死に逝く空の彼方に1~腐食の霧と天空奏者~

シエル・カプリス

プロローグ

――空を見せてやりたい。


 ただそれだけの願いだった筈なのに、望むことはそれ程までの罪だったのだろうか。平穏な日常は唐突に砕け散った。硝子のように音を立てて。

 太陽の日差しを模したかのような金の髪に、空をそのまま吸い込んだような蒼い瞳の青年は仰いだ空から目を逸らせなかった。

 多くを望んだわけでは無かった。ただ大切な人との願いを叶える為だけに生きてきた。特別何かをした訳ではない。青年はただ生きていて欲しかったのだ。約束の人が残したたった二つの宝物に。

 赤い血が飛沫となって空を覆った。青い空など、そこには無かった。灰色の雲を覆い隠すほどの大量の鮮血が大輪の花を咲かせている。


「―― っ」


 言葉は出なかった。ただ息の途切れる音が漏れただけ。

 悔しさも苛立ちも青年には無かった。唐突な終わりが思考を一時的に奪う。光を失いかけた蒼い瞳は逸らされることなく、頭上から降り注ぐ赤い雨を見つめる。

 生暖かい雨が男の頬を、黒い衣服を濡らす。

 これが誰の血で今どこにいるのか。何もかもを見失うほどに、脳内で赤い闇が広がりつつあった。かろうじて踏みとどまった意識ではあったが、遠巻きに見ている村の人間達が口々に叫んだ罵声も嘲笑の声も響かない。轟々と騒ぎ立てる音を赤い闇が全て飲み込んでいく。

 赤い雨が自分のところに降り注ぐのをただただ待ち続けた。雨の正体がいったい何であるのかは考えない。考えるという概念そのものが意識の外に排除されて いた。雨の先にある残酷な真実にフィルターをかけて、ただじっと瞬きもせずに、ただ凝視するしかなかった。

 涙というものが男に流せたのであれば、微動だにせず透明の雫を流し続けたかもしれない。だが、青年には涙というものは存在しなかった。

 何かが空から降ってくる。

 黒い雲の合間から、太陽が覗いた。青い空に差し込んだ光、だがそれが照らし出したのは希望ではなかった。

 平面のように世界は二面だった。まるで広がる赤が絵具のようで、現実味が無かった。だが、差し込んだ光が二面の世界に影と輪郭を齎した。いっそ、平面の ままであれば良かったのにと望む暇さえ与えずに。

 落ちて来たのはまだ齢幾ばくも無い少年の亡骸だった。

 青年はこの少年をよく知っていた。

 ほんの数秒前までこの命を失った塊は、生きていた。生きて男の事をこう呼んでいた――、


「おとうさん」


 ――と。

 走馬灯のように青年の脳裏に浮かんだのは、少年を腕に抱いた初めての日のこと。

 その日はとても悲しい日だった。男にとって大事な人がいなくなった日だから。

 大事な人がいなくなった日にその子は生まれたのだ。大事な人の命と引き換えに。

 けして手放さないと心に決めた。何があってもこの子を無事に育て上げると。大切な人の望み通り、人間として育てあげると。それが、大事な人を助けられな かった自分に出来る愛の示し方だと。

 けれど、妻の形見でしか無かった子供も気がつくと妻とは別の独立した存在となっていた。男自身の大切な宝物の一つに。

 笑ってくれれば嬉しくて、その笑顔を守りたいと思った。


 ――守りたいと思っていた。


 腕の中に小さな体を受け止める。生ぬるい感触が男の指の隙間から流れ落ちていく。まだ体は温かかった。


 六つ――。

 病弱でこの歳まで生きて来られるのかも怪しかった。風邪を引けば隣の町まで走って病院に連れて行った。体調を崩すたびに、病院へと走った。やっとの事で繋いで来た命。父親と呼んでくれたあの日。

 血のつながりも越えて、守りたいと願った命。

 それが今腕の中で、急速に温もりを失っていく。


「父さん!」


 びくりと肩を震わせて青年は振り向いた。視界の先にいたのは、青年によく似た少年だった。十二、三歳の少年もまた青年の息子の一人だった。揃いの制服を着た男たちに手足を抑えられ、頭に銃を突きつけられている。

