――四年後


 都内にあるバーで、僕は壇上に立っていた。

 ステージと言ってもカウンター脇にある小さなスペースで、バンドが一つ入ればそれでいっぱいいっぱいなものだった。

 僕は丸イスに腰掛けて、アンプに繋がれたリヴィエラを肩から提げている。そんな僕の隣には、レスポールを抱えた奏純がいた。

 スポットライトが瞬くのは、どのステージでも同じだ。橙色に近い淡い光が煌めいて、ステージにいる奏者を照らし出す。もしライトがなければ、アーティストはただの有象無象の一人としかなり得ない。ステージとはそういうもので、有象無象に一条の光を与えてくれる魔法の空間だった。

 僕はこの四年の間に、数々のステージにあがってきた。地元のライブハウスをツテに、そのまま大学進学とともに上京し、いまでは多少の手応えは得ている。とはいえ、僕に似合うのはカウンターバーでこぢんまりと演奏することだった。

 実際、この日僕が立っていたステージもそのようなものだった。ライブハウスというよりも、バーカウンターに小さなステージが併設されているだけだと言ったほうがいい。何せカウンターの方がステージより大きいのだから。カウンター後方にならぶ世界各地のウィスキーコレクションのほうが、ステージ機材より金がかかっているように思える。

 でも、僕はそれでよかった。

 小さなイスの上で、僕は深く息を吸ってからリヴィエラを構えた。

 カウンター席を見ると、僕のほうを見つめる観客が数人見えた。バーに入れるのは、多く見積もっても十人前後。そんな小さなハコだが、それでも演奏できれば僕には十分だった。

「こんばんは、お久しぶりです、泉です。まずはいつも通りオアシスで。『シャンパン・スーパー・ノヴァ』を」

 言って、僕は隣に座る奏純に目配せした。

 リヴィエラのボディを軽く叩き、リズムを取る。それから、僕はピックを優しく弦に這わせた。Aadd9から静かに『シャンパン・スーパー・ノヴァ』のイントロを始める。

「How many special people change? How many lives are living strange?」


     *


 僕は、大学生になってからこうしたバーで演奏を続けている。僕と、奏純との二人だけで。その始まりは、シスターズ・ルーム解散後に僕がギターを始めたこと。奏純と一緒に練習をしたこと。そのほかたび重なる偶然による。

 高校卒業後、僕と奏純は二人そろって同じ大学に合格した。そして今では都内に二人でアパートを借りて、半同棲に近い暮らしをしている。実際はほぼ同棲に近いものだけれど、親には内緒なので一人暮らしということになっている。

 大学生になっても、僕は音楽をやめなかった。姉を追いかけたかったから……。なにより楽しかったから。何度かやめようとしたけれど、趣味の呪縛とでもいうものが僕を掴んではなさなかった。そのせいで僕は、こうして人前で演奏を続けている。誰が聴こうが、聴かまいが構わない。僕はただやりたいことを、この学生というなんでもできる時分のうちにやっておこうと思っただけだ。

 しかし意外と思うかもしれないが、僕らは大学の軽音サークルなどには入ってはいない。入ってもよかったのだけれど、体験入会の際に違和感を覚えて、結局入らなかった。奏純はちょっと残念そうにしていたけれど、僕はなんだか乗り気になれなかったからだ。そして結局、「二人でもバンドはできるだろ?」という僕の言葉で、二人とも軽音サークルに入ることはなかった。

 入らなかった理由は何か? そう問われると、僕は答えるのが難しい。きっとその答えは、僕がシスターズ・ルームから逃げ出した理由を今になってようやくわかったように、もう少し時間が経たないとわからないだろう。

 でも結果的にそれで正解だったと思う。二人でもバンドはできたのだから。ドラムの代わりにタンバリンかハイハットぐらいは用意しておいて。それにギター二人にボーカルとコーラスだけでどうにでもなった。ロックバンドというよりは、フォークデュオみたいになっているかもしれないけれど。でも、それで十分だった。


     *


 ――僕たちがハイになってたとき、君はどこにいたんだ?

