道を歩けば端に植物
永田電磁郎
第1話 貧乏草とは何事だ~ヒメジョオン・ハルジオン
昭和四十年代半ばから五十年代初頭の頃の話である。
私は、生まれてから小学校に上がる半年前まで、東京都西多摩郡羽村町(現 羽村市)の多摩川沿にあった借家に住んでいた。目の前には多摩川があったが、堤防の下には、ちょうど流れが緩やかになるような場所があった。誰が捨てたのか、野良のアヒルがそこに何羽も住み着いていて、そのアヒルにパンやら何やらの餌をやるのが日課になっていた。大雨が降れば、川辺から避難してきたナメクジで堤防が覆われていたり、家の風呂桶の下に大きな青大将が入り込んで捕り物騒ぎになったり、母と一緒に土手のゲンノショウコやヨモギを摘みに行ったりと、今思えば、かなり自然に恵まれた環境だった。
借家は大家さんの敷地内に全部で四軒ほどあったろうか。四軒の真ん中には広場のようなスペースがあって、夏になれば、そこで各家が持ち寄って納涼のイベントなどしたような記憶もあり、それぞれが助け合って生活していた。
そのうちの何軒かに幼稚園~小学校低学年位の子供がいた。少し年上の子供が三人、年下の子が一人、いたような気がする。バレエやピアノのレッスンがないときは、幼稚園から帰ってきた後、いつも遊んでもらっていたと思う。色んな遊びを教わった。ただ。ほとんどが年上なので、おみそ扱いもしばしばあった。それがちょっと悔しかったりもした。
ある時の事だ。子供たちのうちの誰かが、白だったり、ピンクだったりする、その辺に生えている可愛い花の事を「貧乏草」と言ったのだ。
ところが、私はその花が好きだった。花には、貧乏などと蔑まれるいわれも無いだろう。私はとても悔しかった。あまりにも悔しかったので、わざわざ図鑑で調べて「これは貧乏草ではない、ハルジオンというのだ!」と大騒ぎをしたのだった。
なんて空気を読めない、そして頑固な子供だったのだろうと思う。普段から仲良く遊んでもらっている仲間に対してやるような事じゃなかったと思う。大人の目から見ても、相当、厄介な子供だったに違いない。
にもかかわらず、母は「よく調べたね」と私を褒めてくれたのだった。子の個性を認める、良い母親のエピソードのようにも取れるが、その後、五十歳に手が届く年齢になった今でさえ、この話を蒸し返そうとするときがあるので、あまり深い考えはないような気もする。
今ではとても恥ずかしいエピソードなのだが、調べる事の楽しさを知ったきっかけであったようにも思う。
ハルジオン(春紫苑)とヒメジョオン(姫女苑)はとてもよく似ているので、私が調べたのがどっちだったのか、今では調べようもないが、この二種の区別をつけたいなら、茎を折ればいい。
茎が中空ならハルジオン、詰まっていたらヒメジョオンである。
なお、この「貧乏草よばわり」問題は、小学校でも同級生と言い争いになった事があり、かなり長い間こだわっていたのだが、中学に上がるまでには、すっかりそのこだわりは消えてしまった。どうしてそこまでこだわったのか、理由は思い出せないのだが、今でも、この可憐な花を貧乏呼ばわりすることには抵抗がある。
ちなみに、ハルジオンもヒメジョオンも元々は観賞用に輸入されたものである。勝手に連れてきておいて、貧乏などと名付けられて、哀れ極まりない。
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