 咄嗟に体が動いていた。


 ――この子まで失うわけにはいかない。


 だが、男が傭兵達に立ち向かう意思を示すかのように一歩踏み出そうとした瞬間、少年に向けられた銃の引き金がぴくりと動いた。

 引き金を引こうとしている。


「父さん! 後ろ!」


 少年は構わずに叫ぶ。もがきながら、必死に父親である青年に向かって。

 鈍い衝撃が、腹部に走った。息子の警告でガードが間に合っていた為、数メートルの距離を殴り飛ばされる程度で済んだが、攻撃を凌ごうとした腕があらぬ角 度に曲がっていた。砕けた骨が肉を突き破って顔を出している。


「……一撃を受けて、その程度で済むか」


 巨体の侵略者の言うとおり、人間であれば一溜りも無かっただろう。一撃で、腕は粉々になっていたに違いない。

 だが、青年は『人間では無かった』。

ダメージを受けた腕の肉が盛り上がるように蠢く、飛び出した骨が腕の中へと潜って行く。


「化け物だな……」


 呟かれた一言に男は歯を食いしばった。


「そうだ、俺は化け物だ」


 冷たくなった我が子の体を地面に横たえる。

 涙も流せはしない。

 身体能力も人間を遥かに凌いでいる。

 それでも、人間として生きることが不可能だなんて思ったことは一度も無かった。確かに力は隠し続けて来た。過去との接触も絶った。村の人間と打ち解ける努力も惜しまなかった。用心棒として村の役にたってきた自負もある。

  無事に隠しきれると、育てきれると信じていた。

 だが、結果は――。

 巨躯の侵略者は男に無慈悲な言葉をかける。


「今度避ければ、あの餓鬼の命も亡くなるぞ」


 囁かれた言葉に体が硬直し、避けきれず男の拳を直に腹部に受けた。重い衝撃に体が吹き飛び、民家の壁に激突する。壁に激突した傷は些細なものだったが、 腹部のダメージは深刻だった。撃ち抜かれこそしなかったが、内部の肉が破裂し 、内臓が形を維持していない。頭部にこの一撃を受けていたら、間違いなく終わっていた。

 砂の上を歩く音、破滅音が徐々に男に近づいた。

 子供を連れて逃げるのは簡単だった。力を解放して、侵略者達の手から子供を奪い取り、高い空の果てに逃げればいい。

 簡単なことだ。化け物である自分にとっては容易いことだ。

 けれども、それをしてはいけないことは分かっていた。連れ去れば追われる。永遠に追われ続ける。その度に自分に向かってくるものを殺し続けていてはきりがない。子供は永遠に人間として生きる術を失うだろう。子供たちを人間として育てあげることは、亡くした妻への誓いでもある。

 攻撃を加えようとしていた巨躯の者は次の一撃を躊躇った。それは、青年が足にまとわりついて来たからだ。這いずるような状態で、片足に縋り付く。折ろうと思えば簡単だ。だが、それも耐えなければならない。


「助けて、くれないか」


 今にも泣き出しそうな声を青年は絞り出した。

 巨漢はしがみついた青年を引きはがそうとはしなかった。


「俺の命はどうなっても、構わない」



 息子だけは、息子だけはと足にしがみつく青年の形相は今にも泣きだしそうだった。けれどもその瞳から涙が零れおちることはやはりなかった。

 命乞いを嘲る周囲の声が一層大きくなったが、しがみつかれていた巨漢は静かだった。


「……奇形種でもそんな言葉を吐くんだな」


 静かな声で男に問いかける。


「見逃すと思うか」


 巨漢の声が低く、聞き取りづらくなる。青年は相手が攻撃する事を躊躇い始めたことに気がついた。分かってもらえるかもしれないと淡い期待が胸を過ぎる。しがみついたまま顔を上げて、声を張り上げる。