 そう問いかけたところで、僕はリヴィエラから静かに手を離し、目を瞑った。そして奏純が最後を閉じるように音を響かせ、一曲目が終わった。

 観客から静かな拍手。十人も入れないバーでは、拍手に厚みがない。でも、一つ一つの重さはデカいハコモノの比ではなかった。

 そのときの僕と言えば、なぜだろう。もう五年近くも前なのに、初めて人前でライブをしたことを思い出した。シスターズ・ルームとして、バー・セヴンで初めて歌った日のことだ。

 あのときの僕は、まだギターのギの字も知らなかった。弾けないどころか、いったいどうすれば音が出るかもよくわかっていなかったと思う。ただ、姉に引っ張られて歌っていただけだった。

 僕はそんなセンチメンタルな思いに駆られて、思わずそれを言葉にした。

「実は僕が初めて歌ったのも、こんな小さなバーだったんです。ピンチヒッターで、寄せ集めの高校生バンドみたいなものだったんですけど。……次はそのときの曲をやろうと思います。『シスターズ・ルーム』という曲です」

 僕がそう言ったとき、奏純が後ろから熱視線を送ってきた。それもそのはず。当初のセットリストでは、このあと『ホワットエヴァー』を演奏する予定だったからだ。オリジナル曲をやる予定はまったくなかった。だから奏純は僕を責め立てるような視線を送ってきた。

 だけど僕がリヴィエラを降ろし、床に置いたタンバリンを手に取ったときには、さすがに彼女も諦めていた。僕がこうなったときは、もうどうしようも手が着けられないと知っているからだ。その点、彼女は僕のことを熟知している。僕は、ときおり姉のような突発的強情さを発揮することがあるのだ。

「それではお聴きください」

 タンバリンを静かに叩く。

 感傷的に、懐古趣味に。


     *


 ライブは、十一時を軽く過ぎたころには終わった。そのころにはもう客の数人は帰り始めていて、夜の街もゆっくりと朝の静けさを取り戻しつつあった。

 僕と奏純はギターをハードケースにしまいこんでから、カウンターに腰を下ろした。

 演奏後の一杯はいつもマスターのおごりだった。僕はジェムソンのウィスキー・ソーダ。奏純はあまり強くないくせに綺麗だからと言ってグラスホッパーを頼んだ。「ミントが好きなの」と彼女は言ったが、前に同じことを言ってミントジュレップだのなんだのを頼んだ結果、酔いつぶれたことがあった。

 店内にはビートルズの『抱きしめたい』が流れていた。落ち着いた暗い暖色系の明かりに包まれた店内に、古いロックミュージックは似合う。

 僕は気泡の群れたちを静かに喉奥に流し込みながら、その音楽に耳を傾けていた。ただ曲に聴き入るだけ。必要以上に物は語らない。僕はもともと無口なほうだったけれど、酒が入るとさらに静かになるタチだった。

 一方、奏純はアルコールが入るとやけに元気になる。そのせいで、いつも構ってくれない僕にヤキモチを妬いていた。

「マスターってばさぁ、さっきの雄貴の演奏見てたでしょ。まったく信じられないわよ。突然セトリにないことやり出すんだもん」

 言って、奏純はグラスをコースターに押しつけた。ハープの描かれたギネスビールのコースターだった。ちょうど弦に這うようにして水滴が残った。

 カウンターを挟んだ向こうでは、マスターがグラスを拭いていた。気さくだが、少々人見知りな一面がある彼は、しかし打ち解けてしまえば話の分かるナイスミドルだ。

「どういうことだい。二人はいつも通りいい演奏だったじゃないか。あの曲――『シスターズ・ルーム』って曲は初めて聴いたけれど。あんなオリジナル曲があったなんて、知らなかったよ」

「あの曲にはいろいろと曰くがあるんですよ。雄貴が高校生だったときバンド組んでてね、そのときの曲なんですよ」

「でも、二人は確か軽音部じゃなくて、帰宅部じゃなかったっけ?」

「はい、そうだったんです」と僕。

 マスターがそう訝しげに問うたので、奏純が言う前に僕が答えた。奏純に言わせておくと、きっと余計なことまでベラベラ喋るに決まっていたからだ。シスコンだとか何だとか。シスターズ・ルームの話をベラベラと。

「でも、バンドを組んでたときがあったんです。僕はボーカルで、そのころはまだギターはやってなかったんですけど。でもまあ、そのときのおかげで今の僕があって。さっきの曲は、ちょうどそのバンドの初ライブの時に歌った曲だったんです」

