目指さずにはいられない、かわいそうな人間なのか、と本田は妄想を重ねるが、国崎に伝わってしまったのか、彼女は少し引いた顔で首を振る。本田は大きなショックを受けた。

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