「それでも、頼む」


 曲がらない瞳。真っすぐな瞳、哀願する瞳は青く澄んでいた。

 面食らった顔で、巨漢は立ち尽くす。


「どうして―― 戦おうとしない。あんたの力なら俺なんて簡単に殺せるんじゃないのか」


 答えは考えるまでもなかった。


「それが約束だからだ」


 揺らぐことの無い強い口調と眼光を受けて、一瞬だけ巨漢の瞳が揺れた。間を置いて、「約束しよう」という声が青年の耳に飛び込む。


「せめてあの子は見逃してやろう、俺が守ってやろう」


 巨漢はそういって、青年の頭に手をかけた。巨膂力は受けた攻撃の数で知っている。このまま手に力を入れられれば簡単に頭は砕かれてしまうだろう。

 それでも構わないと青年は思った。息子が助かるのならそれでいいと。

 巨漢が手に力を込めるのと、男の後ろで発砲音がしたのは殆ど同時だった。


「な、ちょっと待て」


 慌てたように巨漢が叫んだ。頭から手を離し、振り返る。

 青年もそれにつられたように振り返った。そして、目を見開いた。

 地面を彩る潜血が男の視線を引きつけて話さなかった。

 地面に押し付けられていた少年の頭が、真っ赤に染まっている。さっき危ないと叫んだばかりの我が子が。


「見せしめは一人で十分だろう」


 男が何か叫んだが、青年の耳には届かなかった。

 横たわった躯をじっと見つめる。ぴくぴくと痙攣する腕はまだ生のある証ではなく、ただの生体反応。一瞬で守りたかったものは、二つともただ躯と化した。


「持ち場を離れないでください」


「何をしてるんです早く奇形種にとどめを」


 男は髪を描き上げて舌打ちする。そして烈火の如く襲いかかってくるに違いない青年を警戒し臨戦態勢に戻ろうとして拳を解いた。

 茫然としたように立ち尽くす青年の眼は虚ろだった。力が抜けたように肩を落とし、見開いたままの瞳から零れおちていたものは――。

 太陽の光がこぼれ落ちるかのように、金色の光が雫となり青年の頬を伝っていた。落ちた光は男の膝の上で砕けて粉となり消える。はらりはらりと零れ落ちる雫は止まることがなかった。

 ゆっくりと立ち上がり、男は歩きだした。ざわめきだっていた村の人間達が、一斉に口を噤む。誰一人として危害を加えようと立ち止まるものはいなかった。落ちる度に弾けて消えていく光は止まらない。

 事切れていた下の子を拾い上げて、青年は今殺されたばかりの上の子の元へと歩いた。青年の歩く道から人々が遠ざかり、そこには開けた道が出来た。 青年は二人の子を自分の腕に抱きしめると、堅く目を閉じた。


「ごめんな、約束を――破らせてくれ」


 一言呟いて、男は笑う。

 呟きと共に広がる白い翼。

 周囲の人間達は唖然としてその光景を見ていた。広がって行く白い翼はあたかも神話に出てくる天使のようで、暖かく優しい光を放っている。

 四枚目の翼が開く。金色の光が輝くとき、その場にいる全ての者が武器を落とした。温かな光は、胸に浸透し、その場に居るもの全ての傷を癒した。

 滅びと破壊の力を持つ奇形種に決して宿ることの無い筈の光を放ちながら、男は笑う。悲しく、そして優しい笑顔で。


「愛しているよ」


 命を失った二人の子供に呟いた。

 まばゆい光となって青年の体は霧散していく。その姿は神話に出てくる天使のようだった。傷を負った者達の傷が急速に癒えていく。

 青年は形がまだ残った掌でそっと子供達の頬を撫でた。


「俺は先に行く、お前たちはまだ来るんじゃないぞ」



 強く二人の体を抱きしめる腕もまた光となって消えていく。光は抱きしめた亡骸に注ぎ込まれていく。




「願っているよ」


 お前達がいつか――。


 呟きかけた言葉がかすれて消えていく。

 残されたのは横たわり、冷たくなった二つの子供の体。



 ひらりひらりと舞い落ちた白い羽が一枚、重なり合った子供達の上に落ちて溶けるように染み込んでいった。

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