「ウチみたいなバーで?」

「もっとこぢんまりとしてました。田舎でしたし」

「へぇ……。しかし、とても学生バンドが作ったとは思えない曲だったけれど。あれは泉君が作曲を?」

「いえ、あれは――」

 そう言いかけたとき、ジーンズのポケットの中でスマホが震えた。マナーモードにしていたので、僕は震えているのにしばらく気づいていなかった。

「すみません、電話みたいで」

 一言断って、僕は席を立つ。別に外に出なくてもよかったのに、僕はわざわざ店の外に出た。

 外は二月の寒空に包まれていた。もう冬は終わりかけているはずなのに、息を吐くと途端に白くなり、空へと消えていく。空は黒く濁っていて、都会の喧噪をそのまま反射しているようだった。

 着信は母さんからだった。画面をスライドして電話に出ると、僕は白い息で言った。

「もしもし。母さんどうしたの、こんな時間に?」

「それはこっちの台詞よ。メール見てなかったの?」

「メール?」

「そう。夕方に送ったはずよ」

「あー、それは……ごめん、たぶん確認してない。」

 夕方といえば、奏純とライブの準備をしていた。それからすぐさまリハーサル、ライブだったので、メールを確認している余裕などなかった。

「じゃあ、何も聞いてないのね」

「何もって。いったいなにが?」

「あのね、お姉ちゃん結婚するのよ」

「は?」

 思わず、喉から空気が漏れた。それは声ではなく、反射的に飛び出た空気の流れのようだった。喉の筋肉が弛緩して、一気に漏れ出た間抜けな音だ。

「姉さんが……なんだって?」

「結婚するんですって。今日彼氏連れてきたのよ。びっくりしちゃった。彼氏紹介するだけだと思ったら、急に結婚するなんて言って婚姻届出してくるんだから」

「それ……本当?」

「本当よ。結婚式、六月にするらしいから。あんたもそのときには戻ってきなさいって。将来のお義兄さんに挨拶したほうがいいし」

「……うん」

「じゃあ、また今度。詳しいことがわかったら教えるわね」

 母さんからの電話は、そこで切れた。

 僕はそのまま、都会の空を見上げながら呆然としていた。どうしてだろう。姉さんのことは、ずっと前に卒業したと思ってたのに……。今になって僕は、涙を頬に浮かべていた。


 二十歳を過ぎれば、涙をコントロールする術ぐらい知っているはずだ。それなのに、僕は母さんからの電話を受けて涙をこぼした。それは悲しかったからなのか、嬉しかったからなのか。自分にもよくわからない。

 それから化粧室で顔だけ洗うと、僕らはマスターのおごりを飲み干して自宅に戻った。といっても、バーから自宅までは歩いていける距離だった。ほろ酔い気分で、二十分くらいの軽い散歩道だ。

 それまでは、僕も涙をコントロールできていた。感情を抑えられていた。帰り道の夜風が冷たくしみても、僕はセンチメンタルな気持ちになることはなかった。なのにマンションについたとたん、急に脱力してしまったのだ。

 僕はギターと上着を片づける――もとい床に投げると、倒れるようにソファーに腰掛けた。一瞬で力が抜けていった。そして、涙腺が崩壊した。

「ちょっと、ギターはちゃんと片づけてよ。一応アマチュアでも商売道具なんだからさ。……って、なに雄貴、泣いてるの?」

 おせっかいな奏純は、ようやく異変に気づいたらしい。僕の顔をのぞき込んで、それから不安げな表情をした。酔った時の彼女は、何より感情がよく顔に出る。黙り込む僕とは正反対で、いつも以上に素の彼女が出てくるのだ。このときもそうだった。

「なにかあったのね」

「……なにもないよ」

「ウソね。ほら、酔ったついでにゲロッちゃいなさいよ。どうせアタシにはウソつけないってわかってるでしょ?」

 奏純は僕を見透かしたように言って、ギターを部屋の奥に片づけた。

 それから彼女は冷蔵庫をあけて、中にあった缶チューハイと適当なツマミを取り出した。

「……実はさ、さっき母さんから電話があったんだ」

「電話? ああ、さっきの。……まさか身内に不幸がとか、そういうんじゃ……」

「不幸じゃないよ。むしろ幸だ。姉さんがさ、結婚するんって言うんだよ」

 そのとき、奏純から突然饒舌さが消えた。代わりにチューハイの缶がプルタブを開く小気味良い音を鳴らした。

 奏純はそのままチューハイ片手に僕の隣に座った。僕ら二人でバイト代を出し合って買った小さなソファーは、二人座ればそれでいっぱいいっぱい。肩を触れずには二人で座れない大きさだ。

「あーあ、あきれた。ほんっと、あきれた。なによ、まーたシスコン再発させてるわけか。お姉さんが結婚するから泣いてるって。なに、そんな嬉しいの? それとも悲しいの?」

 やけっぱちに言ってから、奏純は缶チューハイをグビッと飲んだ。白い喉をアルコールが通り抜け、彼女の頬を紅潮させる。奏純はさらに裏表がなくなっているように見えた。

 一方僕は冷静で――涙は流していたけれど――ツマミのチーズに手をつけた。

「わかんないよ。でも……なんか、感傷的になったんだ」

「そうね。たしかに今日の雄貴、なんかおかしいよ。急にシスターズ・ルームのときの曲をやり始めるし、お姉さんの結婚聞いて泣き出すし。もしかして約束のこと忘れたの?」

「約束って?」

 僕がトボケてそう言うと、彼女は顔を近づけてきた。酒臭い息を顔に浴びせながら、奏純は僕の腕に絡んでくる。

「あのさぁ、付き合うとき約束したじゃん。シスコンは卒業するってさ。じゃなきゃアタシ、ぜったいに付き合わないって」

「ああ、そう言えばそんな約束してたな……。じゃあ、いまからでも別れるか?」

「バカ。そうは言ってないじゃないの!」

 逆ギレ。

 そんな彼女もかわいいと僕は思ったけれど、いまは姉さんのことで頭がいっぱいだった。

 僕は奏純の頭をぼんやりと撫でながら、姉さんのことを思った。


 姉さんとは、もう長いこと会っていなかった。

 思えば僕が姉離れできたのはいつのことだろう? 明確にはわからないけれど、きっと奏純と付き合い始めたころ。あるいは東京で一人暮らしを始めたころだったと思う。

 シスターズ・ルームが解散して以来、姉さんと僕との関係は緩やかに離れつつあった。いや、きっと姉さんが大学生になった時からそうなりつつはあったのだと思う。姉弟の懐かしい関係は静かに失せていって、僕らは各々の道を進み始めたのだ。

 長らく姉のことは思っていなかった。考えない日はなかったけれど、尊敬と恋慕が入り交じったようなあの思いは薄れていた。きっとそれは、奏純のせいだ。

 午前三時過ぎ。壁掛け時計がチクタクと音を鳴らすなか、僕は眠れずにベッドの中にいた。暖房は節約で切り続けているため、外気は冷たい。しかし布団の中はぬくかった。

 ダブルサイズのベッドには、傍らで奏純が寝息を立てている。さっきまでの威勢はまったくウソのように静かで、澄ました寝顔は日中の彼女を疑ってしまうほどだ。

 僕は彼女の黒髪を静かに撫で、軽く抱き寄せてから、枕に頭をあて直した。それは僕にとって一つの儀式だったと思う。思い起こされる姉への恋慕をかき消すための、一つの方程式。

 すると奏純は無意識のうちに体をモゾモゾと動かし、それから少しだけ僕のほうに頭をもたれかけた。髪が静かに揺れて、シャンプーの香りが華やいだ。微香をくすぐる優しいにおいは、しかし僕の心の中のざわつきすべてを押さえられるほど力はなかった。

 ――いまの僕に必要なのは、癒しでも現実逃避でもない。

 時計が奏でる一定のドラムビートに耳を傾けながら、僕は頭の中で音楽を再生した。聴きたいのは、心を落ち着けてくれる曲のはずだ。なのに聞こえてきたのは姉さんの曲だった。

 ――僕に必要なのは、ひとつのケジメだ。

「……奏純、一つやりたいことがあるんだ」

 寝ぼけたような声で僕は言った。

 奏純は寝息を立てるだけで何も応えなかった。

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